「幻の禁書」宗永毅編著「毛沢東の文革大虐殺」を読む(1)
2021-09-28 11:47:17
テーマ:史論公論・今日伝えたいこと かつて1970年代の筆者の学生時代は各大学の構内に、きまって「立て看板」があり、そこには独特の字体が踊っていました。
いつもその文字を眺めながら、どうしても知的とは思えないその字体への違和感とともに、これは一体どこから来たものだろうという疑問を抱いていました。
それがつい昨年のこと、わたくしとほぼ同年代の方で早稲田大学を卒業された会社の重役にこの話をしたところ、
「それは毛沢東語録から来たものですよ」と教えて下さいました。
そういえば、私も中学時代に近所の本屋で売っていた「毛沢東語録」の赤い手帳みたいな本を、単なる好奇心から手にとって見たことがあります。
私は買いませんでしたが、その毛沢東語録をバイブルとして崇め奉った人々が、そういった「立て看板」を書いていたわけです。
年代的には私たちの世代の少し上の、いわゆる「団塊の世代」と呼ばれた方々が主体となって、東大安田講堂占拠・攻防などの激しい学生運動を展開していました。
当時の中国の「文化大革命」にも呼応したその運動で、日本に共産主義革命を起こすことを夢見ていたのです。
前々回ご紹介した「中国共産党暗黒の百年史」(石平著、飛鳥新社2021年刊)の中で取り上げられていた重要な文献の一つが、
『邦題:「毛沢東の文革大虐殺**」の原書』(上海出身の宋永毅編著・香港の出版社「開放雑誌社」2002年刊、邦訳書は原書房2006年刊)でした。
この原書房版の邦訳書を、このたび大変高価な古本でようやく入手できましたので、今回はこの本についてご紹介したいと思います。
もとより本体の本文は著作権の関係でそのままご紹介できませんが、この本に関して書かれた説明や解説の部分から、一体どの様なことが書かれているのかを皆さんにもある程度シェアしたいと思います。
できればぜひ本書をご一読ください。
本当はこういう貴重な本こそ、文庫版でも新書版でもよいのでどこかの出版社から再刊して戴きたいと願っています。
このままでは図書館で見つけられなければ、若い学生の皆さんは入手して読むことさえ難しいと思われます。
まず邦訳書のタイトルは「毛沢東の文革大虐殺 封印された現代中国の闇を検証」となっており、
2006年1月28日に第1刷が原書房から刊行されています。
原著は2002年7月に香港の「開放雑誌社」から上梓された「文革大」(英文名:MASSACRES DURING THE CULTURAL REVOLUTION, Edited by Song Yongyi )で、同社の発行していた「開放雑誌」は、雑誌「争鳴」とともに香港を代表するつとに名高い雑誌だったとのことです。
この「開放雑誌」の当時の「金鐘」編集長による「同書の出版後記:文革虐殺事件の特徴」によれば、
まず前段として2001年、この「開放雑誌」に「湖南省道県の大虐殺」を連載したとき、その内容に衝撃を受けた読者から単行本にしてほしいとの提案があり、
その後2002年の春にアメリカのディキンソン・カレッジの文革史研究者の宋永毅先生が、上記の湖南省道県を含め文革の有名な虐殺事件を集めて編集していた本書を同社から刊行したいと希望されたので、
「文化大革命(*文革)の真相」を伝えるために出版に至ったとのことです。
その「出版後記」には次の様な「若干の説明」が記述されています。(*裕鴻註記、尚西暦年などは適宜アラビア数字に修正。)
・・・毛沢東が発動し意のままに操った「文化大革命」は、1966年から1976年までの十年もの間、残忍暴虐な粛清と殺戮をし続けた。
(*中略) 文革を経験した人の記憶は(*2002年当時)まだ新しく、また大躍進(*1958~61年)のさいの餓死者が農村を埋め尽くしたのとは反対に、文革における死者は全国の大中小都市に集中している。
批判闘争、自白の強要、監禁、労働改造、武闘などのさなかに虐待され、死刑を執行され、殴打され、自殺に追い込まれるなどして亡くなった者は中国の至るところにいる。
被害に遭った人の境遇やその災難の規模については、現在(*2002年当時)ではだんだん目にするのがむずかしくなってきているとは言うものの、中国当局の公文書、出版物、マスコミおよび傷痕文学などの文学作品の中にかなり広範に記録されている。
ただし、本書所蔵のものの如く、文革中に発生した大虐殺と言えるような重大な殺人事件については、
当局は今に至るもひた隠しに隠し続け、言論が比較的開放された文革終結後の一時期を含めて、その報道も出版も厳しく禁止している。(*中略)
文革中に発生した一般的な粛清運動と比べてみた場合、次のような特徴を呈していることが分かる。
(一)短い時間内に集中的におこなわれている。(*中略) きわめて短い時間の中で、場所によっては一日に百数十人というような大規模な殺人がおこなわれたのである。
これは完全に「集団虐殺」の性質を呈しており、中共(*中国共産党)のこれまでの政治運動でもまれに見るものである。
(二)殺人の方法がきわめて野蛮である。(*中略) いずれもリンチや残虐な体刑といった、暴徒がその凶暴性を発揮した性質の手段が用いられ、如何なる法律執行の形式も採られていない。
刀で叩き斬る、棒で殴り殺す、縄で絞め殺す、石で叩き殺す、火であぶり殺す、溺死させる、強姦してから殺す、井戸に投げ込む、四肢をばらばらにする、首を切り落とす……など、ありとあらゆる手段が使われたが、とりわけ内モンゴルでは三十六種類の拷問がおこなわれたという記録があり、また資料によっては「数百種の超ファッショ的な」拷問手段があったという。
さらに広西チワン族自治区では、「階級の敵」を殺害したあとその皮(*人間の皮膚)を剥ぎ取って煮て食うことまでした。
そして道県でも「聞けば激怒せずにはいられないような各種の獣行」がおこなわれた。(*後略)
(三)当局による煽動と操作。まさに宋永毅先生が「まえがき」の中で指摘しているとおり、文革大虐殺の各事件は「国家機関による行為と暴民政治が有機的に結合したもの」である。
暴民政治という社会的基盤があったとはいえ、当局による蠱惑(*こわく)的な煽動ないし直接の操作がなかったら、規制の厳格な全体主義体制の下であのような大規模な虐殺事件が発生するのは不可能である。(*中略)
そして広西、青海、沙甸のそれぞれの事件に至っては、武装した(*人民)解放軍が乗り出して人民を殺害している。
また湖南省道県の事件は、後に他の数県へと波及する規模のものだったが、県や人民公社党委員会や人民武装部による激励と画策の下に殺人がおこなわれたのである。
(四)階級絶滅政策の実行。
毛沢東が独断専行し長期にわたって勝手に歪曲し且つ強制的に人々の頭に植え付けた階級闘争理論のおかげで、血統論や出身論が独裁・暴力・批判闘争・殺戮のよりどころや基礎となり、文革中に無数の冤罪・でっち上げ・誤審が生じたばかりでなく、農村の最低層に身を置く者としてつとに基本的人権を剥奪されてきた「四類分子*」が、何の罪もないままに文革における暴虐行為の犠牲者となってしまった。
(*「四類分子」とは、地主・富農・反革命分子・悪質分子をいい、これに右派分子を加えて「黒五類分子」という。
つまり革命前にブルジョワ階級であった家系の子孫はその血統と出身成分が悪いと判定され、虐待や虐殺の対象とされた。) わけても道県・賓陽県・大興県における事件は悲惨きわまるものであり、おのれの本分を守って(*慎ましく)暮らしていた多くの元地主や元富農、或いは元国民党政府の人間が、その家族ともども、不意を突かれるようにして殺され、はなはだしきは一家皆殺しとなって、老いも若きも女も子供も難を逃れることができなかった。(*後略)
(五)罪名の捏造。虐殺事件ではいずれの場合も、殺人をおこなうために罪名がでっち上げられた。
内モンゴル自治区の「内人党」、広西チワン族自治区の「反共救国団」、沙甸の「イスラム共和国」、道県の「貧農・下層中農殺し」など、大げさで人騒がせな、何の証拠もないまま厳しい拷問にかけて自白させた罪名により、きわめて多くの人が殺された。
文革後、それらの罪名はすべてくつがえされた。中共(*中国共産党)のこれまでの政治運動において、「罪を着せようと思えば口実はいくらでもある」というやり方は別に珍しいものではないが、罪名を捏造して大虐殺をほしいままにするというのはやはり稀有なできごとである。
(六)大虐殺の責任を誰も取らないこと。(*中略) 責任追究の面では、中共(*中国共産党)上層部の政策は小物を捕まえて大物は逃がすというものだった。(*中略) どの虐殺事件でも上層部の責任者は、たとえば内モンゴルの膝海清や広西の韋国清・王建勳などは、いずれも庇護されたまま昇進し重用されている。
また韋国清と膝海清の二人は鄧小平じきじきの保護さえ受けており、そこには反省のかけらも見えない。
(*中略) 中共当局は毛沢東を守る必要から、文革における犯罪行為に対してはことごとく「文革の特定の歴史的一時期に、極左思想の影響を受けておこなわれた」という遁辞を弄している。
実際には、毛沢東の影響は階級闘争というこの大々的な理論の上だけには止まらず、具体的な政策や方針の上にも及んでその鶴の一声が天下の法律となることが往々にしてあり、そのため百万、千万という多くの人の首が地に落ちる結果となった。
広西の「反共救国団」殺害にしても、まさに「文化大革命は国共闘争*の継続である」という毛沢東の言葉を受けて大胆不敵におこなわれた大規模な殺戮だった。(*国民党と共産党の闘争) また軍隊(*人民解放軍)も殺人犯の庇護者となっている。
文革後、賓陽県委員会が(*中国共産)党の名をもって王建勳を起訴した一件は今に至るもその裁定が下らず、王建勳はいまだに広州軍区の庇護の下、のうのうと暮らしている。(*後略)
1966年から1976年まで――それは中国の歴史上もっとも暗黒でもっとも恥ずべき、そしてもっとも残虐でもっともでたらめな十年だった。その暗黒の中でもいちばん恐ろしい一頁――文革大虐殺の真相――を暴いて見せたことで、本書の編者および著者たちは中国の将来の進歩のために無上の貢献をなし得たことになり、出版の責務を負った小社(*香港の開放雑誌社)もいささか光栄に思っている。
文革の大虐殺事件は本書に収めた幾つかの例に止まらないはずであり、専門の学者たちが必ず補充してくれることになるだろう。
本書の各編に見られる充実した資料はその大多数が、著者たちが文革後に組織された「文革殺人未処理問題工作組」に参画し或いはまた実地調査をすることによって得られたものであり、また各現地政府が文革後に編集した地方誌に基づく資料も少なからずある。
事実に相違するところがあれば読者のご叱正を仰ぎたい。
時が経つにつれ、歴史の真実が絶え間なく現れてくるものと信じている。・・・(**同上書367~372頁「出版後記」より適宜抜粋)
このように金鐘編集長は書いていますが、この2002年当時よりも「民主化」の情況がきわめて悪化した香港で、果たして現在はこの「開放雑誌社」や金鐘氏はどうなっているのでしょうか。心配です。
さて、この本には、二つの「序文」が寄せられています。「序文〔1〕」は、胡績偉(フー・チーウェイ)氏:「前《人民日報》編集長、社長。当時北京在住」という方が書いています。
また、「序文〔2〕」は、徐友漁(シェイ・ユーユイ)氏:「中国社会科学院研究員。文革研究者。《さまざまな造反》、《文化大革命中の異端思潮》、《文化大革命中の社会組織》など多数の著書や論文を発表。2002年から、スウェーデン・ストックホルム大学客員教授。」という方によるものです。
因みに、本書**の編著者である宋永毅(ソン・ヨンイー)氏の紹介は、同書によれば「1949年生まれ。1989年アメリカ留学。コロラド大学およびインディアナ大学で修士の学位を取得。著書に《文化大革命とその異端思潮》、《文化大革命参考目録1966-1976》がある。ハーバード大学のマックファーカー氏は、宋永毅氏について「文革という暗黒の時代の真相を発掘しようと努力している誠実な研究者」と評している。
1999年8月、中国において文革資料を収集中に(*中国政府官憲)当局に逮捕された。
2000年1月釈放。(*2006年)現在、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校図書館研究員。」となっています。
本書は、この宋永毅氏が「中共(*中国共産党)の国家機関行為」という17頁の「まえがき」を執筆し、その他の八名の中国人の作家・研究者・教授などが書いた第一章から第八章までを編集して出来上がったものです。
本書の翻訳者である松田州二氏(1976年、東京教育大学文学部文学科言語学専攻卒業の翻訳家)による同書の「訳者あとがき」によれば、
「文革殺人未処理問題工作組に参画したことのある者を含む八名の文革研究者が、中共当局が作成した資料や各地方政府が発行した地方誌など各種の文革関係資料を精査し、また事件の現地を訪れて被害者の肉親や目撃者、さらには監獄に収監されている文革殺人の直接の下手人をも含む事件関係者に対しておこなった取材やインタビューにもとづいて、その経過や背景を詳細に辿ることにより、事件全体の究極の責任の所在が中共という国家機関、なかんずく当時の最高権力者・毛沢東にあることを、なんびとたりとも否定できない形で明らかにしてみせた、文革研究の最前線である。
中共当局は文革の真相を暴露されることを恐れ、またひいては中共にとっていまなお「偉大な指導者」であり続けてもらわねばならぬ毛沢東の化けの皮を剥がされることを恐れて、文革に関する研究やドキュメンタリーを出版・報道することを厳しく禁止しており、
その禁を破ればただちに逮捕とそれに続く残虐な取り調べが、そして場合によっては虐待死さえもが待っている。
そのため、本書の本文を書いた八人の執筆者のうち中国在住の者の中には本名や身分を明かせないでいる人もいる。
ことほどさように中国は ―― 一、二週間、中国を駆け足旅行で回っただけの人には絶対に理解できないだろうが ―― 真実を口にすることのできない恐怖政治のおこなわれている国であり、血縁者さえをも信用できない密告社会である。
その恐怖政治と密告制度によってかろうじて体制を維持している中共政府に真正面から文革の真相を突きつけた本書は、まさに掛け値なしの文革研究の「最前線」なのである。」(**同上書374~375頁「訳者あとがき」より抜粋)
この本が出版された2002年当時の香港は、1997年に「返還」されてからまだ五年後であり、今となっては空約束となった「一国二制度の50年間の堅持」や「香港の高度な自治」が未だ作用していた時期です。
従って中国共産党政権からすれば「禁書」であるような本書も、まだ出版することができたのですが、昨年以来の「民主化弾圧」が法制度の改変によって常態化した現在、本書に関わった人たちの安否も気になるところです。
上述した胡績偉氏:前《人民日報》編集長・社長による「序文〔1〕」の中を少し覗いてみましょう。
・・・(*前略) 香港や海外の新聞・雑誌や出版社の中には文革史料の収集や出版に熱心に取り組んできたところもあるということは注目に値する。
まもなく出版される《文革大虐殺》という本には、「文革時期」というこの全体主義、独裁政治の下での種々の暴行が記録されており、読んで心が痛むような真実や真相がいくつか暴き出され、詳細かつ正確に記述されている。この事実の暴露によって、毛沢東の功罪を天秤にかけて全体的な評価を下す上で、その「罪」の方にまた一つ分銅を加える結果となった。
去年(*2001年)七月、雑誌《開放》に《道県大虐殺》という記事が掲載され、世間を驚愕させた。
それに先立って私は、雲南省の(*人民)解放軍が沙甸村の回教徒を大量に殺戮した事件、内モンゴル自治区のいわゆる「内人党」大虐殺事件、そして広西チワン族自治区の残虐な食人事件のことを相次いで耳にしたが、いずれの事件についても真相を告げる詳しい資料は見たことがなかった。
《文革大虐殺》というこの本は、同県や内人党などに関する残虐行為を集め、比較的詳細かつ正確な歴史的資料を読者に提供している。
(*中略) 編者(*宋永毅氏)は私たちに、世間を震撼させた大虐殺は「文革」初期の無政府状態の混乱期に起きたのでもなければ、
また対立する派閥間の武闘時期、すなわち「紅衛兵」と「革命造反派」が悪事の限りを尽くしていた時期におこなわれたものでもなく、
1968年に最高指導者(*毛沢東)が(*人民)解放軍に対して「左派」を支持するよう指示を出し、「軍宣隊」(*中国人民解放軍毛沢東思想宣伝隊の略称。
「工宣隊」(労働者毛沢東思想宣伝隊)に続いて、学校や各種国家機関に派遣されて高度の指導権を振るった人民解放軍の宣伝担当部隊。) が各機関・各職場・各級(*地方)政府に駐屯して権力を奪取し、それらの機関・職場・政府に一つまた一つと「赤色政権(*ママ)」を打ち立てていった以後に発生したものである、と告げている。
つまり、「文革」中の各種の残忍非道な犯罪行為は、プロレタリア階級による全面的な権力奪取以降、「赤色政権」の下で公然とおこなわれたものであり、
まさに宗先生のまえがきにあるように、「要するに、文革中の虐殺や暴力の大部分は国家機関の行為と言えるものであり、(*中国共産党)政権が人民に対して直接おこなった殺戮」なのである。
宗先生の言うとおり、それらの大虐殺はすべて毛沢東の指導の下におこなわれた「ブルジョワ階級に対するプロレタリア階級の大革命行動」だった。
(*筆者記註:因みに大虐殺された内モンゴル人、広西チワン族などの「少数民族」も全員「ブルジョワ階級」だったのでしょうか。)
だからこそ、中共第十一期六中全会で採択された《建国以来の(*中国共産)党の若干の問題に関する決議》の中で、
「『文化大革命』というこの全局的で長期間(*十年間)にわたった『左』傾の重大な過失に対しては、
毛沢東同志がその主要な責任を負わねばならない」と決定せざるを得なかったのである。
私(*胡績偉氏:前《人民日報》編集長)は、「文革」の一切の責任を林彪や江青ら「四人組」に押し付けることはできず、主要な責任は毛沢東にあると思っている。
もちろん、厳密に言うならば、多くのことが(*中国共産)党や政権による決定に関わるものであった以上、まったく毛沢東個人に責任を負わせるということもできないが、ただ毛沢東はなんといっても当時「一切を決定し、一切を統率し、一切を指揮」していた「四つの偉大」と呼ばれる最高指導者だったのである。
毛沢東に対する評価は、(*中国共産党)政府側の見方は「三分と七分の割合」であり、「七分の功績と三分の過失」があったとしている。
多くの人はそれに同意せず、その反対の「七分の過失と三分の功績」があったと考えている。
民間でひそかに広まっている評価の仕方はもっと手厳しいものである。
毛沢東は自分のことを「マルクスと秦の始皇帝を足したもの」だと言っていたが、
「スターリンと秦の始皇帝を足したもの」と言うべきだとする人もおり、また毛沢東は中国の歴史上最大級の暴君であると言う人もいる。
(*このあと、胡績偉氏は中国の共産革命における全体的な評価をすべきだとして毛沢東を擁護していますが、省略します。)
次に、鄧小平に対する盲目的個人崇拝は極度に膨張し、鄧小平は影の支配者にまでなったのだが、そのときも鄧小平はやはり毛沢東の独裁専制的暴力統治を継承し、共産党の歴史上最良の二人の総書記――胡耀邦と趙紫陽――を理不尽にも罷免した。
当時、学生たちは胡耀邦を追悼するため、権力の腐敗に反対し民主化を勝ち取るためのデモを展開したが、なんと鄧小平は国防軍(*人民解放軍)を動員して北京に戒厳令を敷き、さらには学生たちを鎮圧するよう人民解放軍に命令を下し、世界を驚かせた六月四日の「第二次天安門事件」という虐殺事件を引き起こした。
このことは単にわが国の改革開放のプロセスを阻んだと言うに止まらず、鄧小平自身の晩年に悲しむべき汚点を残すことにもなったのである。
しかし、これは鄧小平の不名誉な一面に過ぎない。
鄧小平には輝かしい別の一面もたしかにある。(*中略)
鄧小平は、数十年に及んだ毛沢東によるプロレタリア独裁という、階級闘争を要とする全般的方針を否定し、社会主義の建設を中心とする全般的方針を確定した。
それは社会主義建設の新しい時代を開くことになった。
(*中略) 鄧小平は深圳特別経済特区の建設に賛成し、沿海部に五つの経済特区を設けて資本主義の経済制度を大胆に学ぶことを主張したが、それは対外的な開放という新局面を押し進めることとなった。
鄧小平は「一国二制度」の方策を打ち出し、香港・マカオの資本主義制度を大胆に保留し、中国経済の発展をさらに一歩前進させた。
(*中略) 鄧小平は、新民主主義の段階から社会主義理論への急激な移行を否定することを支持し、中国が現在(*2002年当時)のところ依然として「社会主義の初期段階」にあるということを確認した。
鄧小平は「資本主義」だの「社会主義」だのという旧来の枠組を打ち破り、高度に集中的な統一的計画経済体制(*マルクス主義経済体制)を廃止することを大胆に打ち出し、市場経済等々を大胆に推進したのである。
(*筆者記註:言い方を変えれば「社会主義経済体制」の破綻を認めたともいえる。
このように鄧小平を擁護する記述をしているが、このあとは省略する。)
《開放》出版社から、《文革大虐殺》という一書を出版するにあたり序文を書くようにというお誘いを受けた。
そして宋永毅先生の文章を読んで、これまで胸に溜まっていたいろいろな思いや考えを呼び覚まされた。
この機会に本書の読者に私の考えを簡単にお話しして参考に供する次第である。
不適切な箇所については、ご指摘ご叱正を歓迎するものである。
2002年6月24日
胡績偉:「前《人民日報》編集長、社長。当時北京在住」・・・(**同上書6~12頁「序文〔1〕」より部分抜粋)
現在は、ここで胡績偉氏が高らかに謳った鄧小平による香港の「一国二制度」の実態が次第に姿を現し、また日本経済新聞の2021年9月25日付記事「香港、天安門追悼の団体が解散 中国民主化を長年訴え【香港=木原雄士】」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM251OL0V20C21A9000000/
が報道する通り、
「香港で天安門事件の犠牲者の追悼集会を長年開いてきた民主派団体、香港市民愛国民主運動支援連合会(支連会)が25日、解散を決めた。
香港国家安全維持法(国安法)による弾圧が強まり、活動を続けるのが難しいと判断した。
今後、中国国内で人権問題や民主化を訴える活動は一段と難しくなる。
支連会が25日、臨時の会員総会を開いて決議した。
1989年に設立され、毎年、天安門事件があった6月4日に追悼や真相究明を訴える大規模な集会を開いてきた。
有力幹部が相次いで収監され、団体としても国安法違反罪で起訴されるなど、当局の圧力が強まっていた。
香港は「一国二制度」のもと、中国本土では許されない政治活動が可能だった。
支連会も長年「共産党一党支配の終結」をスローガンに掲げてきた。
国安法の施行後、一気に締め付けが強まり、主要な民主派団体は8月以降、立て続けに解散を決めた。」というような政治情況です。
今回はここまでとし、次回も引き続きこの「毛沢東の文革大虐殺」を取り上げたいと思います。