「女性でも殴り合いが好きな人がいるんだね。見ててどうするのかな?
嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。
こんな競技好きな人がいるんだ」
嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。
こんな競技好きな人がいるんだ」
まずこの件がニュースになったこと自体、時代が変わったんだなと。
これ、リアルタイムで見たんですが、張本氏の発言、本当に昭和の親父の残像というか…。
ボクシングにも、選手にも、女性に対しても、ずいぶんな偏見だなあと思った。
悪気は、なかったと思う。でも悪気ない分、根が深いのよ。
報道番組で少し見ただけだけど、入江聖奈選手は、緊張感あふれるオリンピックの会場で、ニコニコ笑顔で入ってきて、私のボクシングのイメージを一瞬にして、ガラッと変えた。
私にとっては、すごく好感度高かった選手だったので、よけいでしたよ。
カエル好きなんでいうのも、個性的でいいです。
電通や組織委員会やIOCやJOCの偉いさんたちのお為ごかしの残念さを、直前まで、うんざりするほど見てきた。
多様性と調和。
開会式当日に、それが、今度のオリンピックのテーマであったと知ったとき、「おや?」と思った。
その方向性はとてもいいなと思ったから。
かつてお世話になった方たちに感謝を述べながら「もう走れません」と自死した昭和のマラソン選手がいた。
国の威信を背中にしょったスポーツは、選手の痛々しさしか感じない。
でも今回見た選手たちは、自分が好きで自分がやりたいからやっている、という自負や楽しさ、明るさが伝わってきて、時代が変わってきたんだなと内心うれしかったもの。
入江聖奈選手もその一人だった。
張本さんと同じように、名古屋市長の金メダルかじり事件も、森喜朗元組織委員会会長の女性蔑視発言も。
女性に対する無意識の蔑視、無神経さ、傲慢さが背景にある。
こういうおじさんたちの言動は、昔は、「あの人は、ああいう人だから仕方ない」で、なんとなく許されていたけど、それは言われていた人たちが苦笑いしながら我慢していただけだって事、あの頃のおじさんたちは知らなかったろう。
SNSの発達は、功罪あるでしょうが、今まで傷ついていた人たちの声なき声も、全国から、世界から、あっという間に発信される。
張本氏には、抗議の電話とかかかってくるのじゃないかって思っていたら、日本ボクシング連盟からの抗議が来たって。
奇しくもオリンピックが鏡となって映し出した2つの事象は、消えてゆく過去と、つながる未来。
これは日本の社会がようやく変わってきた、という風にとらえていいですね。
「人間性の未熟さがあぶり出される時代になったんだな」と、しみじみ感じるできごとでした。
名古屋市長については
何人かの人から、
「河村氏の対抗馬になった自民党議員が河村氏に負けずウヨ体質だったことを思えば、河村氏長続投はやむを得ない選択だったかもしれない。」という意見を耳にしています。
「地域政党の党首にすぎない河村氏」と「自民党の看板を背負ったウヨ議員」の究極の二択において名古屋市民は「今自民党に勝たせるのは好ましくない」という判断したとも言えるでしょう。
つまりこれは言葉は悪いけど「大きい団体のクソと小さい団体のクソではどちらがマシか?」という話です。
すみません、表現に難があるのは承知しています。
ご迷惑だったらこのコメントは消してください。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6404151
共産党を陥れようとする明確な意図を持った「非常に悪質なデマ」です。
この様なデマを全国ネットの番組で言い放つコメンテーターとそれを誰も訂正しないで放置した番組スタッフおよび司会者とゲスト。このニュースのヤフコメは相変わらずネトウヨ的発言が次々と並んでおり、それに賛成票が大量に入っているのが「まだまだこの国は
偏見に支配されているのだ」ということを思い知らされます。
このヤフコメとイベルメクチン応援コメントとのギャップに疑問が膨らみます。
この種のコメントにはまだまだネット工作員が集まって書き込みする構図があるのでしょうか?
それともネトウヨの溜まり場としてのヤフコメは健在だということなのかしら?
と、いろいろ考えてしまいました。
ともかく、この様なデマが
共産党を多くの人々から遠ざける原因であり、立憲民主党支持者でさえ共産党アレルギーを持つ人が出てくる原因でもあると思うとものすごく腹立たしい思いです。
八代弁護士という人物(安部元首相の熱心な支持者でもある)はコメンテーターを降りるべきです。
(TBSは絶対下ろさないと思うけど・・。)
いつも虐められるのは共産党。
それは共産党を叩けば他の野党は巻き込まれるのを恐れて逃げ出すと思われてるからかも・・。
過去にはそういうことが何度もあったから、今度もうまくいくだろうと思われてるのかもしれません。
その手には絶対に乗らないでほしい。
それでは与党やその支持者の思うツボです。
この人の分析に賛同します。
https://twitter.com/garirou/status/1491448817715380226?cxt=HHwWhIDQyYaz2LIpAAAA
<「gero Silence can be violent.(沈黙が暴力になる事もある)」さんのコメントより抜粋
日本社会の古い考え方は、個人と我侭を混同する。なぜ、個人と我侭が混同されるかというと、権威主義的な拡大解釈が行われるから。個人が存在すると、権威で支配できなくなる。だから、権威にとって個人は邪魔な存在。つまり、権威にとって個は悪なのである。
民主国家では、個を尊重する事が前提となっている。しかし、日本は逆に権威主義者が勝手に設定した公(権威)に従属する事が美徳と定義されている。彼らは、その命令を下す時に「沈黙は美徳」と言う。そして、それを「皆(公)」という言葉で正当化し、従属するのが美徳とされている。
その典型例が「決められる政治」と言って、自民党が勝手に決めた公に他の政党が従属する事が正しいかのような報道がされて、それに多くの国民が納得した事からもそれがよく分かる。
極めて民主的でない発想だが、日本国民の意識とは反民主的なのである。
日本の権威主義者は、自分が勝手に決めた公に他の人間が刃向かって当然なのに、それに従わない事が我侭だと解釈して弾圧しようとする。自分勝手な物事を決めている自分達が我侭なのに、それに反対する事を我侭だと考える。なぜなら、彼らにとって自分が勝手に決めた論理こそが公だからである。
極めて独善的で自分勝手で幼稚な発想だが、その幼稚で愚かな自分が正しいと思い込んでいるのが、権威主義者なのである。
実態は勝手に自分の意見を正しいと思い込んで、それに反対する人たちを勝手に悪者にして、攻撃するというどうしようもなく幼稚な人間。3歳児かよ…と思ってしまうくらい低レベル。
個を尊重するからこそ、個々の意見を反映させる為に議論が必要なのだけど、権威主義者の幼稚な頭では、それが理解できない。>
この人のツイッターを読んで、小学校時代の授業で習った「個人主義と利己主義の違い」というのを思い出しました。
先生が
「個人主義と利己主義の違いは実際の場面では見分けることが難しい場合があります。そのため利己主義を個人の勝手と認めてしまったり、逆に個人主義を利己主義だとして非難したりすることも起きています。」と言っていました。
今社会で起きていることそのものです。
この判断をできるかどうかは頭の回りに関係していると思います。
はっきり言ってしまうと
思考力が欠如している人は真っ当に判断できない可能性があります。
利己的な権威によるゴマカシや屁理屈に納得してしまい、一方で個人の当然の権利を「わがまま」だ「とか利己的」だと判断してしまう。(逆の判断)
いわば泥棒が正義になり、
被害者が裁かれてしまうこともあり得るのです。
一部の人しか頭が回らないと恐ろしい社会になりかねない。(真っ当な判断をできる人が少なく、権威や権力者の思いのままになってしまう)
勉強ができるかどうかは全く関係ないのです。
「ちゃんと考える」という当たり前のことをするかどうかの問題なのです。
例えば
「ちゃんと考えない人」は
橋下氏や維新の理屈がめちゃくちゃであることが分からない。
だから菅直人さんと維新の人たちのどちらの言っていることが真っ当なのか?の
判断もできない。
これが日本の民度を著しく下げていることは間違いありません。