大阪東教会 2015年3月8日主日礼拝説教
マタイによる福音書7章15~23節
「良い実を結ぶために」 吉浦玲子伝道師
偽預言者を警戒しなさいと主イエスはお語りになっています。
5章からはじまりました山上の説教は、7章の12節でその祝福の言葉は完了しています。
13節以降は、その祝福に対する警告として語られています。
その警告が語られている箇所、本日のところでは偽預言者という言葉が出てまいります。
預言者というのはその字の通り言葉を預かるものです。本来的に神の言葉を預かるものです。
まことの神の言葉を伝えるものです。ですから偽預言者といいますと、神の言葉ではないこ
とを神の言葉として語る人を指します。そういう偽預言者を警戒しなさいとイエスさまは
おっしゃっています。
これはイエスさまの時代だけの話ではなく、今日においても私たちは警戒しないといけない、
そのことが今日の聖書箇所に語られています。しかしながら預言者や偽預言者というと、どう
も遠い昔に関係する言葉のような気がします。聖書に長く親しんでおられる方でも預言者とい
うと、聖書の中だけの話のような気がしてしまうのではないでしょうか。
そもそも旧約聖書には多くの預言者が出てまいります。まことの預言者、イザヤやエレミヤ
と言ったたいへん有名な大預言者だちがいます。小預言書と言われる預言書のなかにもホセア、
ミカ、アモスといった預言者が登場します。その預言者たちの多くが、偽預言者に苦しめられ
ました。多くの場合、まことの預言者は国家や人々が神にそむき、滅亡へと向かっているとき
神によって立たされます。そして神から離れている人々に対して神の恐ろしいさばきの言葉を
語ります。このままでは滅びるぞ、悔い改めよ、神に立ち帰れということを語るのです。けっ
してそれは甘い言葉ではなかったのです。そのような言葉を語るまことの預言者に対して、時の
権力者や民衆に聞こえの良い、一時的な平安を与える言葉を神の言葉として語ったのが偽預言者
たちでした。
偽預言者は一時的にはたいへんもてはやされるのです。それに対して、まことの預言者、エレ
ミヤなどもなかなか自身の語る預言が成就しないということで、人々から信じられず、信じられ
ないどころか激しくさげずまれました
さて、その旧約時代の預言者は、その時代時代の悔い改めと来るべき神のさばきをかたり、あ
わせて、最終的な救い主の到来、を語りました。さばきとともに救いを語ったのです。救いをも
たらす救い主について語りました。
それに対して新約の時代になりますと、すでに救い主である主イエス・キリストは来られてい
るわけですから、その時代の預言者の語る言葉というのは、イエスご自身を指し示す言葉になり
ます。イエス様ご自身も預言者として、ご自身のことを言葉によって現わされました。それに
続く預言者もまたそれぞれにイエス・キリストを指し示したのです。少し細かなことを申します
と、考え方によっては厳密な意味での預言者は洗礼者ヨハネまでを指します。それ以降は旧約聖
書に連なる意味での預言者はいないという考えかたがあります。しかし新約の時代、現代も含め
てですが、広い意味でいいますと、預言者というのは、一般的には伝道者であるといえます。神
の言葉を伝えるという意味において、またイエスキリストを指し示すという意味で、伝道者、つ
まり牧師や伝道師は預言者といえます。しかしまた、専任の伝道者ではなくても、キリストを証
するものとして生かされるとき、キリスト者はみな預言者として生かされているともいえます。
そしてその新約の時代以降の預言者の中に偽預言者がいるのだと主イエスはおっしゃっていま
す。これはまだ体制の整っていなかった、初期の教会や、迫害の時代の混乱していた教会だから
偽預言者が混じっていたというわけではありません。教理や教義が確立してなかったから偽預言
者がいたというわけではありません。
現代においても、そこここに偽預言者がいるのだということを主イエスは語っておられます。その
偽預言者があからさまに聖書から離れたことを語っているのなら、偽預言者であることを見抜くこと
は容易でしょう。しかし彼らは「羊の皮を身にまとっている」とイエスさまはおっしゃっています。
偽預言者も聖書の言葉を語っているように聞こえるのです。アダムとエバに善悪の実を食べるように
ささやいたへびが神の言葉を表面的には引用しながら湾曲して語ったように、巧みにささやくのです。
主イエスを荒れ野で誘惑した悪魔たちもまた神の言葉を引用したのです。
偽預言者のことばは聖書の言葉を巧みに混ぜた耳に甘い言葉かも知れません。人生訓的にとてもた
めにはなる言葉かもしれません。しかしそこには十字架と復活のイエス・キリストがいなかったり希
薄だったりします。あるいは言葉としては十字架を語りながら、ちょっとした犠牲精神やヒューマニ
ズムに置き換わっていることがあるかもしれません。神学者のK先生は昨今の状況として「やさしい、
やさいいイエスさま」というイメージが独り歩きしている危険性を繰り返し語られています。あなた
は神に愛されている、あなたはそのままでいい、イエスさまはいつもあなたのお友達です、それは正
しいことです、間違ってはいない、でもそれだけではない。罪と十字架の問題があります。その罪と
十字架の話が希薄にされていないか、を慎重に聞きとることが必要です。神の愛と共に、自らを悔い
あたらめに導く言葉あるか、まことの救いと新しい命へ導く言葉があるかそれを聞きとること
が必要です。
十字架によって私たち一人一人の罪と人生が明らかにされる言葉が語られるとき、そのことばは
まことの悔い改めと平安と命へ至る言葉となります。預言の言葉となります。そうでないときそこに
はまことの預言はないのです。
しかし偽預言者と聞きますと、どうしても落ち着かない気持ちになります。不安になります。でも
もちろんあの人は偽預言者だろうか、自分は大丈夫だろうかと疑心暗鬼の心をおこさせるためにイエス
さまはここで語られているわけではありません。
ここでイエスさまは、偽預言者のことを彼ら、とおっしゃいます。19節には「このようにあなた方は
その実で彼らを見分けることができる」とあります。そういわれると自分と偽預言者は関係がないよう
に聞こえます。自分と人との間に線を引いて、向こう側にいある人たちをあの人は正しい預言者、この
人は間違っていると他人事のように査定してしまって良いように感じます、でもそれはほんとうにそう
でしょうか?人を判断するための査定基準をイエスさまは私たちに与えてくださったのでしょうか?そ
れは半分は正しいですが半分は違うと思います。
偽預言者は、「私に向かって『主よ、主よ』という」のだと主イエスは21節でおっしゃっています。
私たちもまたこの会堂で主に向かって礼拝をお捧げしているのです。まさに主よ、主よ、と申し上げて
いるのです。しかしすべて『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入れるわけではない、こういう言葉を
読みますと、絶望的な気持になりませんか?聖書を読んでお祈りをして主よ主よと主により頼んで生きて
来て、それでもなお、天の国に入れないというのはどういうことでしょうか。この21節から23節はほんと
うに厳しい言葉だと思います。天の国に入ることができない、それは最終的なさばきの日の話です。もう
あとがないのです。永遠の命からこぼれると言われているのです。それゆえに聞き逃してはいけない、
重大なことがここでは語られています。
偽預言者はキリストのことを知らないわけではないのです。いえむしろだれよりも『主よ、主よ』
と主イエスに呼びかけている人間なのです。呼びかけているだけではない、キリストの名によって
預言をし、悪霊を追い出し、奇跡までも行ったというのです。はたからみたら、きっと立派なキリ
スト者なのです。
そしてまた、終わりの日、さばきの日に胸を張って、キリストの前に立つのです。私はあなたの
名によってこれだけの立派なことを行ったと自信を持って申し上げるのです。
しかしそのような者にイエスさまはおっしゃいます。「あなたたちのことは全然知らない。不法
を働く者ども、わたしから離れ去れ」
ここで考えたいのです。自信を持って神の前に立つ者、それはまことにキリストにあって、生か
されている者でしょうか?神の前でわたしはこんな良き行いをしました、これだけのたくさんの人
にキリストのことを語りました、これだけ奉仕をしました、そう胸をはることのできる人はまこと
にキリストに生かされている人でしょうか?
キリストが自分のために、ほかならぬ自分自身の罪のために死なれたことを覚え、尚、地上にあ
って罪を重ねて生きていかざるを得ないこの人生の日々を思う時、私たちは神の前で胸を張れるこ
とは何一つないのです。もし私たちが自信を持って神の前に立つことができると思っている時、
それはもっとも重大な信仰の危機の時です。
本来、胸をはれることのたったひとつもない私たちが、天の国に入れていただける、その祝福を
受けている、それは私たちが天の父の御心を行うものだからだとイエスさまはおっしゃっています。
天の父の御心を行う者として生かされている、その祝福の中に生かされている、それゆえ天の国
に私たちは入ることができるのです。私たちは胸をはって当然のこととして天の国に入るのではな
いのです。胸を張ることができるというのは、みずからの罪をしらずキリストの血による贖いを
軽んじているということです。
では天の父の御心を行うとはどういうことでしょうか。それはこれまで見てきた山上の説教の
言葉に生きるということです。そのことを重んじるということです。第一に考えるということ
です。真剣に考えるということです。
余裕のある時だけ隣人を愛するのではない、普段はこの世と同じ広い道を歩きながら日曜だけ
狭い道を歩こうというのではない生き方です。狭い門のことは普段は考えないという在り方では
ないということです。常に狭い道、狭い門から入ろうとする者です。
そしてまた、その生き方はおのずと見えてくるのだと主イエスはおっしゃっています。良い木が
悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことはない、と。
教会の庭の木にも春らしい気配が見えてきている今日この頃ですが、一見堂々とした葉ぶりの
よい、見栄えの良い木に見えても、苦い貧弱な実しか実らない木もあるでしょう。こじんまりと
した、誰も目にくれないような木であっても豊かな実を実らせることもあるでしょう。そして
なにより大事なことは私たちは私たちの力で豊かな実を結ばせる気になるのではありません。私
たちは努力して豊かな実をむすぶ木になるのではないのです。
木と実という言葉を聞く時、ヨハネによる福音書にある、ぶどうの木の話を思い起こす方もお
られるかと思います。有名な「わたしはまことのぶどうの木」という言葉があります。この言葉の
ようにイエスさまがまことの木なのです。それに続くヨハネによる福音書の15章4節に「わたしに
つながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていな
ければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、
実を結ぶことができない。」という言葉があります。先週、狭い道を歩き続けるということは
キリストから離れないことだと申し上げました。ここでもまた、キリストにつながっていることの
大事さを主イエスは語っておられます。
キリストという木につながる、それはキリストの御言葉に聞くことです。良く自分は教会には
行かない、自分で聖書を読んで信仰のための本も読んで勉強している、そしてちゃんと祈っている、
だからいいんだ、という方がおられます。しかしそれは違うのです。教会はキリストの体なのです。
その体なる教会につながっていなければ、そこで御言葉を聞かなければ、私たちはまことの命を
生きるための養分を得ることはできません。私たちが自分一人でキリストに結びついていると思っ
ている時、それはまさに「主よ、主よ」と言っている偽預言者と同じことになります。そしてまた
礼拝に出席していても教会が、そして礼拝がまことに私たち一人一人の生死を決するもの、命に
かかわることであるという思いを持たない時、私たちはキリストにつながっていません。もちろん、
病の中にあったり、さまざまな事情で教会に来ることのかなわない方々がおられます。教会は
その方たちのために執り成しの祈りをします。そしてその祈りを通じて教会に一人一人の魂が
つながるようにする、教会に来ることのかなわないお一人お一人の命がキリストの命とつながる
ようにする、そのこともとても大事です。そしてまた礼拝を捧げる一人一人が礼拝の中心にある
御言葉を、説教者の胸倉つかむような真剣さをもって耳を傾けることの大事です。
このことはとても重要なことです。だからこそ山上の説教の最後において主イエスは語られて
いるのです。
私たちの信仰の実というのは露わになります。預言者と偽預言者は判別がむずかしいところは
あります。エレミヤの時代も偽預言者がもてはやされたのです。しかし、やはりやがてわかって
くるのです。それは表面的な信仰深そうな言葉遣い、謙遜そうな態度では取り繕えないものです。
ほんとうにキリストと共に生きているかいないか、それは意外に見えてくるものです。自分は
自信満々であっても、神にはもちろん、人にも露わになるものです。まことに神の前に悔い改
めているか、御言葉に聞いて砕かれて神の前に繰り返し謙遜にされている人か、そのようなこと
はにじみ出てきます。キリストの枝として、教会に、礼拝に謙遜に結びついている、命にかかわ
ることとして礼拝に望んでいる、みことばによって罪を明らかにされ砕かれている、そのような
私たちに豊かにキリストの命が注がれるのです。
マタイによる福音書7章15~23節
「良い実を結ぶために」 吉浦玲子伝道師
偽預言者を警戒しなさいと主イエスはお語りになっています。
5章からはじまりました山上の説教は、7章の12節でその祝福の言葉は完了しています。
13節以降は、その祝福に対する警告として語られています。
その警告が語られている箇所、本日のところでは偽預言者という言葉が出てまいります。
預言者というのはその字の通り言葉を預かるものです。本来的に神の言葉を預かるものです。
まことの神の言葉を伝えるものです。ですから偽預言者といいますと、神の言葉ではないこ
とを神の言葉として語る人を指します。そういう偽預言者を警戒しなさいとイエスさまは
おっしゃっています。
これはイエスさまの時代だけの話ではなく、今日においても私たちは警戒しないといけない、
そのことが今日の聖書箇所に語られています。しかしながら預言者や偽預言者というと、どう
も遠い昔に関係する言葉のような気がします。聖書に長く親しんでおられる方でも預言者とい
うと、聖書の中だけの話のような気がしてしまうのではないでしょうか。
そもそも旧約聖書には多くの預言者が出てまいります。まことの預言者、イザヤやエレミヤ
と言ったたいへん有名な大預言者だちがいます。小預言書と言われる預言書のなかにもホセア、
ミカ、アモスといった預言者が登場します。その預言者たちの多くが、偽預言者に苦しめられ
ました。多くの場合、まことの預言者は国家や人々が神にそむき、滅亡へと向かっているとき
神によって立たされます。そして神から離れている人々に対して神の恐ろしいさばきの言葉を
語ります。このままでは滅びるぞ、悔い改めよ、神に立ち帰れということを語るのです。けっ
してそれは甘い言葉ではなかったのです。そのような言葉を語るまことの預言者に対して、時の
権力者や民衆に聞こえの良い、一時的な平安を与える言葉を神の言葉として語ったのが偽預言者
たちでした。
偽預言者は一時的にはたいへんもてはやされるのです。それに対して、まことの預言者、エレ
ミヤなどもなかなか自身の語る預言が成就しないということで、人々から信じられず、信じられ
ないどころか激しくさげずまれました
さて、その旧約時代の預言者は、その時代時代の悔い改めと来るべき神のさばきをかたり、あ
わせて、最終的な救い主の到来、を語りました。さばきとともに救いを語ったのです。救いをも
たらす救い主について語りました。
それに対して新約の時代になりますと、すでに救い主である主イエス・キリストは来られてい
るわけですから、その時代の預言者の語る言葉というのは、イエスご自身を指し示す言葉になり
ます。イエス様ご自身も預言者として、ご自身のことを言葉によって現わされました。それに
続く預言者もまたそれぞれにイエス・キリストを指し示したのです。少し細かなことを申します
と、考え方によっては厳密な意味での預言者は洗礼者ヨハネまでを指します。それ以降は旧約聖
書に連なる意味での預言者はいないという考えかたがあります。しかし新約の時代、現代も含め
てですが、広い意味でいいますと、預言者というのは、一般的には伝道者であるといえます。神
の言葉を伝えるという意味において、またイエスキリストを指し示すという意味で、伝道者、つ
まり牧師や伝道師は預言者といえます。しかしまた、専任の伝道者ではなくても、キリストを証
するものとして生かされるとき、キリスト者はみな預言者として生かされているともいえます。
そしてその新約の時代以降の預言者の中に偽預言者がいるのだと主イエスはおっしゃっていま
す。これはまだ体制の整っていなかった、初期の教会や、迫害の時代の混乱していた教会だから
偽預言者が混じっていたというわけではありません。教理や教義が確立してなかったから偽預言
者がいたというわけではありません。
現代においても、そこここに偽預言者がいるのだということを主イエスは語っておられます。その
偽預言者があからさまに聖書から離れたことを語っているのなら、偽預言者であることを見抜くこと
は容易でしょう。しかし彼らは「羊の皮を身にまとっている」とイエスさまはおっしゃっています。
偽預言者も聖書の言葉を語っているように聞こえるのです。アダムとエバに善悪の実を食べるように
ささやいたへびが神の言葉を表面的には引用しながら湾曲して語ったように、巧みにささやくのです。
主イエスを荒れ野で誘惑した悪魔たちもまた神の言葉を引用したのです。
偽預言者のことばは聖書の言葉を巧みに混ぜた耳に甘い言葉かも知れません。人生訓的にとてもた
めにはなる言葉かもしれません。しかしそこには十字架と復活のイエス・キリストがいなかったり希
薄だったりします。あるいは言葉としては十字架を語りながら、ちょっとした犠牲精神やヒューマニ
ズムに置き換わっていることがあるかもしれません。神学者のK先生は昨今の状況として「やさしい、
やさいいイエスさま」というイメージが独り歩きしている危険性を繰り返し語られています。あなた
は神に愛されている、あなたはそのままでいい、イエスさまはいつもあなたのお友達です、それは正
しいことです、間違ってはいない、でもそれだけではない。罪と十字架の問題があります。その罪と
十字架の話が希薄にされていないか、を慎重に聞きとることが必要です。神の愛と共に、自らを悔い
あたらめに導く言葉あるか、まことの救いと新しい命へ導く言葉があるかそれを聞きとること
が必要です。
十字架によって私たち一人一人の罪と人生が明らかにされる言葉が語られるとき、そのことばは
まことの悔い改めと平安と命へ至る言葉となります。預言の言葉となります。そうでないときそこに
はまことの預言はないのです。
しかし偽預言者と聞きますと、どうしても落ち着かない気持ちになります。不安になります。でも
もちろんあの人は偽預言者だろうか、自分は大丈夫だろうかと疑心暗鬼の心をおこさせるためにイエス
さまはここで語られているわけではありません。
ここでイエスさまは、偽預言者のことを彼ら、とおっしゃいます。19節には「このようにあなた方は
その実で彼らを見分けることができる」とあります。そういわれると自分と偽預言者は関係がないよう
に聞こえます。自分と人との間に線を引いて、向こう側にいある人たちをあの人は正しい預言者、この
人は間違っていると他人事のように査定してしまって良いように感じます、でもそれはほんとうにそう
でしょうか?人を判断するための査定基準をイエスさまは私たちに与えてくださったのでしょうか?そ
れは半分は正しいですが半分は違うと思います。
偽預言者は、「私に向かって『主よ、主よ』という」のだと主イエスは21節でおっしゃっています。
私たちもまたこの会堂で主に向かって礼拝をお捧げしているのです。まさに主よ、主よ、と申し上げて
いるのです。しかしすべて『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入れるわけではない、こういう言葉を
読みますと、絶望的な気持になりませんか?聖書を読んでお祈りをして主よ主よと主により頼んで生きて
来て、それでもなお、天の国に入れないというのはどういうことでしょうか。この21節から23節はほんと
うに厳しい言葉だと思います。天の国に入ることができない、それは最終的なさばきの日の話です。もう
あとがないのです。永遠の命からこぼれると言われているのです。それゆえに聞き逃してはいけない、
重大なことがここでは語られています。
偽預言者はキリストのことを知らないわけではないのです。いえむしろだれよりも『主よ、主よ』
と主イエスに呼びかけている人間なのです。呼びかけているだけではない、キリストの名によって
預言をし、悪霊を追い出し、奇跡までも行ったというのです。はたからみたら、きっと立派なキリ
スト者なのです。
そしてまた、終わりの日、さばきの日に胸を張って、キリストの前に立つのです。私はあなたの
名によってこれだけの立派なことを行ったと自信を持って申し上げるのです。
しかしそのような者にイエスさまはおっしゃいます。「あなたたちのことは全然知らない。不法
を働く者ども、わたしから離れ去れ」
ここで考えたいのです。自信を持って神の前に立つ者、それはまことにキリストにあって、生か
されている者でしょうか?神の前でわたしはこんな良き行いをしました、これだけのたくさんの人
にキリストのことを語りました、これだけ奉仕をしました、そう胸をはることのできる人はまこと
にキリストに生かされている人でしょうか?
キリストが自分のために、ほかならぬ自分自身の罪のために死なれたことを覚え、尚、地上にあ
って罪を重ねて生きていかざるを得ないこの人生の日々を思う時、私たちは神の前で胸を張れるこ
とは何一つないのです。もし私たちが自信を持って神の前に立つことができると思っている時、
それはもっとも重大な信仰の危機の時です。
本来、胸をはれることのたったひとつもない私たちが、天の国に入れていただける、その祝福を
受けている、それは私たちが天の父の御心を行うものだからだとイエスさまはおっしゃっています。
天の父の御心を行う者として生かされている、その祝福の中に生かされている、それゆえ天の国
に私たちは入ることができるのです。私たちは胸をはって当然のこととして天の国に入るのではな
いのです。胸を張ることができるというのは、みずからの罪をしらずキリストの血による贖いを
軽んじているということです。
では天の父の御心を行うとはどういうことでしょうか。それはこれまで見てきた山上の説教の
言葉に生きるということです。そのことを重んじるということです。第一に考えるということ
です。真剣に考えるということです。
余裕のある時だけ隣人を愛するのではない、普段はこの世と同じ広い道を歩きながら日曜だけ
狭い道を歩こうというのではない生き方です。狭い門のことは普段は考えないという在り方では
ないということです。常に狭い道、狭い門から入ろうとする者です。
そしてまた、その生き方はおのずと見えてくるのだと主イエスはおっしゃっています。良い木が
悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことはない、と。
教会の庭の木にも春らしい気配が見えてきている今日この頃ですが、一見堂々とした葉ぶりの
よい、見栄えの良い木に見えても、苦い貧弱な実しか実らない木もあるでしょう。こじんまりと
した、誰も目にくれないような木であっても豊かな実を実らせることもあるでしょう。そして
なにより大事なことは私たちは私たちの力で豊かな実を結ばせる気になるのではありません。私
たちは努力して豊かな実をむすぶ木になるのではないのです。
木と実という言葉を聞く時、ヨハネによる福音書にある、ぶどうの木の話を思い起こす方もお
られるかと思います。有名な「わたしはまことのぶどうの木」という言葉があります。この言葉の
ようにイエスさまがまことの木なのです。それに続くヨハネによる福音書の15章4節に「わたしに
つながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていな
ければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、
実を結ぶことができない。」という言葉があります。先週、狭い道を歩き続けるということは
キリストから離れないことだと申し上げました。ここでもまた、キリストにつながっていることの
大事さを主イエスは語っておられます。
キリストという木につながる、それはキリストの御言葉に聞くことです。良く自分は教会には
行かない、自分で聖書を読んで信仰のための本も読んで勉強している、そしてちゃんと祈っている、
だからいいんだ、という方がおられます。しかしそれは違うのです。教会はキリストの体なのです。
その体なる教会につながっていなければ、そこで御言葉を聞かなければ、私たちはまことの命を
生きるための養分を得ることはできません。私たちが自分一人でキリストに結びついていると思っ
ている時、それはまさに「主よ、主よ」と言っている偽預言者と同じことになります。そしてまた
礼拝に出席していても教会が、そして礼拝がまことに私たち一人一人の生死を決するもの、命に
かかわることであるという思いを持たない時、私たちはキリストにつながっていません。もちろん、
病の中にあったり、さまざまな事情で教会に来ることのかなわない方々がおられます。教会は
その方たちのために執り成しの祈りをします。そしてその祈りを通じて教会に一人一人の魂が
つながるようにする、教会に来ることのかなわないお一人お一人の命がキリストの命とつながる
ようにする、そのこともとても大事です。そしてまた礼拝を捧げる一人一人が礼拝の中心にある
御言葉を、説教者の胸倉つかむような真剣さをもって耳を傾けることの大事です。
このことはとても重要なことです。だからこそ山上の説教の最後において主イエスは語られて
いるのです。
私たちの信仰の実というのは露わになります。預言者と偽預言者は判別がむずかしいところは
あります。エレミヤの時代も偽預言者がもてはやされたのです。しかし、やはりやがてわかって
くるのです。それは表面的な信仰深そうな言葉遣い、謙遜そうな態度では取り繕えないものです。
ほんとうにキリストと共に生きているかいないか、それは意外に見えてくるものです。自分は
自信満々であっても、神にはもちろん、人にも露わになるものです。まことに神の前に悔い改
めているか、御言葉に聞いて砕かれて神の前に繰り返し謙遜にされている人か、そのようなこと
はにじみ出てきます。キリストの枝として、教会に、礼拝に謙遜に結びついている、命にかかわ
ることとして礼拝に望んでいる、みことばによって罪を明らかにされ砕かれている、そのような
私たちに豊かにキリストの命が注がれるのです。