馬八のこと
参考資料 植松逸聖氏著『中央線』第19号 1981刊 一部加筆
『白州町誌』その他掲載カ所に記す 一部加筆
馬八は実在の人か
オーヤレヨー 馬八や 馬鹿と おしゃれども
馬八の唄きくやつは なお馬鹿
序にかえて
歴史と伝説とは大きな違いを持つ。歴史とは確かな資料を持つものであり、伝説の多くは創作されたものが多い。ここで取り上げる馬八節も、史実なのか、伝説なのか、確かな資料を持たないので、これ以上言及できない。
諸説をあげて読者の判断に委ねたい。
参考資料 植松逸聖氏著『中央線』第19号 1981刊
1981刊 一部加筆
馬八節の主、馬八のことについて、私は、実在して人物だったのか、それとも架空の人物だったかということについて、よく質問されることがある。
これも、その一つであるが、昨年(昭和五十四年)十二月十三日、「白州町おらが村の馬八節」というテレビ番組が、放送されたことがある。
そのビデオ撮りが、放送の約二週間前に、白州町の入大坊で行われた。私も同行をもとめられたので、現地に行ったことがある。
その時番組を担当していたデレクターの緒方氏から
「どう馬八は、私の感じでは実在の人でなく、架空の人に思えてなりませんが」と、半ば質問のような形で話しかけられたことがある。
あまり突然だったので
「さあ、なんとも云えませんが」と、軽く返事をしてしまったが、悪いことしたといって、
「馬八の生れた所は、この入大坊であると云うことは、誰もが一様に云っていることなので、多分間違いないと思うけれど、さてこの土地の何処の、どの辺かと云うことになると、その場所を的格に教えてくれる人は一人もいない。
入大坊で生れて、隣村である山高の、溝口六兵衛義憐方に雇われて、美しい声で歌を唄いながら、馬を追って使い走りをしていたということを、溝口家の後代、甲府市中央二丁目風月堂の故溝口豊氏から聞いているので、実在した人とは思うけれど、ただ不思議に思えることは、馬八の生れた年代や、何日何処で死んだかということは一切不明で、村中の何処を探しても、そのお墓らしいものは見つかっていない。そんな事から考えると、馬八は、或は架空の人物であるような、気がしないばかりでもない」と、返事をしたことを覚えている。
実のところ、三十年前までは、馬八白身のことについては、あまり知られておらず、馬八節は、馬八という馬子がうたった唄だというくらいしか知らなかったようである。
ところが、最近の民謡ブームに乗って、馬八節が有名になってくると、急に馬八という人はこういう人だったとか、ああいう人だったと、色々論議をするようになって、幽(かす)かに残っていたらしい民話をめぐって空想し、憶測をし、恋物語などからませて、語り合われるようになった。
それに枝葉をつけ、うまく取纏めて、「馬八物語」という小説を書いたのが、元武川村農業協同組合長、故平田鉄寿(泉鳳)で、これを、韮崎市内で発行されている。『峡北新報』という旬刊紙に、昭和三十八年一月一日から、同年四月十五日迄の紙面に連載きれて、大きな反響を呼んだことがある。
また、同年十月十一日には、韮崎市制九週年記念祝賀行事の一つとして、韮崎市文化協会が、二葉百合子という女流浪曲師を頼んで、旧韮崎西中学校体育館で、「哀調馬八節」と題して口演して貰った。例の名調子に、馬八節を交えて熱演したので、満場の聴衆がすっかり感動してしまったことがある。
こんな事から、これ等二つの物語は、馬八とは、こういう人だったのかと、人々に強く受止められて、ほとんど実説化してしまったようである。
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