- 平田作 馬八物語
平田鉄寿は、泉鳳と号して、農政通であると同時に、文学面にも優れた才能をもち、殊に民謡に関して造詣も深く、特に馬八節はこの上もなく愛していた。
彼の書いた「馬八物語」の概要は、次の通りである。
中央線日野春駅を下車すると、西の方に、甲斐駒ケ岳の俊嶺な勇姿を眺めながら下に降りる。その坂は、今では自動車も走る坂道になっているが、その昔は、野猿返しといって、猿でさえ引返すほどの、急な坂道であった。
今でも土地の古老は、昔からの縁起をかついで、お嫁入りの時には、この坂道を通らず、たとえ遠廻りでも、外の道を選んだという。
この野猿返しを、降り切った所が、古くから人に知られている。甲斐の米所武川村である。ここに馬八節は発祥し、悲恋の物語を残している。
(流石、武川村農協の組合長だけに、武川米の宣伝を忘れていないが、武川村となったのは、昭和の年代に入ってからのことで、その昔は新富、武里という二つの村であった。)
この武川村の山高(昔は山高村)から、三里程離れた韮崎の宿へ毎日のように馬の手綱を引いて、唄をうたいながら通う、可愛い小年馬子があった。それが馬八で、この少年馬子は、いつしかこの地方の名物男になってしまった。
彼は道筋の多くの人達と、いつともなしに仲よしになって、可愛がられるし、用事を頼まれても、嫌な顔一つせず、その日のうちに用を足してやったので、非常に重宝がられもした。
また馬八は、人情も厚く真面目で、その上、彼の唄声はこの近辺にない美しい声だったのが、忽ち有名になり、それからは、馬子馬八のうたう唄は、この地方はおろか、国中一円にひろがって行った。
そんな馬八にも悲しい思い出があった。それは、頑是(註 ガンゼ 分別)なかった、四つ五つの頃だった。隣近所の子供たちが遊んでいるので仲間に入れて貰おうすると、
「馬八、お前にゃあ親がないじゃんか、親なし子なんどと、遊ばんぞ、向え行っちまえ」
と、いつも遊んでもくれず、仲間外れにされていた。
或日のこと、母親のお定が狂い死にしたことを、悪童どもに罵しられ、たまりかねた馬八は、家に帰って祖父の庄右衛門にしがみついて、泣き叫びながら、
「お祖父やん、俺にゃあ、お父もお母もないのけ、何んで無いんだよ」と、
せがまれて、庄右衛門もほとほと困ったが、
「そうか、お前がせめて十五になったら、詳しく話してやろうと思っていたが、それまで云うなら話してやるからよく聞けよ」と云って、
「それは天正十年だった。武田勝頼が織田と徳川の軍勢に攻められて、新府のお城が落ちてしまった。
この日の暮れ方、大坊村のこの家に、傷だらけで疲れきった様子の武士が辿りついて、
「拙者は、武田の家臣で黒田八右衛門と申す者であるが、信州諏訪口の戦に敗れてかくの通り、暫くの間、吾が身をかくまってくれ」
と、拝むようにして云われたから、武田のお武士じゃ仕方がないと思って、家に匿ってやることにした。
当時は、お定と云って一人娘と二人きりの暮しだった。親の口から云うのもおかしいが、気だてが良くて、綺麗(器量)よしで、小町娘と云はれた程の美人だった。お袋が早く死んだので、それからは俺の手助けをして、家の事の一切を切盛りしていた。
それが、八右衛門を匿っているうらに、何時の間にか二人の仲が出来ちゃって、お定は八右衛門の子をお腹に宿してしまった。
それから八右衛門は、お家の再興を図らねばと云って、お定に自分の子供が居るのも気づかずに、再会を約束して出て行ってしまった。間もなく月満ちて、お定は赤子を生んだ。その赤子が、馬八お前だ。それだから、お前の父親は立派なお侍だ。これが、お前の父親の残していった刀だ、よく見ろよ。」と、云って大小二振の刃を馬八の前に差出した。
「じゃあ、おいらは武士の子だったのか」
馬八の驚きは大きかったが、子供心にも武士の子であるという自覚が襲ったのか、それからというものは、悪童どもの威しにも、からかいにも乗らなかった。
馬八は十三才になって、近所に世話をする人があって、山高村の馬大尽の所に奉公に行く事になった。馬八は生来馬が好きだったので、馬大尽の所へ喜んで行った。馬大尽の家には大勢の奉公人がいて賑やかだったので淋しさはなかったが、それで大坊に残した独りボッチの祖父の事を考えると、胸が痛んで夜など眠れぬ事ともあって、寝床の中でシクシク泣いて、夜を明かすことも多かった。
馬八は、骨身惜しまずクルクルと働いて、主人から喜ばれ、同僚や先輩からも可愛がられた。
馬八が二十になった時、始めて主人から東雲(しののめ)という馬をあてがわれた。前の馬よりも立派で、馬八とは良く気心が合い、馬八の云うことをよく聞いてくれたので、馬八は尚一層精を出して働いた。
若者になった馬八は男振りもよく、気品があって人に親切だったので、村中の人達に可愛がられたが、村の若い娘達にもてはやされて、引く手数多だったが、馬八は一向に振向きもしなかった。
ただその中で、「おまさ」という横手村の娘で綺麗よしの娘と、何時の間にか恋を囁くようになって、夜毎の逢瀬を楽しみ、末は夫婦と固い契りを交すようになった。
ところが、同じ村に助定という悪党がいて、これがおまきに横恋慕して、何度言いよっても、馬八という者がいるおまきは返事をするわけがなかった。
そこで助定は、馬八がいるかぎり、おまきが靡(なび)くわけがない、いっそ馬八を殺してしまえと思って、或日暮れ時、仕事帰りの馬八を首匕(あいくち)で切殺して、大武川の淵に投げこんでしまった。
翌朝になって、おまきは馬八が殺されて、大武川の淵に投げ込まれたと聞くと、悲しみの余り気狂いのようになって、馬八が投げこまれた淵に身を投げて死んでしまった。
その日の夕方、大武川が釜無川に合流する所の浅瀬に、馬八とおまさは、折重なるように打ちあげられていた。
村の人達は二人の死を大変憐れに思って、手厚く葬り供養をした。
一方、悪覚の助定も、流石に良心の苛頓に耐えかねて、二人が死んだ淵に投身自殺をしてしまった。
オーヤレヨー恋の馬八 おまさ女と ともにあの世で 仲よく
平田鉄寿は、この「馬八物語」を、このような唄をつくって結んでいる。
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