なぜ韓国は中国についていくのか: 日本人が知らない中韓連携の深層 単行本
– 2014/4/19
荒木 信子 (著)
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投稿者閑居人殿堂入りベスト1000レビュアー2014年4月24日
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「なぜ、韓国は中国にすり寄っていくのか?」
著者によれば、これは突然、起きたことではない。
著者によれば、これは突然、起きたことではない。
1988年の廬泰愚政権以降、韓国は明確に親中路線をとり続けてきたのだという。
1992年の国交回復で加速されたこの路線は、2000年代に入ると、少なくとも韓国政界では半ば常識化していった。
とりわけ、経済関係の深まりは、韓国の中国へのすり寄りを正当化した。
では、なぜ、日本は、韓国のこの変化に気づかなかったのか?
1965年の「日韓基本条約による経済協力」。「浦項製鉄所建設と技術援助」。
70年代からの「ソウル地下鉄建設」。「1997年IMF管理下に入った韓国通貨危機への救済」「2008年リーマンショック」 ・・・戦後の日本人から見れば、日本は韓国に考えられる限り寛大に接し、忍耐強く、付き合ってきた。
「慰安婦問題」での「河野談話」などおよそ馬鹿げたものだが、そこにも韓国への善意と配慮があったことは間違いない。
「朝鮮戦争」であれほど韓国を蹂躙した中国。
経済的にも日本のような援助を示すことはない。
韓国は「日米同盟」から離れることはないだろう。実は、そう考えたところに、日本の大きな油断があった。
著者は、「朴槿恵」という韓国人を一つのケーススタディとして、現在の「反日政策」を分析する。
「朴槿恵」の生い立ちは広く知られているが、その彼女には、2007年に発行した「絶望は私を鍛え、希望は私を動かす」という自伝がある。
著者は、「朴槿恵」という韓国人を一つのケーススタディとして、現在の「反日政策」を分析する。
「朴槿恵」の生い立ちは広く知られているが、その彼女には、2007年に発行した「絶望は私を鍛え、希望は私を動かす」という自伝がある。
この本の中に、彼女の中国と日本に対する思いが如実に表れている。
2005年5月、野党の党首として訪中した朴は、胡錦濤を「優しく、穏やかで、カリスマ性が滲み出ている」と書いている。余程、心が触れたのであろう。
「朝鮮半島の平和化と安定、核放棄が中国の原則的立場である」と手放しで感動している。
また、重慶を訪問し「大韓民族臨時政府」の庁舎跡を訪ねて、感謝の「碑」を贈った。
(「大韓民族臨時政府」と言っても、普通の日本人にはなじみのないものである。
(「大韓民族臨時政府」と言っても、普通の日本人にはなじみのないものである。
韓国の国定教科書にのみ、「世界に認知されていた歴史的事実」であるかのように堂々と記載されているものである。
もともと、この臨時政府は、1919年、上海のフランス租界で李承晩を国務総理として結成された。
常識的に言えば、朝鮮にいられなくなった殺人者、「テロリスト集団」である。
李承晩は金九に招聘され、数年後には追放された。
現在韓国で英雄視され、教科書にも伝記が載っている「金九・キムグ」は、実質的な最高幹部であり、昭和7年、昭和天皇を暗殺しようとして失敗した「桜田門事件」、多数の死傷者を出した「上海天長節事件」を指示・実行させた。
この他、多数のテロ事件に加担したが、戦後、金九自身も李承晩の部下に暗殺された。
この「臨時政府」は、後に重慶に本部を置き、1940年には日本に「宣戦布告した」ことに韓国ではなっているが、日本側は受け取った形跡がなく、当時の関係国による言及もない。
真偽不明であるが、常識的には歴史の捏造だろう。
「1970年、ハイジャック事件後、ピョンヤンに田宮高麿を首班とする日本臨時革命政府が作られた」などと後代に記載されることを想像すると、実態が分かり易いだろう。
ただし、これは、現在の韓国では、国家公認の歴史観なのである。
1945年、日本の敗戦後、アメリカは、体制が整うまで臨時に3ヶ月「朝鮮総督府」に内政を任せ、その後アメリカ自身が内政に当たった。
第二次大戦を韓国人は日本人とともに戦った。
そして、1948年、信託統治していたアメリカから独立した。
国際的に見れば、重慶の「臨時政府」は何の正統性もない。
そんなものを教科書に大々的に掲載すること自体、呆れることである。
問題は、朴槿恵が韓国民が熱狂する「歴史のファンタジー」の虜であるということであり、通常の理性を持たないことである。)
著者はまた、「四川訪問」の際、彼女が「中国の西部大開発」に関心を抱いたことに着目する。
中国による「ウィグル支配」「チベット開発」・・・。
日本人なら、「民族洗浄」のおぞましい大虐殺を連想し、大規模な環境破壊を想像し、警戒することだろう。
しかし、彼女は「ビジネスチャンス」として「韓国企業による中国市場の開拓」を夢見て、胸を弾ませるのである。
朴槿恵の心には、「虐待される少数民族への人権の配慮」など露程浮かばない。
さて、日本に対してはどうか。
2006年3月、彼女はハンナラ党の代表として訪日し、森喜朗、河野洋平、安倍晋三らと会見している。
彼女は書く。「韓日関係が悪くなった原因は日本にあるが・・・」。
さて、日本に対してはどうか。
2006年3月、彼女はハンナラ党の代表として訪日し、森喜朗、河野洋平、安倍晋三らと会見している。
彼女は書く。「韓日関係が悪くなった原因は日本にあるが・・・」。
その具体的例は彼女によると「相次ぐ妄言、竹島、靖国参拝、教科書問題、慰安婦問題など」であるという。
「私は、歴史問題を私たちの世代で解決せねばならず、後の世代に負担をかけてはならないと述べた。」
興味深いことは、にもかからわず、彼女は「歴史問題は100年経ってもなくなるわけではない」とも述べていることである。
そこには、「自分で韓日の歴史問題を解決して」「日本に未来永劫跪かせなければならない」という強い思いが表れている。
つまり、彼女にとって歴史問題は和解と新たなステージへの旅立ちではなく、(日本が植民地化したという)過去を断罪し、
新たな従属関係に固定し、そこから精神的・物質的利益を引き出していくための道具なのである。
しかし、それは朝鮮戦争で韓国を蹂躙した中国には求めない。
なぜなら、中国人は遙かに野蛮であり、決して謝罪することはないからである。
下世話な言い方をすれば、「隣国には、直ぐに謝罪し、援助を惜しまない、無理を聞いてくれる金持ちの『カモ』がいる。
それなのに、これを韓国のために使わないなんて無いじゃないの!」ということなのだ。
「中韓連携」は、一義的には経済的必要性である。しかし、その「深層にあるもの」は、もちろん「歴史」と「個人」だろう。
「朴槿恵」という人格は、極端な自己中心的性格である。
「中韓連携」は、一義的には経済的必要性である。しかし、その「深層にあるもの」は、もちろん「歴史」と「個人」だろう。
「朴槿恵」という人格は、極端な自己中心的性格である。
このような人物は、自分の思い込みが唯一の真理であると考え、他人の意見を聞き入れない。
普通の人間は、一旦、遠くから自分自身を見つめ直したり、他人の意見を参考にしたり、なるべく、公正で客観的な立場に身を置こうとするものであるが、
自分の意見と合わない意見は排除し、どこまでも自己の正しさを利益の最大値として追求する。
実は、彼女は、まさしく「平均的韓国人」なのだ。
今、韓国は中国に向かっているが、不都合になれば、また、日本やアメリカの顔色を伺うだろう。
そして、それに合わせて、「利益の最大値」を言語化していくことだろう。
そこにあるものは、「ただ、今現在、自分がいい思いをしたい」という究極の利己主義である。
朴槿恵が今やっていることは、本当に怖いもの(中国)には媚態を示し、
朴槿恵が今やっていることは、本当に怖いもの(中国)には媚態を示し、
一番怖くないもの(日本)には「おまえが悪いから」と悪態をつき、
怖いが地理的に遠い(アメリカ)には、「日本を叱ってくれるなら」と甘えてみせる。
それが通じるものなら、それでいこう。
ダメなら、次の手を考えるさ、というようなものだ。通常、日本ではこういう女を「性悪女」と呼ぶ。
「歴史」はどうか。どの程度、影響しているのか。
「歴史」はどうか。どの程度、影響しているのか。
過去の歴史は重要であるが、実は、同時に決定的な要因ではない。
なぜなら、「韓流ドラマ」を見て分かるとおり、彼らはそれはいつでも解釈を変えられるものだと思っているからである。
もちろん、長い歴史の中で、「中華文明圏」に属した記憶や、モンゴルや女真族に征圧され、瀋陽を中心に七十万人の奴隷や毎年数千人の貢女を差し出した記憶は、無意識の底まで染みこんでいることだろう。
陸続きの恐怖感はDNAの一部になっているだろう。
しかし、それでも、それらは彼らの「自己中心主義」の従属変数に過ぎない。
その証拠に、日韓併合の35年間で、彼らは危うく「日本人」になるところではなかったか。
著者、荒木信子氏は、本書「第五章」で、日本の併合時代に広く深く存在した日本人と韓国人との心の交流に思いをいたし、現状を憂える。
著者、荒木信子氏は、本書「第五章」で、日本の併合時代に広く深く存在した日本人と韓国人との心の交流に思いをいたし、現状を憂える。
確かに、人口の僅か2%程度だった日本人と、韓国人が素朴な信頼感を抱いたこともあったのである。
しかし、現代の韓国人には、本来、そうした過去を懐かしむ「感傷」はないのではないか。
最も情感をぶつけてくる民族であるように見える彼らは、その「情感」の中身の虚ろさを最も良く知っている民族ではないか。
「運動暴発」のようなパフォーマンスの本質は、彼らの立場を良くしようという利益誘導と生存本能である。
彼らが優れた文学作品をほとんど持たないことも、それを裏付けていると思えるのだ。