歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

「南京大虐殺」はなかったのか 『歴史地理教育』 3月増刊号3 1986=№395

2023年09月01日 11時18分10秒 | 歴史さんぽ

「南京大虐殺」はなかったのか

『歴史地理教育』 3月増刊号3 1986=№395

 歴史教育者協議会 編集 販売

  ----38---- 笠原十九司氏著 一部加筆

 

二つの虐殺否定論争

 

 「南京大虐殺」は教科書裁判における争点の一つであり、教科書検定のさいには文部省が強い姿勢で書き直しを追ってくる問題です。

家永三郎『〝密室″検定の記録』には、検定で絶大な権限をもつ教科書調査官が、「(南京占領のさい)混乱のなかで、日本軍によって多数の中国軍民が殺害されたといわれる、としてはいかがか。」とA条件(従わないと不合格になる修正意見)で書き直しを命じていたことが書かれています。文部省検定言の修正意見(じつは強制命令)は、南京大虐殺をどのように捉えさせることを狙っているのでしょうか。

 「南京大虐殺はなかった」とする虐殺否定論は、大きく二つに分けられます。

 一つは虐殺そのものが事実無根であると主張する虐殺全面否定論で、もう一つは、幾らかは虐殺はあったけれど、大虐殺と騒がれるようは事件ではなかったと主張する虐殺過小評価論、つまり「南京大虐殺は無かった」という論です。後者も結論は「南京大虐殺はなかった」となりますから、より巧妙な虐殺否定論といえます。文部省の検定の立場がそれです。

 

  南京大虐殺は無かったのか

 

 「南京大虐殺」全面否定論の急先鋒となったのが、文芸春秋社の発行する『諸君』・『文芸春秋』の雑誌です。同誌上には、鈴木明、イザヤ・ベンタサン改め山本七平、渡部昇一、田中正明等の各氏が次々に登場して、「南京大虐殺はまぼろし」「南京虐殺は虚構」を叫び、『中国の旅』を書いた朝日新聞記者・本多勝一氏や南京事件を学問的に手がけた早稲田大学教授・洞富雄氏を、「中国一辺倒派」「左翼学者」などと攻撃いたしました。彼らは南京大虐殺の「まぼろし派」と総称されますが、文芸春秋社が背後で動いていることから、「文芸春秋社グループ」ともいえます(このうち、山本七平、渡部昇一の両氏は、中曽根内閣の臨教審の専門委員にまでなっています)。

 鈴水明氏は『“南京大虐殺″のまぼろし』、山本七平氏は『私の中の日本軍上・下』をそれぞれ文芸春秋社の単行本にまとめ(現在は文巻文庫に所収)、田中正同氏は『〝南京虐殺″の虚構』(日本教文社)を書いています。

 しかし、「まぼろし派」の虐殺否定論は、現在ではほぼ粉砕され、破綻したといえます。一つは、この二二年に南京大虐殺の事実を証明する旧軍人の日記類が次々と発掘されたことです。その決定打ともいえるの、が、『増刊 歴史と人物』(中央公論社、一九八四年十二月)に掲載された中島今朝吾、第十六師団長の日記で、南京大虐殺の当今者である師団長自身が、虐殺を命令し、何万という捕虜を殺したことが明記されているのです。

さらに一つは、戦前に松井石板大将の秘書をつとめたという田中正明氏か、南京大虐殺の全面否定の証拠に使ってきた田中正明編『松井石根大将の陣中日誌』(美容書房)が、田中正明氏自身の手によって大きく改ざんされ、でっちあげられていたことが暴露されたことです(板倉由明「松井石根大将ご陣中日記″改良の怪」『歴史と人物』中央公論社、一九八五年十二月、本多勝一「田中氏の松井大将日誌改ざん」『朝日新聞』一九八五年十一月二十五日)。松井大将は南京攻略戦の最高指揮官として南京大虐殺の責任を問われ、東京裁判で死刑になった軍人ですが、彼の原日記を改ざんしなければ南京大虐殺を否定できなかった事実が、「まぼろし派」の破綻を証明しています。

 「南京大虐殺」全面否定論が破綻していく過程の歴史的産物といえるのが『偕行』(陸軍士官学校の同窓会団体の機関誌)に載った畝本正己編「証言による南京戦史」の連載です。はじめの趣旨は、南京攻略戦に参加した将校たちの証言によって、南京虐殺が「まぼろし」の特性であったことを明らかにすることだったのですが、いざ証言が集まってみると、編集者の意図に反して、虐殺をやった、見たという証言がかなり出てきてしまったのです。連載の最後は、『偕行』の編集部が畝本氏の書いた総括をボツにして、編集部自身が「その総括的考察」を書くという異例な事態になり、そこでは虐殺が行われた事実を認め、中国人民に深く詫びるしかないと結んでいます (『偕行』▽一九八五年三月号)。

 

 南京大虐殺ではなかったのか

 

 『偕行』編集部が新たに変更した立場が、南京虐殺はあったけれど、「数十万の虐殺」「南京大虐殺」などとはとんでもないという文部省の検定と同じ虐殺過小評価論の立場です。冒頭にあげた教科書調査官の修正彦見には、つぎのような狙いが含まれています。

第一は「混乱のなかで」と書かせることによって、南京虐殺は戦争のさなかの混乱のなかで偶発的におこった、状況上やむを得ない出来事であって組織的計画的な虐殺とは異なると思わせることです。

第二は「中国軍民の殺害」という実現によって軍人と民衆の殺害と受けとらせ、軍人の殺害については(南京大虐殺では捕虜集団虐殺が最も多かった)戦争行為であって虐殺にはあたらないというニュアンスをもたせることです。

第三は「多数の中国軍民」というふうにしか犠牲者の数を書かせないようにして、虐殺の規模をできるだけ小さく見せ、「大虐殺」と騒ぐほど重大な事件ではないと思わせることです。

 こうした虐殺過小評価論に対しては、最近つぎのような本が出版され、南京大虐殺の事実を明らかにしています。

第一については、それが戦場の混乱から発生した偶発事件ではなかったことを、日本軍隊の歴史的特質から説明したのが、藤原彰『南京大虐殺』(岩波ブックレット)です。さらに、南京大虐殺を上海、杭州湾上陸から南京占領までの南京攻略戦の全過程に位置づけることによって、組織的計画的であったことを明らかにしたのが、本多勝一「南京への道」(『朝日ジャーナル』一九九四年四月一十月連載)と古田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)です。吉田氏は、上海から南京への追撃戦において、掠奪、強姦、放火、捕虜の惨殺、民衆の殺戮を積み重ねながら日本軍が虐殺者集団に化していった過程を、日本軍偏の史料を駆使して解明しています。

第二に関連して、虐設過小評価論の一人である泰那彦氏は捕虜の処刑や投降兵の殺害を残虐行為とみなしていませんが(秦那彦「松井大将は泣いたか?)『諸君』一九八四年十月号)、篠原氏の前揚言は、武器を捨て抵抗の高志を放棄した者を殺害したのは、国際法違反であるばかりでなく、それ以前の人道上の問題からいって虐殺にあたることを明確にしています。

第三の犠牲者の数の問題については、何人以上が「大虐殺」などという定義があるはずがありません。しかし中島師団長や松井大将にも捕虜数万人の虐殺が記されていますから、それだけでも「南京大虐殺ではなかった」とは言えない重たい数です。現在の研究状況では、各種記録を検討したうえで出された洞富雄氏の「日本軍の南京占領によって二十万人をくだらない中国軍民の犠牲者が生じた。」(『決定版・南京大虐殺』徳間書店)という推定が、最も妥当だと思われます。(かさはらとくし・宇都宮大学)

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿