韮崎偉人伝 生山正方 『北巨摩郡勢一班』
生山正方
幕府時代の学者として教育家として最も顕著なる人物は生山兵部藤原正方を推さねばならぬ。氏は穴山村石水に生れ、穂見神社祠官で従五位の下大隅守に任ぜられ、初めの名は兵部、諱は正方、秋齊または君舟と号す。
幼くして頴悟稍、長じて甲斐の碩學加賀美光章の門に入り、和漢の学を極め、出藍の誉があった。彼の勤皇家として有名な山縣大弐の同門弟である。
後京都に遊学して日野大納言資矩の門に和歌を学び、郷に帰りて家塾を開き子弟を教養した。遠近その学風を慕いて門下に集まる者、その数うべからず。
門下より俊才を輩出して、各々その郷里で子弟を教育したから、郡下好学の風靡然として起こり、現今の根底を成したと称しても過言ではない。寛成(一七八九~)の始め、正方が郷学に尽くす由を聞き、清水黄門卿より特に「聖論」・「庭訓世範」の二書を賜り、遥かにその篤学を賞せられた。文政十三年(一八三〇)九月七日を、齢六十七を以て卆した。
その六十の雅の自詠に曰く
いざ共に心すみ行く月を見む
萬千秋の長秋の宿。
以てその風懐を知るべきである。
生山正方 韮崎市(旧穴山村)『峡北地方物故文化人集』
堀内(田力 リク)一郎 一部加筆
石水組に生る。穂見神社の神職にて、従五位下に赦せられ大隅守に祠官す。初名を兵部、秋齊または君舟と号す。
正方は甲斐の碩学加賀美光章の門に入り、国学漢学を学ぶ、勤王家山県大弐とは同門弟である。
のち京都に遊学して大納言日野資枝、同資菅矩の門に和歌を学び、帰郷して天明八年(一七八八)稲倉塾舎を開き子弟を教授する。
近郷その学風を慕いて門に集る者四百余人。
神山村矢崎好貫、片山村栗原信敬、駒井村宮沢重卿、円野村越石保定の如き高弟は師の志を継ぎ、文教を維持せり。
寛政初年(一七八九)、正方郷学に尽す事を聞き、清水黄門卿特に「聖論」、「庭訓世範」の二書を賜る。遥かにその勤皇王敬神篤学の精神を賞せり。
文政十三年(一八三〇)九月七日六十七才にて歿する。其の死と共に塾舎を閉じる。
其の子豊後守正方、孫、河内守正方何れも篤学の士であった。
六十の賀
いさ共に心すみ行く月を見む
萬千秋の長秋の宿
政吉思昔
いふのかみ千代のふる道ふみみれば
いとと昔のしたはるる哉
『甲斐叢記』
☆ 生山正方 忘川 巻の七
忘れ川行瀬の水の早けれど
やどかる月の影は流れず
☆ 生山正方 鳳凰山 巻の七
あし引きの山わけ衣うら安く
大鳥が根をけふ見つるかも
☆ 生山正方 酒折宮 巻の八
えみしらをことむけましゝ當昔を
おもへば久し神垣の松
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます