たくましき鎌倉女性たち
男装の麗人白拍子、尼将軍政子、
阿仏尼など男に伍して意志を貫き精力的に生きた女性たち
対談 日本女性史 源平鎌倉編
白洲正子(評論家)vs馬場あき子(歌人)
『歴史と旅』特集幕末維新の女性史
昭和50年 新年特集号 記載
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
古く『万葉集』には「遊行女婦」という語がみえるように、平安時代にも水辺の遊女や一所不住の傀儡師などの遊芸人が施芸をもって生活をしていた。
だが、平家時代から源平争乱期にかけては、代わって白拍子が活躍するようになる。
源義経の愛妾静御前、平清盛の寵を得た祇王、その祇王の推挙によって清盛に愛された仏御前、彼女たちは、男装して舞を舞う芸一筋の白拍子であった。しかし、動乱の世は、彼女たちにさまざまな運命の変転をもたらした。
白洲 祇園女御は、白河法皇が祇園の近くの井戸端で水汲んでいたのを拾い上げて妾にした女性です。そういう身分を度外視した大胆なことは、院政だから出来たことで、自由だったんですわ。円山公園には祇園女御の墓というのがあります。
馬場 そうですね。素姓の分からない人間が、す-っと歴史の舞台の中心に上ってくる背景というのは、ちょうど時代の変わり目で、天皇宗が院政時代をひらき、摂関家を押さえて政治権力に新しい時代を打ち開いていこうとした時だからですね。しかし、祇園女御のような女性が登場するというのは、権力有るものがその身分的自戒や、制度によって保たれている権威以上に、自らの人間的欲求に目覚めたということであったとしても、愛された女人もろとも、決して人間が解放されたということではないですね。
ただ、こういうことはいえると思います。祇園女御という人物が世の注目を浴びつつ存在できたということは、たとえば『源氏物語』の「蛸壷」の更衣の悲劇が、身分の制度のきびしさを背景として生まれていた時代に比べたとき、はや、すでにまるで違った時代がはじまっていたということです。
世を掟てるきまりや倫理が、いつのまにか緩みに緩んで、公私の別がなくなり、貴族は世を維持していたきまりを自ら無視しはじめたということでしょうか。だから、祇園女御のような人物も一人だけ取り出して考えるよりも、たとえばこの頃でしょう、白拍子などが職業的に成立しはじめるのも。そして、こ
の白拍子女たちの精彩にみちた活動を考えてみますと、この時代の女人の新鮮な自立精神というのも魅力的で、院政期から鎌倉初期にかけて、貴族は代々の
院をはじめとして、この新時代を感じさせる白拍子に、かなり魅かれているという感じですね。
それでは、白拍子とは一体何なのかというと、それこそ遡れば『遊女記』や『傀儡記』まではいかなければならないけれど……。
白洲 静御前や、その母磯禅師、それから平清盛の妾であった厳島内侍という巫女も、やはり舞姫で白拍子のようなものです。白拍子は巫女の系統をひいていますからね。烏帽子に白い水干(狩衣の一種)を着て、男装をして今様を歌い、舞も舞った。あの時代には非常に魅力的な女性だったのでしょう。でも、わけのわからないところから出てきた人たちですね。祇王・祇女の姉妹も、清盛に大変愛されていましたが、仏御前が現われたために、迫われてしまう哀れな白拍子です。前にわたくし、彼女らが生まれたという祇王村というところに行ったことがあります。近江の鏡山から北へ入った野洲川の河口の広い田圃の中にあり、とても景色のきれいなところです。そこにも嵯峨と同じように祇王寺というお寺があって、そこで祇王さんゆかりのもの何か残っていますか、と土地の人に訊ねたの。ジーパンをはいた若者でしたが、祇王が堤を作ったとか、濯漑用水をどうしたとかよく知っていました。土地ではまるで神様みたいに思っているのね。その村全体がそうで、一種の祇王信仰のようなものが残っているのに驚きました。
その村に伝わる伝説ですと、祇王のお父さんは北面の武士で、保元の乱で戦死したことになっているんです。でも、わたくしはもっと身分が低かったと思っています。たとえ武士の娘であっても落ちぶれて、いわゆる河原に住んでいたような人たちですね。それは仏御前も同じですよ。わたくしは仏御前ゆかり
の地にも行ったの。
馬場 加賀ですか。
白洲 ええ。加賀の小松から白山の方へ入ったこんもりした山あいの村で、仏の愿といっています。祇王さんと違って仏御前はとても可哀そうです。尼になってふる里へ帰っていくのですが、そうすると村の女たちに大変嫌われて、苛め殺されてしまうんです。
馬場 すごい伝説が残っているんですね。
白洲 けれども殺したあとで仏御前のことがいろいろとわかってきて、村人は気の毒になってその供養塔を建てるんですね。源平時代の大変きれいな五輪の塔が、今も林の中に残っています。勿論、本ものかどうかはわかりませんけれど、邸跡までわかっていて、観光地ではないだけに信じないわけにはいかな
くなる。
馬場 何で憎まれるんですか。
白洲 やきもちではないかと思うんです。というのも、そこには白山信仰が強く、巫女のような身分の低い階級の人たちが、都の栄華を見、成り上ったというんで、普通の村の農家の女たちは、とても蔑んだのではないかと思うの。やきもちと蔑みで、それでひどい目にあうんです。とにかくその土地にはそう
いう話が残っているんです。
馬場 面白い話ですね。
白洲 白山の麗であり、村の鎮守の社として白山神社の末社がある。わたくしの想像では、仏御前はそういうところの巫女からだんだんのし上がって、清盛の寵をうける。それで叔父さんが京都の白川あたりに住んでいるところへ先ず訪ねて行くんですが、白川というところが、やはり遊女の出るような場所で
すからね。このころになると、とても自由になって、淀川の河口など、遊女は方々にいますね。
馬場 港にはむかしからずっと遊女がいますね。
白洲 源義朝の行くところにも遊女はいますね。
馬場 美濃の遊女は傀儡師系の遊女なんです。
白洲 熊野(やゆ)だってそうでしょう。遠江池田の宿の長だから勢力があり、お母さんが権力を持っていたらしいですね。この時分になりますと、かなり組織されてくるんです。それと、西行法師が江口の渡しで雨にあって、遊女の家に雨宿りしようとして、断わられたので、
世の中をいとふまでこそ難からめ 仮りの宿りを惜しむ君かな
という歌を詠むと、遊女が連座に返歌する。
世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ
そういう話が『選集抄』でしたかに、のっています。
それから書写山の性空上人も、室ノ津の遊女が今様を歌っている姿に、普賢菩薩を感得するという説話もあって、その両方をアレンジしてお能の「江口」とか、歌舞伎の「時雨西行」に脚色されるんですね。彼女たちは即興で歌も詠むんです。だから無学ではできない。相当見識があり才能があった。即興で詠
った、後世に残っていく、『梁塵秘抄』なんかそれが多いようですね。それを見るとわかるのは、今様の歌は非常に宗教的です。白拍子は神社から出ているのが多いから、やはり巫女のような性格があったと思うの。
馬場 白拍子というのは、これは能に詳しい白洲さんがよく御存知のことですけど、素拍子なのですよね。いまの雨だれ拍子、四分の二ですか、それで歌った。
白拍子の背景というのは、『遊女記』や 『傀儡記』をみると、耕す土地も持たない、かなり貧しい人たちが、川の流域を中心に生活を立てている。耕さないで税金を納めないで暮らしていくためには、人間を相手に暮らすしかなくって、男は狩猟して、女は身体をひさいでいたというのが遊女、傀儡女なので
すけれど、院政の時代には遊女、傀儡師の特色がある程度わかってきて、傀儡師系の人たちの方が芸熱心だったという人もいます。
院政期に歌の上手さをもってかなりクローズアップされてくる。
白洲 傀儡師のほうは旅をしますね。早くいえば、旅廻りの人形使いなのだけど、その人形が元は神様なんです。やはり歌を詠って人形を舞わせた。
馬場 当時のいろいろな説話をみると、貴族が詠んだ歌なんかもよく勉強していて、宴会に召されるとそれを詠ったりする。
白洲 替え歌を詠ったりね。
馬場 静御前の「吉野出陣の白雪」も「しづやしづ」も、静の歌ではなくて、本歌は『古今集』の壬生忠岑の歌と『伊勢物語』の歌ですからね。ほんのちょっと直すとあれになる。つまり、この場で何を詠うかという臨機応変の才をもっていて、選ぶ能力がある。それから、滝川政次郎さんがいわれるには、男
装したのは男の商売に対応するためということですよ。つまり男色の全盛時代でしょう。
女が男装することによって生まれる妖しい一つの雰同気が喜ばれたので、その舞も・男舞といったんですね。言葉としては今も能に残っています。
白洲 今でいえば、宝塚の鳳蘭とかいう男役で人気がある人がいますが、あの感じに似ていますね。しかも白拍子の場合、身分は大変低いところから出ている。低いというより神社の巫女や傀儡師みたいに、普通の人とは全々違う世界の住人でしょう。
馬場 しかし、白拍子・傀儡師・遊女たちはいずれも誇り高く志も潔かった。なぜかというと、その「芸」一つをもって世間に価値を問うという場に生きていたからで、後白河院の『梁塵毬抄口伝集』などみましても、ものすごい修業ぶりが出ています。
何しろパトロンの後白河院自身でさえ、声を割ること三度、咽喉がはれて湯水も通らない有様に堪えて、七、八十日から百日、はては千日歌い通すという稽古ぶりですから、それに認められるためにはたいへんな修業がいったんでしょう。ある新人女性は眠気を妨げるために腿毛を抜いたりして稽古に励んだと
あります。
こういうことを背景として、祇王や仏や静が出てきているということですね。彼女たちは身分は違うけれども、芸を持ってトップクラスの男とつき合っていた。いくら相手が位を持っていようが、お金があろうが、自分は芸を持っているという誇りがあったんです。
白洲 それは能の世界だけではなく、江戸の吉原にまで続いています。
馬場 そうですね、仏御前なんかも清盛の邸に出かけてゆくとき「遊び者のならひ、何か苦しがるべき、推参してみん」という放胆な発言をしていますが、そうした芸一本を楯にした解放的な人間性があったわけです。
またもう一つ、そういう大胆さが養われた精神的基盤といいますか、生活的底辺といいますか、そういうものを彼女らはもっていたのですね。たとえば、『傀儡記』なんかみると、一人の芸人の芸をみている群衆の素姓をかい
たところがあります。Aという芸人を支持しているBという男にはこれこれの背景と動員力があるとか、また、Cという男は何にかかわってどこに顔が利くとか、いちいち掲げて総合してみれば、世間に門戸を張って威張っている貴族よりも実質的には一人のすぐれた芸人が持っている背景の力の方がずっと広く、深く、恐ろしいほどのものなんです。だからこそ「何か苦しがるべき」となるんですね。
白洲 それから室町時代になるけれど、同朋衆ね。庭作る人とか、芸人とか、とにかく日本の芸術は、底辺の広いそういう下層階級から生まれて来るものが多い。
馬場 そういう集団が支援して、そのバックアップによって白拍子がいる。底辺を握っているんだから、中世になると諜報機関の何かさえ肢たせるわけです。
白洲 そうそう。わたくしは世阿弥もそうで、一種のスパイだったと思う、忍者も繋がっているんです。だからとてもそこまで書けないわけです。あれは惜しいことですよね。わたくしなんか本当は大変尊敬しているんですけれどね。
馬場 祇王は毎月百石百八のお給料をもらっていますね。どのくらいの財産だったのでしょう。月見な祇王はその給料を割いて故郷の人たちのために土木工事を起こしたりしている。役役の力への見返りをきちんと分けているんですね。もしかしたら、仏御前はそれをやらなかったから殺されてしまったんでは
ないかしら(笑)。
白洲 仏御前はそういうことは少しもやってはいない(笑)。
馬場 ただ『平家物語』の書き方で非常に面白いのは、祇王と仏御前が話している言葉で共通の言葉があるの。それは
「祇王御前の思い給はん心のうち、恥づかしうさぶらふべし」、
片方は「仏御前の思い給はん……」この白拍子世界での一つの仁義として、恥ずかしいことをしてはならないという倫理観があった。それは芸人としての相手を尊重するということになると思いますが、そうした芸人魂において、すごく誇り高い人だった。相手の立場を尊重するということは、人間性の問題にも還元できますけれど、それ以上にここでは芸だと思う。芸人として相手の立場を尊市しない者は、芸人としての自分の立場も尊
重されない。そういう芸人の仁義というものが表面に出てきはじめた時代だったらしい。
白洲 だから仏御前だって、別に祇王を蹴とばして清盛の寵愛を得ようとは思っていなかったわけですよ。ただそこらにいて可愛いがってもらえればいいと思って行ったのが……。
馬場 自分が寵愛を奪ったので恥ずかしいんですね。
白洲 居たたまれなくなる。
馬場 静御前もやはり恥に生きた女じゃないかしら。それが鶴岡八幡宮の舞にも出てくるわけです。ああいう場合に、すべて自分の立場を放棄して頼朝バンザイをやったら、まさに白拍子の恥になるわけですね。
白洲 後世に伝えられると居たたまれない気がしたのでしょう。
馬場 何を詠ったかということがね(笑)。
白洲 静御前は白拍子の子ですからよけいそういう教育が行き届いていたと思うの。
馬場 だから『吾妻鏡』に残されたその場面は、政子と静御前の一騎討ちという感じですね。政子は大きいところを示して包容力のある寛容な立場をとったんですよね。静御前が義経の行方を憂い、そのあとを慕う和歌を上げて舞を舞ったのは頼朝に対する不遜の行為ではなく、真摯な女の情であって、同情し
賞むべきであっても咎めるべきではないと、政子はいって、数々の引出物をとらせますけれど、同時に、自分が昔、石橋山の頼朝敗走の情報に接したときの、今の静以上の志を切々と述べて頼朝を感動させている。情において、女は共通のものを持っているということ、あれはなかなかうまい政治的発言ですね。頼朝に対してもちゃんと売り込みが出来ている(笑)。
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