説教 「人類の罪」
<罪という言葉>
20代の時、お世話になっていた方の葬儀に出席しました。生まれ育った長崎県佐世保市でのことです。亡くなられた方はカトリックの信徒でした。当時、わたしはまったくキリスト教や聖書とは関係のない生活をしていました。実家も普通に仏壇のある日本の家庭でした。大きなカトリックの教会で葬儀があり、わたしは母と慣れないキリスト教式の葬儀に出席しました。もっともそのときが、キリスト教式の葬儀、初体験ということではありませんでした。中学生の時にもキリスト教式の葬儀には出席したことがあるのです。ものごころついてから葬儀に出席したのがその20代のときまでで三回で、そのうち二回がキリスト教式の葬儀だったことになります。長崎という土地柄か、クリスチャン人口が多いのかどうかは分かりません。中学生のとき出席した葬儀では、オルガンで伴奏される讃美歌の美しさが印象に残っていたのですが、20代のとき出席した葬儀で印象に残ったのは、葬儀の司式をなさった神父さんが、「地上での命を終えられたOさんの罪が赦されるように」というような言葉を、私たちの教会でいえば礼拝の中の説教の部分で語られたことです。<神のみもとに行かれたOさんの罪が赦されて云々>というようなことを、神父さんはおっしゃいました。わたしはキリスト教とは関係のない、また興味も持っていない生活をしていましたが、なんとなく、キリスト教では罪とか、罪人という言い方をするんだという知識は持っていました。そして実際、神父さんの口から「罪」という言葉が出た時、ああやっぱりキリスト教では罪ということを言うんだ!と驚いたような納得したような気がしたのです。もちろん、その時、罪というのが本当のところはなんであるかはわかりませんでした。
一方で、クリスチャンではない多くの日本人の感覚として、<人は死んだら仏様になる>ということがあるかもしれません。ですから「死んだ人を罪人だなんて悪く言う」ということには違和感がありました。実際、その、亡くなった方は本当に良い方でした。お世話になった方でした。その人の「罪」ということをきくとき、なんともいえない違和感がありました。あんな良い人が罪を犯したということをいうんだなあ、それもその人の葬儀の時に言うんだなあと驚いた記憶があります。
さて、今日、お読みいただいた聖書箇所には「人類の罪」という表題が付けられています。私たちが<人類の罪>という言葉から一般的に連想しますことは何でしょうか?戦争とかテロとか大量虐殺とか自然破壊とか差別と言った、この世界にずっと絶えることなく続いている「悪」みたいなものを考えられますでしょうか?
<罪と信仰>
今日の聖書箇所で、パウロは少しわかりにくい言い方をしているように感じられるかも知れません。「人類の罪」と表題をかかげられた18節から32節の本文には具体的に「罪」という言葉は一回も使われていません。しかし、パウロはこの18節から23節で罪の本質を語り、24節以降で罪に陥った人間の目を覆うばかりの惨状、ひどい状態を語っています。今日はその前半を中心にお話しします。
18節に「不義によって真理の働きを妨げるあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます。」とあります。パウロは罪の本質は、「不義によって真理の働きを妨げるもの」だと語っています。不義とは義ではない、つまり正しくないことです。人間が正しくないことによって真理の働き、つまり神のもともとの豊かな働きを妨げること、それが罪であるとパウロは語っています。そしてその罪は不信心であり、そしてまた不義であると語っています。罪ということ、正しいか正しくないかということが、信仰そのものと結びついているということです。罪が信仰と結びついている、これは不思議な言い方かもしれません。クリスチャン人口の少ない日本では特にあるのですが、あの人は特定の宗教への信仰はないけれど良い人だ、と私たちは時に言います。信仰を持っていないけれどあの人は立派な人格者だった、そういうことを言います。それは誤った言い方ではありません。無宗教であってもキリスト教以外の宗教を信じておられても、もちろん立派に生きておられる方はたくさんおられます。
しかし、聖書が語る罪とは、そのような一人一人の人間の立派さや正しさということに本質があるというのではないのです。だれからも信頼される人格者、周りの人を明るい気持ちにさせる気配りのできる温かな人、生涯人のためにがんばって働いてこられた方、そういう人格的な素晴らしさとか、行いの立派さと、罪の問題は次元が異なるのだということです。
真理の働きを妨げる、神の働きを妨げる、端的にいえば神に逆らう、そのことが罪なのだとパウロは語ります。そしてその罪に対して神は怒りを現わされるのです。その罪は罪として神はそのままにはしておかれないということです。
<神は知ることができるか>
さらにパウロは語ります。神が世界を造られた、この世界の自然や動物、そしてわたしたち人間をも造られた、その神の力は、そしてその神の性質は、造られたもの、つまり被造物に現れているではないか。だからわたしたちは神を知ることができるのだとパウロは語ります。「従って、彼らには弁解の余地がありません。」被造物に神の力は現れているのだから神を知らないなどということはとんでもないことだ、神を知らないなどという弁解の余地はないのだと随分と厳しくパウロは語っています。
しかし、どうなのでしょうか。歴史的に見て、この日本という国だけをとってもみても16世紀にキリスト教が伝えられるまで、誰も聖書で語られている神は知らなかったのではないでしょうか。フランシスコ・ザビエルが日本に渡ってくる以前の日本人に対して、神を知らないなどという弁解の余地がない、というのは厳しすぎるように感じます。そしてまた現代においても、99%以上の日本人はクリスチャンではありません。クリスマスや結婚式でなんとなく、キリスト教的な雰囲気には触れながらも、本当の意味での神は知らない、その99%以上の日本人に対して、あなたが神を知らないなんて弁解の余地はないというのはどうなんでしょうか?
この箇所はいろんな観点で議論になるところです。
パウロは20節で、被造物を見ていれば神を知ることができると言っているように感じるのですが、ここは微妙な表現なのです。少しわかりにくいですが、パウロはほんとうのところは被造物を見ていれば神を知ることができるとは考えていないのです。それはパウロの手紙の他の所を読むと明らかなのです。パウロが言いたいのは、人間は被造物を見て、神が分かったような気になっているということです。たとえば自然の神秘を見る時、人間は神を分かったような気になる。もちろん実際、無神論者だった宇宙飛行士がはじめて宇宙空間を飛行した時、そこに神秘的な神の力を感じて神を信じるようになったということは現実にあったことです。あるいは、たとえば、空気のきれいな田舎に行って満天の星を見るとき、これはやはりどなたかが造られたものではないかと心打たれることはあります。たしかにぼんやりと神のようなものを感じたり、場合によって神秘体験みたいなことを通して、人間は神のようなものの存在を感じることができるように思います。
世界中の自然宗教はみなそこに基盤があります。原初的な宗教の根源はそこにあるといってもいいのです。しかし、聖書の語る神は、そのような神ではないということをパウロは言外に語っています。いやたしかにそこに神の感じはするかもしれない、人間は神を感じるかもしれない、しかしそう感じることと、本当に神を知るということとは別なのだとパウロは言っています。人間はぼんやりと、あるいは劇的な神秘体験を通して神を知ったと感じることがある。そう感じているあなたがたは確かに神を知っているといえるのだろう。しかし、その神を知っているというあなたがたは、結局、神ならぬものを神として崇拝しているではないか、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えた」とあるように、自分は神を知っていると言いながら、あなたがたが神以外のものを神としている。神を知っていると言いながら、あなたたちは偶像を崇拝している、あなたはそもそも神を知っていると自分で思っていたのだから、まことの神ではない神を拝んでいる責任はあなたにある、そこに弁解の余地はないとパウロは語っているのです。
人間が自然に接して神のようなものを感じることができるということと、まことの生ける神を知るということの間には大きな段差があるということです。その段差を知ることなく、自分はすでに神を知っている思い上がる人間は結局、空しい思いにとらえられるのだとパウロは語っています。<むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。>現代でもこの世の中には神秘体験やある種の霊的な体験を、なにかすごいことのように思って、結局、道を踏み外してしまう人々がいます。自分たちは神を知っていると思い、そして22節にあるように知恵を持っていると吹聴しながら愚かになっていくのだとパウロは語っています。危険な新興宗教にもそういう面があります。何か自分たちは人と違うすごいことを知っている、体験していると感じながら、実は心が鈍く暗くなっていっているのだというのです。
<イエス・キリストを知る>
まことの神を知るための段差を越えるというのはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストを知るということです。わたしたちはまことの神をイエス・キリストを通して知ることができるのです。それ以外の方法ではまことの神を知ることはできません。<わたしは道であり真理である>と主イエスはおっしゃいました。わたしたちはキリスト以外を通してまことの神を知ることはできません。そしてそのイエス・キリストを知るということはイエス・キリストを信じるということです。イエス・キリストは何年に生まれてどのような生涯をおくり、どんな言葉を残されたかそういうことを一生懸命学ぶことも大事ですが、なによりイエス・キリストを信じる信仰を持つ、そのとき、わたしたちは本当にイエス・キリストを知ることになるのです。そしてそのキリストを通じて創造主なるまことの神を知るのです。
<わたしのために死なれた神を知る>
ところで、マルティン・ルターは、このように言ったそうです。「<神を知る>ということは<私のために存在する神を知る>ことだ。」これは聞き様によってはたいへん傲慢にも聞こえる言葉です。私のために存在する神、という言い方は大胆です。神さまに対して、畏れ多いように感じます。
昔から、神の存在証明ということが繰り返し議論されてきました。神はいるのかいないのか、それは証明できるのか。哲学的な考察やら自然科学的な議論とかさまざまにあります。私自身は昔から繰り返されてきたその難しい議論をしっかりと理解できているわけではありません。しかし、神は人間の理性によって証明できるような存在ではないと考えます。そして大事なことは神が存在するかしないかということではなく、神と私の関係なのです。神は私となんの関係があるのか?関係がないのであれば、仮に神の存在がたしかに証明されたとしても、当然、私とは関係がないのです。変なたとえになりますが、高い高い木の上にリンゴがあるのかないのか、現実にリンゴがたしかにあったとしても、その存在が証明されたとして、その林檎に私たちの手が届かなければ、お腹を空かした私たちが食べることができないものであれば、そのリンゴは私たちにとって存在しないというのと同じことです。
しかし、私たちは知っています。キリストが私たちのために十字架で死なれたことを。キリストは私たちのために死んでくださった、つまり、とてつもない関係を持ってくださった、そのことのゆえに私たちはその父なる神との関係も回復させていただくことができた。十字架の上で死んでくださった方を信じる信仰によってのみ私たちは神を知ることができます。そしてそのキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を贖われました。そのことのゆえに私たちは神を、真理を妨げることなく、神の怒りに会うことなく生きることができるのです。つまり私たちはキリストのゆえに神を知ります。神がまさに私のために存在してくださっていることを知ります。
<神に感謝が出来る>
だから私たちは神に感謝ができるのです。神が何か恐ろしい方で、神様の決まりを、つまり律法を守らないと怖いことになるから神に従うのではなく、感謝して神に従うのです。私のために御子イエス・キリストの命をも与えてくださり、旧約聖書から続く壮大な救いの物語を成就してくださった神に感謝をすることができるのです。21節に神を知りながら神としてあがめることも感謝することもせず、とパウロは語っていますが、本当に神を知っているなら、それも私のために存在してくださっている神を知っているなら、私は神をあがめることができる、感謝をすることができるということです。逆に神をあがめることができない、神に感謝することができないというのは本当のところは神を知らないということです。
しかし、私たちはキリストのゆえに神を知っています。御子を送りその十字架と復活によって私自身を救ってくださった、まさに私のために存在する神を知っています。しかしなお、日々の中でともすれば神をあがめること感謝することを忘れてしまうことがあります。むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなってしまうときがないわけではありません。ですから、たえずキリストを知り続けるのです。キリストを知り続けるとは御言葉に聞き続けるということです。御言葉によってたえず新しくしていただく、キリストを新しく知り続けるのです。そして滅びることのない神を知り続けるのです。そのとき私たちの心は鋭敏に明るくされます。この一週間も御言葉の光の中を歩んでいきましょう。