よっちんのフォト日記

旅先や日常で感じたことを
写真と文章で綴ってみたい。
そう思ってブログを始めてみました。

鉄道少年だった頃-福岡県北九州市門司区:九州鉄道記念館

2024年09月18日 | 福岡
Kyushu Railway History Museum, Moji Ward, Kitakyushu City, Fukuoka Pref.

さてさて、門司港駅の素晴らしい駅舎を見学したワタクシ達は次の目的地へ向かいました


門司港駅のすぐ隣に、「九州鉄道記念館」という九州の鉄道の歴史を学べる記念館があるんです。
ワタクシ達はこの記念館で、九州の鉄道史を学ぼうと思ったんですよ。
入口の横にある機関車は9600型蒸気機関車。大正時代に生産が始まったSLです。
この車両は最後に筑豊地区で石炭を運搬するために使われていたそうです


これはC59で、この機関車は東海道本線や山陽本線で寝台列車を牽引して活躍しました。
廃車になるまでに地球62周の距離を走行したそうです


C59の「C」というのは動輪の数を表し「C」は動輪が3つ。有名なD51だと「D」ですから動輪の数は4つになるわけです


ワタクシはさすがにこの車両は知りませんでした。キハ07というこの気動車は、戦前に造られたものなのですが、
昭和44年まで宮原線で使用されていたそうです。なお宮原線というのは大分県の豊後森駅と熊本県の肥後小国駅を結んでいましたが、
昭和59年に廃線になっています


クリーム色と赤色に塗られたこの特急電車は、皆さんにも馴染み深いのではないでしょうか。
昭和33年に東京〜大阪間を結んだ「こだま」型車両を、交直両用にした480系特急列車です。
九州で特急「にちりん」「かもめ」「有明」として利用されました


これは新台電車特急の580系特急列車ですが、「月光」という名前がワタクシには懐かしいんですよ。
ワタクシが鉄道に興味を持った頃、「月光」は新大阪〜博多間を結ぶ寝台特急でした。
その頃はまだ山陽新幹線は無く、九州に向かう寝台列車が数多くあったんです。
ワタクシはよく日曜日の朝早く大阪駅に行き、九州各地から大阪へやって来る寝台特急や寝台急行を見に行っていたんです。
「月光」「明星」「彗星」「あかつき」「なは」なんていう名前を覚えていますわ


この赤煉瓦の建物は旧九州鉄道の本社ビルで、現在は鉄道記念館の本館になっています。
内部には鉄道模型のジオラマ、運転シミュレーター、記念グッズのお店などがありました


でも、ワタクシの目を一番惹いたのは、かつての九州行き寝台列車のヘッドマークでした。
小さなハーフサイズのカメラを手にして、このヘッドマークを誇らしげに掲げた寝台列車を撮りに行ったんですよねぇ


ワタクシは鉄道少年だった頃を懐かしく思うと同時に、今でもやっぱり鉄道が好きなんだと再認識したのでありました

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


小学生の頃、私は鉄道少年であり野球少年でした。脳みその8割くらいは鉄道と野球のことで使っていたような気がします。
その時はまさか国鉄が無くなるなんて想像もしませんでしたし、日本各地でローカル線が廃線になっていくとは思いませんでした。
小学校の卒業文集の「将来の夢」という欄に、「将来は国鉄に就職して車掌になりたい。
その前に高校野球で甲子園に行きたい」と書いていたのですが、その夢はどちらも叶うことはありませんでした。



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九州の鉄道はここから始まった-福岡県北九州市門司区:JR門司港駅

2024年09月16日 | 福岡
Mojiko Station, Moji Ward, Kitakyushu City, Fukuoka Pref.

さてさて、ワタクシ達は「門司港レトロ」の散策を続けてきました、このエリアにはワタクシの大好きな場所があるんです


それが、この門司港駅なんです。この駅は1914年(大正3年)に門司駅(当時)として開業しました。
関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わいました。
当時の賑わいを今に伝える素晴らしい駅舎なんです


関門トンネルが現在の門司駅に連結されると1942年(昭和17年)に門司港駅と改称され、
1988年(昭和63年)には鉄道駅舎として初めて国の重要文化財に指定されました。
2019年(平成31年)には6年にも及ぶ復元工事を終え、大正時代の姿に復元されたんですよ


現役の駅舎で重要文化財指定を受けているのは門司港駅と東京駅の丸の内駅舎のみです。
なんとも旅情を誘う駅舎です。鉄道が華やかだった時代、長距離列車や夜行列車が次々に発着していた時代を思い起こさせます


入場券を買って駅の中に入りました。長い長いプラットフォーム。
かつては長大な編成の列車が、蒸気機関車に牽引されてこの駅を出発して行ったのでしょう。
プラットフォームは日本語では乗降場なのですが、この駅のプラットフォームは乗降場という言葉が相応しい気がします


直方行きの列車が停まっていました。直方といえばかつての筑豊炭田の中心地。
昭和30年代頃までは直方から大量の石炭を積んだ貨物列車が、この駅にやって来ていたことでしょう


門司港駅ですが、九州の鉄道の「起点(スタート)」であり「終点(ゴール)」でもあります。
そのことを伝えるために建てられているのが「0哩碑(マイルひ)」です。手前にある鐘は「旅立ちの鐘」というそうです


この水飲み場は「帰り水」と呼ばれています。1914年に駅舎が完成した時に設置されました。駅舎の改修を経ても当時のまま残され、
今も蛇口をひねると水道水が流れます。現在ものどを潤す乗客がおり、100年以上にわたり現役で稼働しています。
大正期は飲み水としてだけではなく、蒸気機関車の煙による顔や手の汚れを落とす洗い場としても活用されました。
終戦後、門司港に降り立った引き揚げ者らが、この水を飲んで 安堵したため、帰り水と呼ばれるようになったそうです


ではでは、もう一ヶ所九州の鉄道にちなんだ場所に向かうとしましょうか

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


鉄道好きの人は、その人のこだわりがある分野や活動によって「乗り鉄」「撮り鉄」「模型鉄」などに分類されるんです。
私は40代の頃から「駅」そのものが好きになり、駅を訪れることが好きになったので「駅鉄」かもしれません。
そんな私ですが、門司港駅は間違いなく「私が好きな駅」のベスト5には入る駅ですわ。



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ノスタルジックな町へ-福岡県北九州市門司区:門司港レトロ

2024年09月15日 | 福岡
Mojiko Retro, Moji Ward, Kitakyushu City, Fukuoka Pref.

さてさて、関門海峡を越えて北九州市門司区へとワタクシ達はやって来ました。
これからしばらくは門司区の門司港周辺の散策です


門司港は、北九州市にある港街です。明治から昭和初期にかけ栄華を誇り、日本の三大港として数えられていました。
現在も、その当時建設された歴史ある建物が街中に点在しており、ノスタルジックな街の雰囲気が魅力的な
「門司港レトロ」として今では人気の観光スポットとなっています。
ワタクシは門司港に来るのは3度目になりますが相棒さんは初めてなんです。
ですので、ワタクシがガイド役となって門司港レトロを散策します


かつての古い倉庫群。一方で高層ビルが聳えています。このビルは門司港レトロハイマートといい、分譲マンションなんですよ。
最上階は展望台になっているそうです。今回は展望台に行くのはパスしました


この建物は大連友好記念館というのですが、中国の遼東半島にある都市、大連市はかつて門司港とは国際航路で結ばれ交流が盛んでした。
そして、昭和54年に両市は友好都市を締結し更なる交流を深めてきました


その友好都市締結15周年を記念し、ロシア帝国が明治三十五年(1902)大連市に建築した東清鉄道汽船事務所を、
そっくり複製し建築されたものなんです。1階は中国料理店に利用されていました


煉瓦造りのこの建物は旧門司税関。旧門司税関は明治42年(1909)に門司税関が発足したのを契機に、
明治45年(1912)に煉瓦造り瓦葺2階建構造で建設されたものです。昭和初期までは、税関庁舎として使用されていました。
この建物、内部の見学ができるのですが、ワタクシ達は見学が目的ではなく、エアコンで涼むのが目的で中に入りました。
汗まみれのオッサン二人が入ってきたので、周囲の人は「なんでこんなに汗をかいてるねん」と思ったでしょうね。
この時点でワタクシはもうすでに18000歩ほど歩いておりました


旧門司税関、大連友好記念館というレトロな建物と高層ビルという新旧の対比が面白いです。
それにしても猛烈な暑さの中、ワタクシ達は何か冷たいものを欲しいと思っていました


「海峡プラザ」という商業施設のカフェで冷たいグレープフルーツソーダをいただきました。
近くのテーブルにいた外国人労働者二人組が美味そうにビールを飲んでいるので、ビールを飲もうかとも思ったんです。
でも、一杯飲めば2杯目、3杯目が欲しくなるので、ここは我慢我慢です


この建物は旧門司三井倶楽部でして、大正10年に三井物産の社交倶楽部として門司に作られました。
ヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られたもので、大正モダンを深くうかがうことができます。
アインシュタイン博士が全国を講演する為に来日した際に、三井倶楽部に宿泊したとのことです


この建物は旧大阪商船ビルで、大正6年に建てられた大阪商船門司支店を修復したものです。
当時、門司港からは一ヶ月の間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航していました。
大阪商船ビルはその拠点の一つとして、一階は待合室・二階はオフィスとして使われており、
外国へ胸躍らせて旅立つ人々で賑わってたそうです。
そして、この後は門司港エリアでワタクシが一番好きな場所へと向かいます

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


私はこれまで二度門司港を訪れましたが、2回とも年末の寒い日だったんです。
海から強い風が吹きつけ、手がかじかむような中で写真を撮っていたんですよ。
今回は一転して猛暑、酷暑の中での散策でした。次回は春や秋の気候のいい時に訪れたいですね。



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伝統工芸の町-福岡県八女市:八女福島

2019年06月23日 | 福岡
Yame Fukushima, Yame City, Fukuoka Pref.

さてさて、福岡県八女市の八女福島に残る昔ながらの町並みを、
ワタクシは興味深く訪ね歩いていました。初めて訪ねる町というのは楽しいですねぇ


さて、ここ八女福島なのですが、この町は江戸時代から明治時代にかけて八女地域における交通の要衝、経済の中心地として発展しました。
和紙、ハゼ蝋、提灯、仏壇、石工品、茶などといった特産品も開発され、商工業の町として大きな利益を得ました


和紙、蝋、提灯などは今ではほぼ見ることが出来ませんが、仏壇は今もこの地域の伝統工芸として残っているんです


八女福島仏壇の生産は江戸時代末に始まり、仕上師18人、彫刻師7人、仏師7人、絵物師10人を数えるほどに発展したそうです。
さらに久留米藩による住居や生活への各種の制限が解除された明治維新以後、仏壇製造はますます増加して、
他産地と同じく明治になって産業としても確立したものと思われます


昨今は核家族化が進み、自宅に仏壇が無いという家庭も多いと思いますが、御先祖は大切にしたいものですね


さらに福島八女の町を西に向かって歩いていきました。ワタクシ、歩くのは一日3万歩くらいまでは苦になりません


古い町並みには酒蔵があるのがよくあることですが、ここ八女福島にも喜多屋酒造という蔵元がありました。
創業は江戸時代の文政年間といいますから、180年の歴史を持つ老舗ですね


日本酒だけではなく焼酎も作っているとのことなので、買って帰ろうかなぁと思ったのですが、
持って歩くのが重たいのと、焼酎は大分の日田で買おうと思っていたので今回は見送りました


いい雰囲気のカフェがあったのですが開店は11時。まだお店は開いてなかったんですよ。
この日は昼には実家の日田に戻らねばなりません。そろそろ帰る時間となりました

使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2


好きな場所を季節などを変えて、何度も訪ねるのも楽しいのですが、
初めての場所を訪ねる時の、ワクワクした高揚感は最高なんですよねぇ。
その感覚がある限り、私は何歳になっても旅をやめることが出来ないように思います。



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懐かしい看板-福岡県八女市:八女福島

2019年06月22日 | 福岡
Yame Fukushima, Yame City, Fukuoka Pref.

さてさて、重要伝統的建造物群保存地区がある福岡県八女市八女福島を訪ねたワタクシは、
初めて訪れるこの町の光景を興味深く眺めながら歩いていました


江戸時代、福島の町家は茅葺屋根が主流であったのですが、度々の大火に見舞われたことにより、
防火性の高い土蔵造の町家が盛んに建てられるようになったとのこと。
建造物の形、高さ、色彩などが統一されていると視覚的なリズム感がいいですよね


「ダッテン・コンネ」…ここはパン屋さんでしたが、この日は休業日のようでした。
この「ダッテン・コンネ」というのは最初は何語かと思ったのですが、この地域の方言なのかなぁ


通りを歩いていると、昔懐かしいホーロー看板を掲げた建物がありました。
ワタクシ、ついついホーロー看板の方に近寄ってみました


どれもこれも懐かしい看板ばかりです。子供の頃、アース渦巻きの由美かおるさんは色っぽくてドキドキしたものでした。
大村崑さんが登場するオロナミンCのCMは「オロナミンCは小さな巨人です」というのが定番のセリフでしたが、
アンチ巨人のワタクシ達は巨人ファンの友人に「それやったら巨人は大きなオロナミンCやんけ」と、
訳の分からない屁理屈を言っていたものでした。あの頃、ワタクシ達はアホでした


オロナイン軟膏の看板の女性は、浪花千栄子さんという女優さんだったと思います。
名前の通り大阪出身の人で、ワタクシのかすかな記憶では阪神タイガースの大エースだった村山実投手の引退試合に、
始球式だったか花束贈呈だったか、試合に花を添えていた記憶があるんですよ


松山容子さんが登場するボンカレーは、最初のレトルト食品だったように思います。
大阪人のワタクシには、笑福亭仁鶴さんのボンカレーのCMも印象深いんですよねぇ


子供の頃、駄菓子屋というのは子供達の社交場でしたね。なぜか駄菓子屋というのは、お店をやっているのはおばあちゃんでした。
若い人や男性がやっている駄菓子屋というのは記憶に無いんですよ


立派な仏壇店がありましたが八女福島の町を歩いていると、やたらと仏壇店を見かけるのです。
このことについては、またブログに書いてみたいと思います

使用したカメラ:4、6枚目はFUJIFILM X-T1、他はFUJIFILM X-Pro2


地方を旅していると、いまでもホーロー看板に出会うことがあります。
それだけ、高度経済成長期に数々のホーロー看板が日本の津々浦々にまで掲示されたということでしょう。
日本中でどれだけの男の子が、由美かおるさんの姿にドキドキしたのでしょうね。



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