幻のスパイ、底辺のまなざし
「 松岡が私に与えた仕事とは大体次のようなことだった。
1.通州事件(1937年)、南京事件のような戦闘中に起こった暴虐行為の真偽を調べる
2.戦場で起こった暴虐事件のうち作戦行動とは関係なく起こされた人倫にもとる行為と見られるものを調べる
3.北満州の張鼓峰事件について蒙古人社会の思想状況を調べる
4.中国を中心に、東南アジア地域の思想傾向を調べる 」 ―『戦場の狗』より
シクルシイ氏の諜報活動は、ここに書かれてある松岡の意図に沿ったものであったはずだが、読んでどうにも納得がいきかねるのは、「それを調べてどうする(した)のだ」というところだ。
1938年、入隊前のシクルシイ氏が熱海で最後に松岡と対面した際に、松岡は、「アメリカとの戦争だけは絶対に避けなければならないが、今の日本政府には軍部を圧えこむ力はないので、近いうちに戦うことになるだろう。
そうなったら必ず負ける」と語ったという。
そして、「私は政治家で国を守る責任がある。
国を失った人民がどれほど惨めなものかも知っている。
国を失うようなことは命を賭しても防がなければならない」と言って、上に挙げた任務を命じた、というのだ。
松岡は、敗戦後の日本を、中国大陸の現状から透視しようとしているのか。
それとも、集めさせた情報を、来るべき敗戦処理に活用しようというのだろうか。
あるいは、シクルシイ氏の最初の任務がノモンハン事件の事後調査だったことを考えると、当初の松岡は日米開戦の阻止を目的としていたものの、戦況の推移とともに敗戦を見据えた情報収集に舵を切ったのかもしれない。
しかしいずれにせよ、松岡は極東軍事裁判の渦中に病気で亡くなっており、彼の集めた情報、特に非人道的行為に関する情報をどう利用したのか、利用するつもりであったのかは、よくわからない。
そして、その困難な任務に耐えられる人材を養成するために、シクルシイ氏以前の候補を含めて30年の時間と膨大なコストを費やしているのだ。
シクルシイ氏も、自分は7年余りも戦場を渡り歩いて、見たままを淡々と報告しただけで、軍には何の恩義も感じていないと書いている。
と同時に、アイヌ故に受けた差別や、屈辱的な去勢手術、凄まじい拷問についても、ただ淡々と述べるだけで、恨みがましい表現は何一つとしてしていない。
要するに自分は家族から国に売られ、それに逆らう術を持たなかったゆえに、戦場の狗となり道具となった(そしてそれを完璧にやりおおせた、一人の命も奪うことなしに)、後のことは、国が勝手に決めればいい。
そんな諦念と、強靭な自負と思える筆致が、この手記全体を貫いている。
和気市夫中尉、またの名シクルシイ、大陸においては哥老会の薫之祥(クン・ズシアン)を名乗るスパイの、戦後47年が経ってからの告白を、我々はどう受け取ればいいのだろうか。
ここに書かれてあることを一つ一つ検証すれば、事実はある程度判明するはずだ。
同様に考える読者は多いのだろう、シクルシイ氏の実在を確かめようと、出版社や北海道各地の図書館に照会して廻った人がいたようだが、小学校の先生の名前が見つかったくらいで、そもそも和気市夫なる人物がいたかどうかは全くわからなかったようだ。
裏権力の実態と、歴史の闇に葬られたもう一つの真実。
あるいは、「天才アイヌ少年シクルシイ」という、社会の周辺部にうまれた半架空の人物を主人公にした、ロマンチックでヒロイックな、ビターテイストの裏日本史。
どちらにしても、映画以上に映画的な物語だ。 仮に映像化しても、かえって嘘臭くなるばかりだろう。
しかし、誰かが確かに見た、聞いた底辺の事実を、やはり社会の底辺の痛みを知る人物がまとめ上げて世に問うたと考えたらどうだろうか。
シクルシイ氏はその後、第一生命保険の人権問題研修推進本部の顧問を務めたとされ、彼の死後『まつろはぬもの』を世に出した加藤昌彦氏は、大阪の開放出版社の編集者(こちらは実在)であったようだ。
中国大陸における詳細を極めた戦場の報告、各地で強姦に次ぐ強姦の責め苦を負った女性たちの悲劇、日本軍による捕虜大量虐殺の事実。
こうした理不尽を、「シクルシイ」の言葉を借りて明るみに出したい。
誰よりも有能で、高潔で、なおかつ去勢された男―非加害者―が、社会の最底辺から見た戦争=社会を描き出す。
従順そうに見えて、実は決して服従しない『まつろはぬもの』の、鋭利で、しかし読者をワクワクとさせる娯楽性も備えた強靭な書物――。
私は、この2冊をそのように解釈することにした。 これを読んだ他の読者は、どのように思っただろうか。
(おしまい)
・・「この体術は何というのですか」と訊ねたところ、朝鮮の武術でテコンドーと言い、中国の拳法や日本の空手や柔術とも違う。すべての技が必殺の極め技で、テコンドーでは負けることは死ぬことだと教えている、と答えた。・・
など、戦前戦中には有り得ない話が数多く書かれているそうです。「テコンドー」は戦後に韓国で始まった武術ですし、この言葉自体は確実に戦後のモノです。「戦場の狗」にはこの記述は有りますか?