大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 11章1~10節

2017-10-23 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月22日 主日礼拝説教 「恵みによる選び」 吉浦玲子

<残りの者>

 今日お読みいただいた新約聖書箇所の標題は「イスラエルの残りの者」となっています。「残りの者」という言葉はローマ書9章27節でもイザヤ書からの引用として語られています。本来、神から選ばれていた特別な民が神から退けられ、もともとは選ばれていなかった残りの者が選ばれるということです。それはこのローマの信徒への手紙でいえば、異邦人であり、またイスラエルの中の少数者であるということです。

 ローマの信徒への手紙の10章でパウロは救いがイスラエルを越えて、広がって行ったことを語りました。「わたしはわたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と10章20節で語られているように、何百年も神を求めてきた民ではなく、異邦人に神はその救いを与えられたのです。それを受けて、11章では、「ではイスラエルは完全に神から見捨てられたのか?」という問いから話をはじめています。「では、尋ねよう。神はご自分の民を退けられたのであろうか。けっしてそうではない。」確かに救いはイスラエルの外に広がったけれども、神はイスラエルをお見捨てになったわけではないと語ります。それに続けて、自分自身がイスラエルの人間であることをパウロは語ります。つまり自分自身がイスラエルを神が見捨てておられないことの証しとしてパウロは上げているのです。

 さらに、イスラエルが見捨てられていないことの例として預言者エリアのことを上げて説明しています。エリヤは異教のバアルの預言者450人と一人で戦って歴史的勝利をおさめました。しかし、なお、当時のイスラエル王の妻であるイゼベルから憎まれ命を狙われます。エリヤは大きな戦いの後の燃え尽き症候群のような状態でもあったのでしょう。そこへ畳み掛けるようなイゼベルの呪いの言葉にエリアは恐れを覚えます。あれほど大胆に力強くバアルの預言者と戦ったエリヤは弱気になります。もう死にたいとすら思うようになります。それは単純にエリヤの信仰が弱かったということではありません。エリヤは十分すぎるぐらいの信仰を持って神の栄光を現わすために戦ったのです。しかし、人間である以上肉体的な疲弊、そして霊的な疲弊が起こるのです。その疲弊は物理的な疲労からもきますが、孤独からもきます。自分はたった一人で戦っている、そう考える時、人間は誰でも弱くなります。創世記2章に「人が一人でいるのは良くない」と神がお考えになったことが記されている通りです。信仰が強ければ、神様を信じていれば、大丈夫だ、そもそも神様がついておられるんだから一人で生きていける、それはもちろん真実なのですが、しかしやはり「人が一人でいるのは良くない」のです。共に祈り、共に闘う人を人間は必要とするのです。そんな孤独感にさいなまれ「わたしだけが残った」とエリアは絶望するのです。そのエリヤに対して、神は「バアルにひざまづかなかった7千人を自分のために残しておいた」と答えられます。エリヤが自分一人だけだと思っていたらそうではなかった。それはエリヤにとって驚きであり喜びでした、そしてまたそれは神のイスラエルへの愛でもありました。7千の7は聖書で良く使われます完全数です。祝福された数ということです。そしてたくさんということでもあります。

 どこにも信仰がないような世の中、だれもかれも神から遠のいているように見え、自分だけが取り残されているような世界に、実は祝福されたたくさんの人々が今自分の目には見えないけれど神が残してくださっている、すでに取り分けでくださっているのです。これはパウロ自身の苛酷な体験から絞り出されるように語られている言葉でもあります。イスラエルの同胞から鞭打たれ牢に入れられ侮辱され、自分だけが孤独にキリストを伝えているように見えながら、なお神は同胞から救いを取り去ってはおられない。なにより神は自分を救ってくださった、そして数は少ないながらイスラエル人のキリスト者も起こされている、パウロはそこに神のイスラエルへの愛を見ています。「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とパウロは喜びを持って語っています。エリヤの時代に残された7千人と同様、パウロの時代にも残りの者としてイスラエル人キリスト者が起こされているのです。

<日本において>

 そしてこれは現代の日本においても言えることです。キリシタンの禁制が解かれてから、150年を経てもなお日本のキリスト教徒の人口は増えません。何回かキリスト教ブームと言われるような時期もありましたが、この国では依然としてキリスト教はマイナーな存在です。結婚式をキリスト教式で行う人は多いですが、そのほとんどは、キリスト教の教会ではなく、結婚式場に付設された雰囲気だけ教会に似せたチャペルでの結婚式です。その司式をするのもほとんどの場合、牧師や神父の衣装を着た職員やアルバイトです。これはキリスト教人口の高いお隣の韓国とは大きな違いです。また中国ではキリスト教は国が認めている教会以外は非合法ですが、それでも一説には地下教会に億の単位の信徒がいると言われます。そういうことから、日本にはキリスト教は根付かないと言われることもあります。

 たしかに現実に教会に通ってきている人々の多くも家族の中で一人だけのクリスチャンです。わたしもそうです。受洗している家族がいても、教会生活を守っているのは自分だけということも多くあります。そのような環境の中で、クリスチャンはどうしても孤立感や、あきらめの思いを持ってしまいがちです。そんな日本において「残りの者」は、まず私たちであると言えます。神の恵みによって私たちは「残りの者」とされました。しかしまた、いま、私たちの目にはみえていないけれども、さらなる「残りの者」を神は御自分のためにとっておられるとも言えます。

 繰り返し語っていることでありますが、プロテスタント日本宣教150年はまさにこの国の「残りの者」にかけた人々の戦いでもありました。ある開拓伝道をなさっていた牧師は、新興住宅地であの手この手で伝道をしてもなかなか教会に人が来ない状態が続きました。使徒言行録の中で神はパウロに「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と語られましたが、その牧師はなかなか進まない伝道に、「神様、あなたの民はどこにいるのですか?」と繰り返し嘆いたそうです。その教会は、その開拓から30年を経て、いまは、50名ほどの人々が礼拝を捧げる中規模の教会に成長しています。神がご自分の民として「残りの者」をとっておられたのです。

 現実の目で見る時、けっして状況は楽観はできません。しかし、いつの時代にもどこの国においても、神は「残りの者」を取っておられます。そこにかけて宣教をしていくのが教会の業であり、そのとき、教会は限りなく祝福をされるのです。

<恵みのみ>

 そして大事なことは、「恵みによって選ばれた者」ということです。現時点で、神に選ばれた者とそうでない者があるのは事実です。では選ばれている者は偉かったのか?それはまったくそうではないということなのです。あくまでも「神の恵み」によって選ばれたのです。なぜこの人が選ばれ、あの人が選ばれないのか?それは人間の側の問題では一切ないということです。

 受洗して間もないころ、祈祷会で、ある方が「先に救われた者として、まだ救われていない人を救えるように伝道する力を与えてください。」と熱心に毎週祈っておられました。その方は、純粋に伝道をしたいと思っておられたと思うのです。ほんとうに熱心に祈り、熱心に奉仕をされていました。でも意地悪な私は、どうも「先に救われた者として」という言い方がひっかかりました。なんとなくそこに、選民思想のようなものを勝手に感じてしまったのです。この世の中では、一般的に「先」のものがえらいような感覚があります。一番、トップバッター、それはすばらしいなという感じがあります。同期の中で最初に課長になった部長になった、出世頭だ、そういうことが自慢となります。もちろん、聖書の中でも、秩序、順番というのは大事にされます。繰り返しお話ししていますように、神がまず救うために選ばれたのはイスラエルの民でした。異邦人はそのあとでした。異邦人が「神様はイスラエルをえこひいきしてるではないか」と言っても、厳然として、神の順序というのはやはりあるのです。しかし、順序とか秩序、上下関係が大事にされると言っても、それはあくまでも、この世のある時点で切り取った範囲でのことがらです。異邦人であれ、イスラエルであれ、救いにおいて仮にあとさきはあっても平等なのです。私自身が「先に救われた者」という言葉に違和感を覚えたのは自分自身の方が、当時、世俗的な順番とかあとさきにこだわっていたからだと思います。

 そしてもうひとつは神の恵みの計画ということを理解していなかったことにもよると思います。先であることが、何か人間の側の優位性によるように感じていたからだと思います。しかし、神の恵みの計画の中で、恵みのゆえに選ばれるということにおいて、選ばれる側の優位性ということはまったくありません。それが理解できない時、「先に救われた者が」という言葉をなにか偉そうに言っているというように聞いてしまうようになります。

 聖書にはこういう言葉もあります。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある(ルカ13:30)」という言葉があります。今日の聖書箇所で言うなら、本来は先のものであったイスラエルが、異邦人の後となったということでもあります。私の知り合いで三人兄弟で上の二人がミッションスクールに通いましたが、末っ子は普通の学校に通ったという家庭があります。その末っ子はミッションスクールにいってないのでキリスト教や聖書に触れることは直接にはなかったのですが、たまたまお兄さんの本棚にあった聖書を読みました。そして聖書に興味を持ち、教会に行くようになり、やがて洗礼をうけました。ミッションスクールに通っていた兄弟たちは卒業後は聖書に触れることはなかったのにその末っ子はキリスト者になりました。さらに、その末っ子はいまは神学校に通っています。ですから最初に御言葉に接したであろうお兄さんたちはキリストを信じることにおいて、末っ子の後になったのです。末っ子が先になったのです。

 でももちろん、それは現時点でのことです。後になった者を神がお見捨てになるわけではないからです。残りの者である7千人以外を神が打ち捨てられるわけではありません。

 神の計画は進んでいくのです。神の恵みの計画は私たちの思いを越えてなお進んでいきます。神の恵みには限りがないからです。

<かたくなではなく>

 そして今日の聖書箇所の最後の部分には、救いからいったん退けられたイスラエルがかたくなにされたということが語られています。かたくなということは9章でも出てきた言葉です。信じない者はなおいっそうかたくなにされるのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えらえた」この言葉は不思議な言葉です。なぜ神がそのようなことをされるのでしょうか。9章ではイスラエルの民のエジプト脱出を拒んだエジプト王のファラオの心がかたくなにされたことが語られましたが、ファラオ自身がかたくなになったのなら分りますが、神がかたくなにされるというのは理解しがたい事がらです。今日の聖書箇所でも同様です。

 人間の側の神への思いがあまりに希薄であったり、反抗的であったり、身勝手であるとき、ひととき神はその心をかたくなにされます。鈍い心、これはもうろうとした心ということですが、そういう心を与えられるのです。神の恵みを恵みとして受け取れない、あくまでも自分中心で自分の行いに固執している時、人間はかたくなにされるのです。自分では賢いつもりでまじめなつもりで、結局自分自身で自分の罠に陥っていくのです。ダビデの詩から最後のところに引用されているように、人間が自分を誇るとき豊かな食卓を囲んでいてもそれがむしろ罠になり罰となるということです。

 しかし、かたくなな者も、それで神から捨てておかれるわけではないのです。そこにもやがて神の恵みの計画は及ぶのです。まさに神からかたくなにされているような者、それはパウロもそうでした、私たち自身もそうでした、しかし、そのような人が、やがて恵みに気づかされていく、そのような奇跡が起こるのです。2000年の歴史の中で起こり続け、日本の150年のプロテスタント宣教の歴史の中でも起こり続け、この大阪東教会の中でも起こり続けてきた、そしてこれからも起こり続けることです。神の恵みの奇跡です。