谷口藍田、この名前を教えてもらえたのは妻の実家のお寺 諸富町大堂の 西蓮寺の僧侶、毎月の月命日でお会いする中での話で、有田町の谷口藍田と言う名前を知りました。
有田町に育っている私はこの名前を初めて知りました。有田町では磁器開発に当たった歴史の話はたまに聞きますが、有田の発展を支えてきた人材の育成に貢献したとされる 儒学者・谷口藍田がどんな人物かを知りたくなりました。
さっそく、有田町の図書館へ行き関係図書を探すとお隣町の山内町にお住いの浦川晟さんが発行された『儒学者 谷口藍田』が手にすることができました。
文政5(1822)年 8月15日 有田町で生まれています。
1822年と言うと、佐賀七賢人の 佐野常民 が同じ 1822年に今の佐賀市川副町に生まれ、島義勇 も同じ 1822年に今の佐賀市に生まれています。更に、鍋島直正(閑叟)が 1814年に佐賀藩九代藩主鍋島斉直の子として江戸で生まれている。 副島種臣 は、1828年に今の佐賀市に生まれ、大木喬任 は 1832年 今の佐賀市水ケ江に生まれ、江藤新平は 1834年佐賀郡八戸村(今の佐賀市八戸町)に生まれ、大隈重信は 1838年 今の佐賀市水ケ江に生まれています。
まさにそんな同じ時代に、有田町で 谷口藍田 は生まれていました。
親が子を育てる導き方、今は誰もが保育園・小学校・中学校へ通って学ぶ制度とはまったく違った体験をさせながら、師と仰ぐ指導者の話を聞き、考えを学び、成長をさせていく時代、子も自分で考えを持って研鑽していく時代背景を、この 浦川晟さんの『儒学者・谷口藍田』を読み始めることで知ることになりました。
藍田 30歳、嘉永4(1851)年 郷里 有田へ戻って、江戸 及び 弘道館で身につけた学問を基礎に 白川の 白川公園に 塾を開いたとあります。 白川公園はどこなのか、僕は今 分かりません。有田ダムの近くだろうか・・。
その後、学びに来る方々が増え、上幸平に塾を移したと書かれています。
上幸平の 篠英陶磁器の車庫の周辺ではないかと、又この当時の門人の中で有名な弟子に、有田では 久富与平・川原善八、横尾謙 などがいたようです。
久富与平は 有田に生まれ、天保12(1841)年 佐賀藩の許可をえて長崎で陶磁器のオランダ貿易をおこなう。磁器の土選び、形状や絵模様を工夫して有田の窯元に製造させ、手びろく販売した。明治11年6月21日死去。名は昌保(まさやす)。屋号は蔵春亭。
お墓は 稗古場の 報恩寺にあり、藍田より先に亡くなり、藍田が与平の功績をたたえた碑が 報恩寺の境内にあるそうです。 次回、見に行ってみます。 藍田の 過去帳も 報恩寺にあるようです。
川原善八とは、藍田の妻になる みん の実兄で、大樽の 古酒場の方だと言う。横尾謙は善八の弟か。
さらに、塾の場所は 山内町の宮野村、小路館山寺へ移ったと。 山内町大字小路、武家の町? 武雄鍋島家 住吉城跡 か・・・「鬒山書院 シンザン」鬒 とは、美しい黒髪と言う意味らしい。
塾生は武家身分もいたが、町人や農民も多く、遠く平戸方面、鹿島からも来ていたと。
36歳のとき、鬒山書院 シンザン は消失、宮野を去った。
その後、五島、天草へと
そして、44歳 慶応元年(1865)年 京都の大徳寺で、アメリカ人 フルベッキと会い、フルベッキへ 和漢の学問と日本語を教え、フルベッキからは西洋の事情や学術(英語)について学んだと。
その年、藍田は 長崎に塾を開いたと。 フルベッキは ウィリアム博士と共に長崎の 致遠館と言う 学問所で 佐賀藩より招かれて英語の講義をしていた。 藍田の塾へは フルベッキと ウィリアム博士は 和漢学、日本語を学びに通い合ったと お互い西洋と日本を学び合ったらしい。
フルベッキは、1830年 オランダ生まれ、藍田より 8歳若い、アメリカへ移住し、宣教師となり長崎へ来て西洋の事情等を教えています。大隈重信 も 副島種臣 も 教えを受けています。
僕は以前に知った、フルベッキの写真のことを思い出します。この写真は、佐賀市 川副町の お寺の境内で撮影されたと聞いています。
なんと豪華な メンバーだろう、同じ時代に 改革をしようと 明治維新という歴史の転換期に、当時の佐賀人たちはどう立ち向かったのか。 日本を根底から変える改革を果たした、そのエネルギーの源泉、 「その時、日本は佐賀を見ていた。佐賀は世界を見ていた。」
残念ながら、この写真には 谷口藍田 の名はありませんでした。
そして、藍田は 久富与平・森主一らと 高島炭鉱の開発に参画したようです。
明治19年、北方町で 炭砿区を 発見とあります。
明治26年 熊本六師団長だった 北白川宮能久親王から 接見の召喚を受け、皇族の教育にも拘わったと
明治35(1902)年 11月14日午後5時、藍田は 脳溢血に忽然とこの世を 81歳で去ったようです。
常に天下の大道を説き、鍋島直彬侯からは『藍田は天下の儒者也』と称されたと、そして藍田の告別式には皇族を始め、当時の文化人、学者、政治家、鍋島侯、伊藤侯、大隈侯 他門人数百人が参列したと知りました。
藍田の墓は東京青山墓地にあるそうです。
この時代の佐賀県人 他の県から注目され、佐賀県人は 世界を見ていたと言う今回の標語
平成30年に明治 維新150年を迎えるにあたって、幕末・維新期における佐賀藩の偉業や、県内の偉人たち の活躍を、メディアや関連イベントを通して県内外へ情報発信する企画
佐賀県の 他県より先に打って出た取り組みには驚きました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます