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何が中華の優等生の発展を阻害したのか
李氏朝鮮(1392年〜1910年)は、日本で言うと室町時代から明治時代まで朝鮮半島を統治した王朝。
訓民正音(ハングル)の制定や「経国大典」の作成など、現在の朝鮮半島の大きな部分を成す文化が作られた一方で社会発展は著しく停滞。
朝鮮はもともと日本よりよっぽど文明国だったのですが、19世紀末に日本が素早く近代化に成功したのに対して、自浄作用がうまく機能せずにとうとう1910年に日本に併合されてしまいます。
何が李氏朝鮮の社会発展を阻害したのか。
組織論としても、現代韓国を見る上でも重要な視点だと思います。
1. 国の建国理念
崇儒排仏
李氏朝鮮は建国理念に「崇儒排仏」を置きました。その名の通り「儒教を重んじ、仏教を排除する」こと。
理由としては、前王朝である高麗の建国理念が仏教であったので前王朝の権威を否定する狙いがありました。
本来高麗王朝は、儒教を軽んじていたわけではなく、太祖・王健は「仏教と儒教を互いに補完する存在」と見なし儒教を重んじました。
しかし歴代の国王たちは仏教を特に重んじる傾向があり、仏事に傾倒して国政を顧みない者が続出。
高麗末には王権と癒着した仏教勢力を排除すべく朱子学派が台頭し、そのパワーは高麗打倒の源になりそのまま李氏朝鮮に受け継がれました。
2. 防衛政策
対外施策
高麗は末期まで元王朝の影響下にあり、元をモンゴル高原に追いやった明王朝と対立関係にありました。
北方からの敵の侵入に苦しんだ高麗の経験を鑑み、李氏朝鮮は明王朝との関係改善を重視。
1年に3回朝貢を行うなど積極的に明王朝の傘下に入ります。
日本に対しては、足利将軍や西日本の豪族たちと通交して制限つきながら交易を認め、武装商人である倭冦が暴走するのを極力抑えようとしました。
国内施策
国軍は中央に配置される職業軍人(五衛軍)と、地方に配置される使役農民の軍(鎮守軍)で構成されました。
原則として各道に陸軍と水軍を1つずつ。
対女真族のため北方には陸軍を2つ。
対倭冦のため南方には陸軍と水軍を2つずつ。
最前線のトップは武官でしたが、ほとんどは「文臣優位」に基づき文官が務めました。
3. 科挙の実施
科挙はご存知の通り、全国の若者の中から優秀な人物を選抜する官僚試験のことで、合格して文班か武班に就任すると、エリート階級である「両班」になることができました。
いくら両班の子だからと言って子どもも官僚になれるわけではなく、ちゃんと試験にパスしなければ一代で落ちぶれることもありました。
また科挙自体は高麗時代から行われていましたが、このときは武班(士)の試験はほとんどなかったのですが、太祖・李成桂は武を重んじる人であったため、李氏朝鮮期には武班の試験も取り入れられました。
3年に1度試験が行われ、合格人数は文武あわせて約60人ほど。その倍率は1000倍以上にもなったそうです。
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