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江戸時代の甲斐の伝説と民話    『日本随筆』より抜粋 

2023年09月08日 06時55分30秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

江戸時代の甲斐の伝説と民話   

『日本随筆』より抜粋 

 

一、遊女八千代が噂  羇旅漫録(瀧沢馬琴)

 八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。     

註…直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、

 ふるゆきもこの山里はこゝろせよ  竹の園生のすゑたわむ世に

  万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。  

(橋本肥後守経亮話)  

追考…甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八宮甲州にましましけるとき。

 なけばきくばきけは都のなつかしき 此里すぎよ山ほとゝぎすこれより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話) 程へて八の宮帰洛したまひぬ。

  

一、秉燭翁像  桂林漫録(桂川中良)

 

 近来、甲州酒折宮の(日本武尊を祭る)本社の傍らに祭る所の。秉燭翁の社の扉に刻する像なりとて。流布する図あり。 

 秉燭翁像図(略)

 深衣の如き服を左巻まきに著。 (或人、続日本記養老三年の詔を引。上古は左まきなりし證とす。笑う可し。左まきの詔。愚考あり。)幅広の如き物を頭に頂き。渡唐の天神と称する物の形に似たり。甲斐名勝志(甲州、萩原元克著)見に。彼像の説を載せさる故。彼邦より薬石を鬻に来る。阿蔵なる者に質(たた)せしに。果して跡形も無き譌物なり。此像を見んとて。好古の人間尋来る事侍りと語りき。全く奇に誇らんと欲る。好事者の所為と見ゆ。憎む可く冤(うら)む可し彼社。尊の燧袋(ひうちぶくろ)を神体とする由。是は虚説にあらず。阿像帰国の後。其図を送り越す可しと約しぬ。  

 

一、向火

 酒折宮の因みに記す。日本武尊。駿河国に至り給へる時、夷等尊を欺きて野中に出し奉り。枯草に火を着て。焼き失ひ奉らんとす。時に尊。御姨。倭比売命( )の賜ひたる火打袋より。(是酒折宮の神体なり)燧( )を取出し。御剣を抜て草を薙拂ひ。火打ちにて火を打。向火を着て焼退け。還出て夷どもを切滅し給ふ事。云々    

 一、近代俗書真偽   蘿月庵国書漫書(尾崎雅嘉) (前略)百年以後にかきたる印行の記録、諸家よりいでたるは、各自の事故連続せざるより、すたり行になろこそ残多けれ。甲陽軍艦あやまり多しといへども、質にして事実多し。しかし是は甲州流、北条流、山鹿流など、小幡氏の跡をふめば今にすたるに、是さへ武田三代記出るになりぬ。甲陽軍艦にあはすれば、通俗のもの見るやうにて、二度とは見るべくあらず、云々  

 

一、六郷の橋   柳亭筆記(柳亭種彦) 

 

(前略)『小田原記』永禄九年武田信玄小田原に人数少なき隙をうかゞひおもひよらざる方より小田原へ押し寄せるといふ條に、「橋を焼き落として甲州勢を通さず。信玄品川の宇多河石見守鈴木等を追散して六郷の橋落ちければ池上へかゝり」とあり、この時橋を焼き捨てし事のあれば、北条家の盛りなりし頃そめしにや。云々  一、誰やらのはなし  八水随筆 著者未詳 予がしれる大井佐太夫殿の申せし御方、甲州の族にて、花菱を紋とす。此家に勝頼の備前徳あり。先祖の器とては是ばかりなれども、用なしとてわらはれぬ。  

 

一、大磯小磯   金曾木 (大田南畝) 

 

相模刻の大磯小磯は人みな知る所なり。甲斐八代郡川内領に大磯小磯村と云うあり。山田茂右衛門御代官處なり。  

 

一、秋元但馬守   半日閑話(大田覃)

   

若君様御着袴御規次第 若君様御名代 秋元但馬守(他二名)右紅葉山 御宮え参詣右御太刀目録秋元但馬守二月三日御能組 時服六つ 秋元但馬守     

 

一、西本願寺輪番(の内)  半日閑話(大田覃) 甲州山梨郡初鹿野村禅宗五山派栖雲寺所化宗省 二十(歳)  一、四家由緒   半日閑話(大田覃) 秤師守随は武田義信後也。 

 

一、甲州古鐘銘   半日閑話(大田覃)  

甲斐国牧庄法光寺 奉鑄施鐘一口  建久二年辛亥八月廿七日   従五位下遠江守源朝臣義定   又云建治元年乙亥十二月八日   願主比丘尼新阿  當修理大勧進沙彌性光   建武三年丙子三月廿七日  重修理大勧進僧都清尊   定治五年丙午十二月廿七日   大 工 道 全  

一、天野氏証文    半日閑話(大田覃) 頼朝御自筆御判は、甲州一乱の砌、同国南部の建中寺和尚に預置候處、其刻御判計紛失申候。日付際よりたちは抜被レ申候。  

一、身延山七面堂焼失   半日閑話(大田覃) 十月十一日の夜、甲州身延山七面堂炎上、参籠の者六十人程死すといふ。  

一、惣領御番入書付   半日閑話(大田覃)安永五年十二月十九日町奉行 曲淵勝次郎 甲斐守惣領  

一、甲州米    半日閑話(大田覃) 甲州米三斗俵は陣々え渡す兵糧三十人え壹俵宛にて、其後算用仕能積也。 古来諸国の米壹俵五斗入、甲州辺同断之所、信玄三斗俵に計り入取廻しよしとて改めらる。 

一、角力上覧  半日閑話(大田覃)  寛政六年甲寅四月九日   

甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰  雷電 谷風  駒ヶ嶽 

一、山口素堂筆 芭蕉庵米櫃(瓢銘)寸錦雑綴(作者不明)  

四山の銘 芭蕉庵米櫃 

柏莚所持五粒傳へ今又三桝 蓋木黒ヌリ 傳懇望〆一見写之       一瓢重泰山 自笑称箕山  莫慣首陽山 這中飯顆山   葛飾隠士素堂書 

一、下御霊社司板垣民部談  遠碧軒記(黒川道祐) 

(前略)さて社家は代々春原なり(中略)これが中絶の時に甲斐の板垣信方の子、(信方は病死、子の彌次郎者為信玄 被レ害て跡絶ゆ)同彌次郎が遣腹の子が、母とも京に流れ落て後は丹波に閑居す。この子成長して南禅寺の少林寺へ遣し、出家して正寅と云。これを室町より肝煎してをとして社司とす。これが中比の社僧寿閑の親なり。云々

一、宝永二年二月常憲院将軍六十賀和歌  遠碧軒記(黒川道祐) 

この御賀に松平美濃守吉保御杖をまいらするとて、君にいまさゝぐる杖のふしておもひ  あふぎていのる萬世の春 此美濃守甲斐国を給り、甲府の城へ初めてまかりまふでける とき、

としを経て君につかふるかひがねや 雪のふる道ふみ分てみん       ふる道ふみ分るとよめるも、甲斐の武田餘流なるよしのあればなるべし。 

一、馬場三郎兵衛  閑憲瑣談(佐々木高貞) 

(前略)實は本国三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記したる十双倍に御座候。されば□(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難レ叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不レ慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々 

一、高芙蓉  蒹葭堂雑録(木村孔恭) 

煎茶に用ゆる「キビシヤウ」といへる器を、高芙蓉の検出して大雅堂に語られしが、殊に歓びて是を同士の徒に知らしめんとて、其事を上木し弘められしとぞ。風流の親切といふべし。右次て丙子冬十月、大雅堂印施と有。この丙子は宝暦六年にして、大雅山人三十四歳、高芙蓉は三十五歳の時なり。

芙蓉は名は孟彪、字は孺皮、芙蓉はその号なり。甲州高梨の人にして、高氏なり。父を尤軒といひて、かって徳本氏に従ひて醫を業とす。芙蓉醫を好まず。弱冠の頃より京師に遊び書画を愛す。好事の一奇人なり。篆刻の妙絶にいたり、海内に其名を知らざるものなし。俗称後に大島逸記といふ。天明四年四月二十四日東武に没す、行年六十三歳。〈芙蓉の生年は逆算すると、没年…天明四年(1784)、生年…享保六年(1721)の生まれとなる〉   

一、名醫徳本の奇事   閑憲瑣談後編(佐々木高貞) 

世に名高き甲斐の徳本は、和漢古今に珍らしき恬澹の人なり。本性は長田氏、知足斎と号し、三河州大浜村の人、其先祖を知る者なく、不詳所出 。勢利を欽ずして、四方に周遊し、去就任意いさゝかも諛なし。 大永享禄の頃(1521~1532)は甲斐の州に遊び、醫道を以て武田信虎の家に為レ客。抑々徳本翁の醫術は、即効を専らとし、其療治いさゝか烈しきに似たり。然ば病に依って峻剤毒薬機宣不誤、攻撃瞑眩避世諠 、(これは病気の様體によっては、峻しき薬を用ひ、毒を服せ、病を強く攻撃、瞑眩てもかまわず、世の人々が諠しくいっても不レ避、存分に療治する事なり)富貴なる輩は、俗諺の如く古方家と忌恐れて信ぜず。却って山野僕質の民に尊信せられ、殊に貧しきを憐みて、療養を信切にし、居所の悪敷きを厭わず。天文年中(1532~1555)には甲州を去りて、信濃国諏訪郡東掘村に住し、天正の乱に武田氏亡て後、再び甲州に還り、自ら草廬を構、號て茅庵といふ。他に出る時、頸に薬袋を掲て、牛の背に跨り、彼薬入の表に一服十八銭と書付たり。富貴を顧みず、貧賤を嫌わず、偶々権家の招きに応じて、病を治し効ありても、薬の價を取事十八銭に過ぎず。盖世の中の醫の勢利に赴き、慾に務むる者を折く。於此翁の清情なる事、十方に聽へ、漸々に諸州の領主に召るゝ事すくなからず。其頃或諸侯何某の君病痾ましましけるが、其臣下兼て徳本の良醫なる事を知らるれば、則徳本翁の診治を伝達し奉らる。因って命じて翁を召さる。徳本翁此時に百十有餘才、例の如く頸に袋を掛、牛に踞、ゆふゆふと東都に到る。厳々廣々として尊むべき錦殿に、麁服を不レ耻登り、一診を許されて後、便峻き劑欲上衆醫其麁忽を論じて不背、時に徳本翁は少しも憚らず、衆醫に対して其可否も辨ず。其君又戦国を経玉ひし勇壮の仁君、聴明にして疑念ましますれば、決断速かに翁の良醫なる事を信じ玉ひ、薬を調進なさしめられ、御服薬数日ならずして、功を奏し、御全快ましましければ、賞を賜ふ事尤も厚し。されども徳本翁は、固く辞し奉り之を不レ受、帰るに及んで薬の價一服十八銭の定めを以て政府に乞請瓢然として立去ぬ。於レ是翁の聲名天下に高く、是を慕ふて門人となる者数十人、其中にしも馬場徳寛、今井徳山の二人、殊更に醫業を励み、翁の禁方を受たりとぞ。猶翁の醫療に付て、古今希代の妙説あり。ことごとく次編に記す。徳本傳の再記には、於竹大日如来の因縁等、希代の話ありて面白し。 

一、つみの御牧   燕居雑誌(日尾荊山) 

かげろふの日記、御堂道長の長歌に、  

かひなきことは甲斐の国、つみの御牧あるゝ駒のいかでか  

人は影とめむ、と思ふ者からたらちねの云々、 坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、契本に「つ」を「へ」と直して、和名抄甲斐国巨摩郡逸見郷を引り。今は則原本の「つみ」を倒せしと見て、昔より歌に詠馴し、小笠原美豆の御牧の義にとれり。且は原のまゝを倒して「みつ」とよまるまれば也。そのうへ六帖の歌、小笠原美豆のみ牧に荒る駒もとればぞ馴るゝ子等が袖はもとあり。今は其意をとりて可ならむか。され共藻鹽草を関するに、顕昭が説にも、忠岑が十體にも、小笠原は甲斐の国なり。「みつ御牧は山城国淀の渡り也」。しかれども證歌には、「小笠原へみのみまき」と侍り。能因歌枕に「へみの御牧」とは、蛇に似たる色の麻の生ずる故にと。然るを堀河院百首に、顕仲が春雨の歌に、「小笠原みつのみまき」と詠みたり。是僻事歟云々。古よりこれらの説あるにより、契沖は且き本義を正さむ為に、「へみ」に直されたらむなり。又契本の内一本に、六帖の歌を引けるも「へみ」とあり。流布の六帖誤多きものなれば、今の印本をも直して引かれしにや、されど原本に依て再案ずるに、沖にしたがへば何れの僻字の、へに取ても點畫の形最遠し、「つみ」を打かへせば「みつ」なり。且本義にあらず共、詠習ひたるままに、詠むことも、昔より其例なきにしも非るべければ、此長歌を公の詠れしをり。何れに付かれたるも、今には計りがたけむ。今原本を直すの少きにとり、又は本義には背くとも、詩の和順なるによりて、姑く余が思のまゝに直せし、今此二説を挙置きれば、読人の好む方にしたがひ給ひなむと云れたり。瑜案ずるに、仲文此「つみ」の僻字の「へ」に取ても、點畫の形いと遠しとて、契沖師の定めしをさへに疑ひて、顕昭が僻心得をし、歌を徴にして打ちかへしたるぞ可咲き。こは原来「へみのみまき」なる事、和名抄にいへる如く、疑ふべきことに非ず。又「つ」と「へ」まがふべきも、いちじろき僻字あるをば知らでや有けむ。こはまさしく倍の草體□により誤て□と成りたる者也。萬葉にしきたへを敷多倍、とこしへを常之倍などの類あぐるに暇なし。此僻字だに知らずして、契沖を疑ひしは、いと鳴呼ならずや。 

一、目黒の餅花    骨董集(岩瀬京傳)

昔目黒不動尊の門前にて、ごふくの餅といふを売るもとはお福の餅なるを、呉服のもちとあやまれりと、云々『江戸八百韻』延宝六年板  前句

   ちゃうらかす風よりつの瀧の音 青雲 

 附句 目黒の原の犬がとびつく    来雪(山口素堂) 

一、提灯 骨董集(岩瀬京傳) 

『甲陽軍艦』巻之一、永禄元年の令に、不断不可燃挑灯とあり。云々  

一、赤染衛門の古墳 宮川舎漫筆(宮川政運) 

爰に奥田某といえる者、天明年中(1781~1789)甲州に勤ごとありし折、甲州韮崎、扨寺の名も忘れたり。右脇堂の所に苔むしたる古墳あり。其頃中門建立の節、右の古墳を取拂わんとせし前夜、住僧の夢に、夫人来り、此塚を取こぼつ事を歎き、一ひらの短冊を置と夢見しが、目覚めて見れば、古きたんざき枕のもとに残れり。取り上げて見れば、なき跡のしるしとなれば其儘に  とはれずとても有てしもかな 右ゆへ古墳は其儘にて中門をば塚の脇の方に寄せて建しといふ。右の短冊奥田方へ持参りしかば、奥田より古筆に出さし處、赤染衛門の筆よし。珍しき事共なり。この一條は奥田の一家のもの、予がむつみし長崎氏の物語なり。 

一、甲斐国都留郡の縫之丞のこと  閑田次集(伴 蒿蹊) 

享和二年(1802)十二月の末つかた、甲斐国都留郡小明見村の民縫之丞なるもの、其隣人の黄疸に悩みけるを、両親ふかく悲しみ、又代るべき兄弟もなければ、いかにもして病を癒しめんとおもふに、蜆は此病の良薬ときけば、もとめて給はれとたのまれて、三十里を経て、駿河の原よし原まで来るしに、年の終りなれば、さしもの街道も往来まれなるに、さるべき武士共二三人計具したるが、遙先に見えたれば、追付んと急ぎ、尿しながら行けるを、彼士見咎て、いかなる者ぞととふ、農民なりしとこたへしに、いか農民ならば大路に尿すべからず、畑ならば麦を養ふべし。道の傍ならば草肥えて秣によからん、大路にて穢を人に及ぼすべしやといはれて恥入、唯大人に追付まゐらんといしぎての仕業なりと侘ぬ。さて背に負けたる薦包は何ぞととふに、しかじかのよしを答へて、此比海荒て、やうやう此ほとりまで一升を得て負たるなりといへば、さる病に一升ばかりにては足じ、江戸に行て求むべし。いざつれ行んといへれば、故郷よりここ迄遙なり。また是より江戸まで、四十里をへてはいかゞはせん、年せまりて帰ることを急よしいふ。さらばわれ江戸に帰らば、速におうるべしと、其郷里荘官の名まで委しくとひきく、こはいかなる御方ぞととへば、それはいふに及ばずとて、沼津駅にて別ぬ。 其年は暮てあくる正月、病者は病おもりて十日に終りぬれば、野辺に送り、翌日僧に請じ齋行ひける折から、所の長のもとへ薦に包たるもの、江戸芝よりと計記して、甲斐国都留郡小明見村庄屋仁兵衛といふ札をさし、谷村といふ所の官所より送り、其便は谷村より小明見までの賃をとりて帰りぬ。 開きて見れば 蜆( )なり一首の歌有り、   

見もしらぬ山のおくへも心だにとどかば病癒ぬべらなり 

仁兵衛其故をしらず、親に付て縫之丞を呼て、そのよしを聞きゝ感に堪ず。彼齋の所へ持行、士の志を牌前へ供しぬ。夫より皆志をたうとがりて、江戸芝といふたよりに、尋けれどもそれぬば、せんかたなきに、あるもの此士歌を添られしかば、何にても歌を勧進して、芝明神の社に捧げ、せめて其志しに報ぜんとはかりけるとぞ。同国の一老僧、此ごろ語りき。 

一、社中と云事  《文化三年板》 鳴呼矣草(田宮仲宜)  

山口素堂  社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいえり。社中と云は、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云。劉遣民雷次宗宗炳等の十八人、集会して交をなす。これを十八蓮社といふ。謝靈運、その社に入んことを乞ふ。恵遠い謝靈運が心雑なるを以、交わりゆるさず。斯る潔白なる交友の集会をなさしより、蓮社の交と云。然るに芭蕉の友人山口素堂師、致仕の後深川の別荘に池を穿、白蓮を植て交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ。夫遠師は、謝靈運をだに社に入る事許されず。然るに今の社中、旦( )にには断金をとなへて、夕に冠讐のごとく、反復常ならず。呉越と隔ることを梭をなぐる間のごときも嘆かはし。嗟々俳諧は狎て和せざるの道なり。 一、武野紹鴎(でうおう) 鳴呼矣草(田宮仲宜)武田印旛守仲村は、武田信光の裔なり。退隠して武野紹鴎と云へり。家宅は戎の社に隣し故、大黒庵と自称す。其滑藝見つべし。 

一、奇人(かたわ)  齋諧俗談(大朏東華) 

相傳へて云、甲斐の武田信玄の家臣山形三郎兵衛は兎唇なり。山本勘助といふ人は眇( )なり。云々  

一、賜一字  昆陽漫談(青木昆陽) 先年甲州よ出だせる書に、一字を賜ふときの書あり。其文左の如く。   

實名君好 天正四年丙子七月六日   信君 判 

これは武田信君と云へり。 

一、甲州金   昆陽漫談(青木昆陽) 

老人曰く、古き甲州金に竹流し金、六角極印小判あり。 竹流し金長さ二十七八分、横八分ほど、厚さ中にて三分ほど、縁にて一分ほど、長きは幅狭く、短きは幅廣し。重さ四十目十両と云ひて通用す。形圖の如し。中の極印は極の字、上下の極印は見えがたし。鳥目金重さ一匁一分と云ひて通用す。極印なし形図の如し。(略)六角極印小判重さ四匁。形圖の如し。上の六角打ちに桐あり。下の六角の内に菊あり。裏極印なし。甲州金、甲州略記に載すれども、其後此説を聞くゆへ、これらを記す。その三金いまだ見ず。 

一、川口湖   昆陽漫談(青木昆陽) 

三代実録に云く、貞観六年七月、甲斐国言。駿河国富士大山忽有暴火 。焼 碎崗巒 。草木焦熱。土鑠石流。埋八代郡本栖并セ両水海。水熱如レ湯。魚鼈皆死。百姓居宅與レ海共埋。或有レ宅無人。其数難レ記。両海以亦有水海 。火焔赴向 河口海本栖セ海。未 焼埋 之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難辨。然後有 此災異焉ト。  

これにて見れば、富士山の焼くる時は、砂ありて人家を埋めきと見ゆ。さて今も川口村に湖水あり。古の河口海なるべし。元文元年(1736)敦書命を蒙りて、甲州を行り、古書を求むる時、勝山村より河口湖を舟にて、川口村へ渡る。一里ありと云ふ。此湖水水落なく、伏水にて一里ほど脇へ。水ふき出ずるなり。 

一、石和  昆陽漫談(青木昆陽) 

甲州の石和(いさわ)を倭名鈔に石禾(いさわ)と言ひがたきゆへ、古より石禾と云ふと見へたり。 

一、甲斐之字義  南嶺遺稿(多田義俊) 

かひがねといふは、山のするどく立て、諸山に勝れ目立たるみねをいふ。山のかひより見ゆる白雲などよむも、絶頂にあるしら雲なり。甲州はするどく高き山多き故、かひの国といへりとぞ。或人の仰られしにつきて、よくおもへば、俗語に甲斐甲斐敷といふ詞有。又かひなきといふ詞有。甲斐々々しきは、しかと其功の見えたるを、山の高く見えたるに准らへ、甲斐なきは功もなきといふ心なるべし。植松宗南といへるは、甲斐産れの人にて、此人の語に、甲斐の国は、諸国に勝れて木の實のよき国なりといふ。斐の字、このみとよます字なり。夫故、斐にかうたりといふ心にて、甲斐の国と號。甲たるは第一たるの心なりとぞ。むかし斐仲太といふものありし事、宇治拾遺に見えたりと覚し也。斐たる君子ありと、詩経にあるも、其實有る君子也。論語に、斐然成一章をも、其實を備へて、しかと文章を成なりと心得べし。 山のかひといふも、此心得にてよむべきか。 

一、武田番匠   秉穂録(岡田挺之) 

通志に、今之庸俗以ク船輸善揄レ材。凡古屋壮麗ナル者、皆曰魯船造ルト。殊不レ知、船為何代之人と、此士にも、飛騨の工、武田番匠が建たるといふ事多し。似たる事なり。 

一、甲州升   秉穂録(岡田挺之) 

甲州にては、京ます三升をもて一升とす。金は一分判、二朱判、一朱判、しなか判、四種あり。其形圓なり。一分は銀十二、匁にあたる。今、諸国通用の金銀に比するに、銀一匁五分は、甲銀一匁にあたる。 

一、御茶壺  嘉良喜随筆(山口幸充) 

公儀の御茶壺は、宇治を出る晩か、社山一宿木曾路を御通、下諏訪より甲州に入、土用の二日ほど前に天目山下へゆき着を程にて直に山上に預ける。云々 

一、悪瘡解  嘉良喜随筆(山口幸充) (前略) 

右論弁甲斐国小笠原住人大醫法眼柿本之述作也、門弟親聴謹書諸冊後 。  一、近衛殿姫甲府へ御祝言の道具の内、 嘉良喜随筆(山口幸充)  衣架、机帳、鏡、二階棚、二階、火取、□(ハンサウ)、香辛、硯、料紙箱、筆持セ、亂箱モ木地、見臺 (各説明、図有り) 近衛殿姫君、甲府ヘ婚礼ノ時、品川ヘ御着ト、公方ヨリ乗物並傘ヲ遣サル。江戸入ノ時、右ノ傘ヲ乗物ノ上ニサシカクル。云々 

一、 古竹   耽奇漫録(瀧沢馬琴) 

甲州八代郡上曽根村農家河野吉右衛門云々。   

一、珍奇筐目録  一話一言(大田南畝) 

第一筐  甲州身延山七面山御池の土々                      甲州地蔵嶽団子石 第三筐  甲州石中玉 

一、松平西福寺   一話一言(大田南畝) 

浅草西福寺、此寺の本願良雲院殿を此所に葬し奉りぬ。その因縁にて公儀御由緒あつきよし色々申立剰太神君及台徳尊公良雲院尼の御影を拝させたり、予も四月三日かの寺へ参詣して拝せり、此良雲院殿は武田萬千代信吉君の御母堂にて、武田信玄の女たる様にかの寺僧ども本尊開帳の節靈寳の席にて申立る也。 予於心中甚不審をこるによりて、大久保忠寄にかたらひかの實否を分明せん事を欲す。忠寄諸録を引考左の一帖を授與あり、因て其所以分明を得たり。良雲院殿天譽壽清大姉 寛永十四年丁丑三月十二日卒去葬浅草西福寺附札寫州葬所入口の門の上に浅野家の紋ありと覚え候今に浅野家の崇敬もある歟 右良雲院殿と申すは大神君の御妾にて、市川十郎右衛門女也、此良雲院一女を産し給ふ、此姫君蒲生秀行の室とならせ給ひ、後に浅野但馬守長晟に嫁し給ひたりと云々、左あれば竹田萬千代は良雲院殿の参し給ひたるにあらず。長慶院殿〔或〕妙眞院日上 天正十九辛仰年十月六日卒去 水戸光国卿賜造建碑下総国葛飾郡小金邑今にあり、かの碑の文に、か下総国葛飾郡小金邑の采地にて病卒也、葬于郡之本土教寺  云々日蓮宗身延山檀越也、法名號妙眞院日上とあり、且かの墳上に一松あり、土人呼曰日上松とみへたり。 

一、いぐち   一話一言(大田南畝) 

缺唇に勇士ありといふ事をかたる人の曰、(中略)武田信玄に山懸三郎兵衛昌景(中略)いぐちなり、いつれも大剛の士也。 

一、天明四年十二月廿六日火事  一話一言(大田南畝) 

夜四半時頃八代州河岸より出火候處西北風烈数左之通焼失翌廿七日暮六時過火鎮り申候。《甲斐関係のみ抜粋》町奉行  曲淵甲斐守 同六年正月廿二日火事、同廿三日火事 御小姓組 白須甲斐守組 松平典膳 御小姓組 白須甲斐守組 羽根伊織 甲府勤番支配  戸田下総守 御小姓組 白須甲斐守組 小出右膳  同八年正月晦日京都大火諸書付写  覚 松平甲斐守 京都御所向并二条御本丸其外炎上に付京都へ被遣候旨於御右筆部屋掾頬若年寄衆御出座安藤対馬守殿被仰渡之金十五枚 高家 武田安芸守 

一、中世分銭の法   一話一言(大田南畝) 

中世分銭の法何貫文といふは天正の石なをし、東国は一貫九石にあたる、天文の頃三州辺は一貫文十石にれたる、天文十九年天野賢景三州大浜にて五十貫文の采地総領納得五百石の地なり、其後東海道五貫文百石ならし也。甲州辺は少し漸一貫文四五石にあたると云々 甲陽軍艦など千貫は一萬貫石なり、云々 一、秋山源蔵   一話一言(大田南畝) 

秋山源蔵〔天正十年三月十二日〕甲州田野にて武田勝頼公の御供にて討死の時、辞世の句  春散て秋山の實はなかりけり


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