晴気 誠
陸軍少佐
略歴
大正 1年11月 7日 佐賀県出身
昭和 9年 6月 日 陸軍士官学校卒業(46期)
昭和 9年10月 日 陸軍歩兵少尉、歩兵第13聯隊附
昭和12年 3月 日 陸軍習志野学校附
昭和15年 6月17日 陸軍大学校卒業、支那派遣軍参謀部附(第1課)
昭和16年 7月 日 大本営参謀(作戦班)
昭和20年 7月 日 兼聯合艦隊参謀
昭和20年 8月15日 終戦
昭和20年 8月17日 陸軍省・大本営構内で自決
自決
大本営参謀として国軍の悲境を招いた責任を自ら負い、絶えず死に場所を求めていたが、終戦の翌々17日夜半
大本営馬場の上にある大正天皇御野立所に正座し、同期生に介錯を依頼し古式に則り割腹自決を遂げた。
遺書
戦いは遠からず終わることと思う。而して、それが如何なる形に於て実現するにせよ、予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。
サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
而して、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予は茲にこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、予が無二の内助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。
又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。
今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、貴女より予が遺志を伝えられよ。予がなきあと、予が
残したる三子と共に、更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、神の加護あらんことを祈る。
予が魂、亦共にあらん。
昭和二十年八月十日記
防衛省
陸軍少佐晴気 誠慰霊碑
晴気少佐誌
少佐は太平洋正面の作戦を担当し 戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を尽くしたが 戦局の赴く所如何ともし難く遂に終戦に至る
少佐はその責を一身に帰し この地で自決した高潔な人格と全戦役ほ通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である