第九章 荒本田守武
荒木田守武は、伊勢内宮の祠官にして、正四位上主中川太平夫と称し、荒木田守秀の九男にして、母は藤浪氏經の女なり、朝庭奉祈のいとまに、和漢の文を明らめ、風雅の道を翫びて、逍遥院實隆の人となりを慕ひ、宗祗、宗長、宗牧、周桂等らと交を結びたり。
守武は初め連歌に入り、後、連歌の束縛を脱して、俳諧の吟詠に力む、彼れの此の世に出でしは、宗鑑に稍や後れたれば、宗鑑の『犬筑波』が、永正十一年に成りて後ち二十六年、即ち天文九年の秋、彼れの『獨吟千句』は成れり、彼れの俳壇に於ける事業は、素より宗鑑の先美導ありしに因るべけれども、俳諧連歌の純正なるものとして、彼れの斯道に貢献せる偉功は、宗鑑の糟粕以外に、之れを認めざるべからず、『獨吟千句』の跋に曰く、
其の折柄にやありけん、周桂かたへこの道の式目いまだ見ず、みやこには如何と、
大方のむね尋ねしかば、かゝる式目は予こそ定むべけれ、定めてそれを用ゆべき、
のざれたる返事くだりあはせ、さらばこのたびばかり、
心にまかせん、所にいひならはせる俗言、わたくしきれたる心言葉、
一向はらほつうつゝなき事のみなれど、あまたの中なれば、薄く濃く打ませけり。
是に観るも、彼れが従来の連歌の法式に拘はらずして、別に一個の法式を立てゝ其所謂俳諧に力を蓋したるを知るべし。然れども守武は徒らに滑稽詼謔のみを以て、人の願を解かんとはせざりしなり。同千句の跋、更に語を続けて曰く、
さて俳諧とて、みだりにし、笑はせんとばかりはいかん。
花實を具へ、風流にしてしかも一句正しく、さておかしくあらんやうに、
世々の好士の教えなり。
この千句はそれをもとちめす、とくみたしたき初一念ばかりに、
春秋二 句結びたる所もあるべし。
されども正風雅人の茸にも入りじきに、聊かもきこえんはからざる幸ならん哉。
その上二つ三つ妙句なきにしもあらず、また差合も時によるべきにや、
しひて直さんもしうしんいかがなり。云々。
守武の俳諧に対する見識は、宗鑑よりも慥かに進みたり。その花實を具へ、風流にして、しかも一句ただしく、さてをかしからんを要すといへるは、彼れが俳諧に對する最奥の理想にして、更に之れを煎じ詰むれば、彼はをかしからん事を要する為に俳諧を作らんとしたるなり。譃
然も彼の所副をかしみとは、果して如何なるものを指すか、宗鑑もまた嘗(かつ)てをかしみを以て其の骨髄たらしめんと力めたれども、宗鑑のをかしみは、道に流れて、卑猥醜悪の域に入れり、若しも文學上の賜光を以て其の作品を批評する時は、守武の詼謔(かいきゃく)なれども卑猥醜悪に陥らざるに比して、宗鑑之れに一歩を譲らざるを得ず。即ち守武は宗鑑より其の上品なる事に於て一段上にありし也。
守武曾て大永の比、世に所謂『伊勢論語』即ち『世の中百首』を詠じて伊勢人に修身道徳の事を誨(おし)へたるを以て見るも、其の品性の高尚にして、徳を重んじたる人なりしを知るべし。守武の滑稽が甚しき點にまで陷(おちい)らざりしは、必竟其の人物の然らしむる所なるべし。
今『守武千句』の中より、其の連句を左に抄録せん。
猫何 第二
青柳の眉かぐ錐子のひたひかな
こほりうちとけよするたしなに
水島のけさせちことにうかひきて
耳にもいらぬうくむすの聲
大なる春のからかいいかがせん
こかたなぞとてあさくおもふな
いかなりし日もうちおかすつかはれて
引出ものもやほのかならまし
むこいりの道のほとりの花すゝき
とくりをもたせ秋風そふく
月影はたかこものめをくるらん
名乗りをしてもかとななたてそ
(以下略)
姉何 第四
うくひすの娘かなかぬほとゝぎす
むめうの花にぞたち来にけり
山里のさのみはいかて匂ふらん
みやこいてゝやにあはざるべき
旅衣妻にせんかた十二三
あひ性文のことづてもがな
おんやうにすてられぬるも人にして
うつりかはれはさるとこそなれ
花の春もみぢの秋のもゝのさね
よまれもよらすうたてかりけり
玉づさをなどなが/\とつづくらん
まゐらせ候やまゐらせ候や (以下略)
守武の句は、単に宗鑑のよりも上品のみならすず宗鑑の作句には、三句以上の連句を見る事殆んど絶無なるに反し、守武には百韻の連句十君もあり。されば俳諧は宗鑑に依りて開かれたるも、純正俳諧の連歌は、守武を以て初めとなすと云ふも不可ならす。其の発句に於いても、守武の作は、面目をようやく異にせるものあるを覚ゆる。
元朝や神代の事も思はるゝ 守 武
飛梅や軽々しぐも神の春
落花枝にかへると見れは胡蝶蔵哉
青柳の眉かくきし額哉
花よりも鼻にありける匂ひ哉
撫子や夏野のはらの落し種
繪合は十二の骨のあふきかな
鶯の娘か啼かぬほとゝぎす
夏の夜は明くれど開かぬまぶち哉
かさきやけふ久方の天の川
こほらねど水ひきとつる懐紙かな
彼れは発句に於ても、同じくをかしみを主としたり、彼れの作品中にも、寓々清迥のものなきに非ずと雖も、是れ其の本色にはあらす、また守武の発句が、宗鑑の句と異なる所は、掛語を用ゐたるものゝ少なき事にて、是亦た俳句の発展に、好傾向を示したるよと謂わざるを得ず、守武、或る連歌の席に臨みたるに、来会者は悉く法體の人のみなれば、
御座敷を見れば何れもかみな月 守 武
とせしに、宗鑑傍にありて、
ひとりしぐれのふり烏帽子着て 宗 祇
と附けたるは頗る興あることにて、久しく俳壇の佳話として傅はれり、
天文十八年八月八日、行年七十七にして、此の世を浪る、辞世、
神路山我こしかたも行く末も
峯の松風/\ 守 武
又
朝貌にけふは見ゆらん我世かな 同
以上は俳諧創始の時代に属し、その主要人物たる宗鑑と守武との俳風の一班なり。吾人今日の俳眼を以て、彼等の事跡を見んか、具に區々たる事の如くなれど、連歌が久しく固定して動かざる格式の中に立寵りて、更に一歩の進境をも見る能はざるに當り、其の覊絆を脱出して、兎にも角にも俳諧の自由なる天地
に翺翔し、将来俳勢勃興の地歩を作りたるの功は、決して埋没すべからず、彼等二人に次で起る所の松永貞徳が、益々其の範囲拡張して.俳諧中興の偉葉を立つるに至りたるも、要するに彼等二人に依て基礎を定られたるものあるが為に外ならざるなり。
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