2018年8月5日 大阪東教会主日礼拝説教 「世を生かすための肉」吉浦玲子
<ショッキングな言葉>
4つある福音書の中でヨハネによる福音書は一番遅くできました。ヨハネによる福音書ができた時代、キリスト教の迫害が始まっていました。ヨハネによる福音書はその迫害を背景として色濃く持っています。そもそもペンテコステののち、教会は発展していきました。しかし、そこには迫害もありました。キリスト教がまだユダヤ教の一派とみなされているときは、ユダヤ教はローマ帝国から認められていましたから、迫害はありませんでした。しかし、キリスト教はイエス・キリストをメシア、つまり救い主とします。それに対し、まだメシアは到来していないとユダヤ教は考えています。ですからおのずとキリスト教はユダヤ教と袂を分かつこととなりました。そこから迫害が始まりました。ユダヤ教からも迫害されましたし、ローマからも迫害をされたのです。それまではユダヤ教の会堂、シナゴークで集会が行えていたのに、そこから追放されました。実際、ヨハネによる福音書には「会堂から追放される」という記述がよく記されています。
さて、今日の聖書個所の35節で「わたしが命のパンである」と主イエスが語られ、51節、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」とあります。さらには「わたしの肉を食べ、血を飲む」という表現もあります。聖書のことを知らない人が読むと、「世を生かすためのわたしの肉」という言葉にはぎょっとすると思います。「わたしがパンである」とか「わたしが天から降って来た生きたパンであり、このパンを食べるならば、、、」という、キリストを食べるということを思わせる表現には初めて聞いた人は誰しも驚くと思われます。
このキリストを食べる、血を飲む、ということはのちの聖餐の起源にかかわる言葉です。聖餐を教会は大事にしてきました。本日も聖餐式を執行いたしますが、それは何となく威厳のあるようなありがたいような、霊験あらたかな儀式ではありません。実際、そこで配餐されるパンとぶどうジュースは、別に特別なものではありません。司式者が呪文のようなものを唱えて、特別な物体に変化するものでもありません。しかしなお、わたしたちはどこにでもあるパンとぶどうジュースをいただきながら、聖霊の働きによって、信仰において、キリストを食べ、キリストの血を味わいます。主イエスが、<わたしこそが天から降って来た生きたパンである>とおっしゃってくださったキリストの肉をいただき、そしてまたキリストの血をいただくのです。
この「わたしこそが天から降って来た命のパンである」という聖書の言葉、そしてそのことを繰り返し味わう聖餐のことが、クリスチャンではない人々に伝わったとき、とんでもない誤解を受けました。キリスト教徒は人肉を食べているという誤解が人々の間に伝わったのです。キリスト教は得体のしれない、恐ろしい宗教だということで、迫害を受けたのです。以前、壮年婦人会で初代協会の歴史について学んだときお話したことがあるかと思いますが、教会がこの世界と隔たって閉鎖的に活動をしているとき、教会の外の人からは何となく、薄気味悪いような、恐ろしいような感覚を持たれるようです。その初期の迫害ののち、教会は、社会と関係を持つようになったそうです。社会の人が、みんながみんなイエス様のことを信じないとしても、少なくとも、キリスト教が反社会的な存在ではなく、また教会の中で、反倫理的なことが行われているのではないということを少しずつ認知してもらうようにしていったのです。こののちも、さまざまな理由で、ローマ帝国からの迫害は強まりましたが、一般社会の人から、キリスト教は恐ろしい宗教だという誤解のゆえに迫害を受けることはなくなりました。おおむね、キリスト教徒はノンクリスチャンの人々から好意的な感覚を持たれるようになったのです。
<つぶやく人々>
しかし、初期の迫害の原因になるほど、<わたしこそが天から降って来た生きたパンである>という言葉や、キリストを食べるという感覚はショッキングなものであったのです。実際、この言葉を聞いた人々は「つぶやきはじめた」とあります。そもそもこのイエスという男はヨセフの息子ではないか。大工のせがれではないか。なのになぜ「天から降って来た」などというのかという疑問を持った、そういうことは、当時、イエス様を実際に見た人、ことに同郷の人々の感情として理解できなくはありません。ちなみに「つぶやく」という言葉は新共同訳聖書では「不満を言う」と訳されているところもあります。しかし、聖書の原語における「つぶやく」というのは、まさにぶつぶつ言うというつぶやきなのです。相手にはっきりとした批判をするわけではなく、聞こえるような聞こえないような感じで、ぶつぶつ言うのです。なぜぶつぶついうのかというと、相手に対する信頼感がないからです。信頼感があるのであれば、ぶつぶついうのではなく、はっきりと意見をしたり議論をしたりするのです。しかし、信頼がないので、相手には直接には向かわず、ぶつぶつ言うのです。それに対して、祈りというのは神との対話です。つぶやきと対極にあるものです。祈りはつぶやきではなく、神に向かっています。祈りの中で神への不満を言うこともあるかもしれません。「なぜ私の願いを聞いてくださらないのです?」「私はあなたから与えられたものに満足できません」等々言うことがあるかもしれません。しかし、それはつぶやきではありません。信仰において許されることです。祈りの中で神に不満を言ったとしても、それは聞いてくださる神への信頼に基づいたものです。しかし、信頼がないとき、祈りではなく、つぶやきになります。つぶやきの根にあるのは不信感であり、不信仰です。
今日の聖書個所に出てくる人々は、主イエスを実際に見ていたのです。その奇跡をも見ました。しかし、見るということと、信頼するということ、そしてまた信仰ということは直接には結びつかないということが、この場面でもよくわかります。ヘブライ人への手紙にも書かれているように、信じるということは、見えないものを信じる、ということだからです。見えるものを信じる必要はないのです。主イエスは天から降って来た命のパンであること、そのパンをいただくことが本当の命に生きることであること、それを信じることができる人生は幸いです。主イエスを知っていたイスラエルの多く人々は主イエスを信じませんでした。しかしまた、すこしほっとすることも聖書には書かれています。イスラエルの人々の中に、つまり、主イエスがヨセフの息子で大工のせがれだと知っている人の中にも信仰者はわずかですが起こされたのです。主イエス12人の弟子たちもそうですし、主イエスの母マリアをはじめ、家族たちも、やがて主イエスを信じる者とされたようです。福音書の記述を読みますと、母マリアをはじめ、家族たちは主イエスが宣教をはじめられた最初の頃は、主イエスがおかしくなったのではないかと疑って連れ戻しにすら来たようです。しかし、具体的なことは書かれていませんが、福音書や使徒言行録を読みますと、確かに主イエスの家族も主イエスを信じる者となったのです。実際、主イエスの小さい時から知っていて、同じ家で生活をしていた人々が信じる者とされたというのは、むしろ驚くべきことだと思います。
ところで、昔、母教会の牧師が、「ご高齢で、教会に来ることができなくなった方々に訪問聖餐をするとき、その方々の信仰に心動かされる」とおっしゃっていたことを思い出します。寝たきりのベットの上で、小さなパンとほんの少しのぶどうジュースをいただいて、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして喜んでおられる方々を見ているとその方の歩んでこられた信仰の豊かさを思う、とおっしゃっていました。豪華な食事ではない、むしろ貧しいパンとジュースなのです。しかしもう体も言うことをきかない状態で、なお喜びを感じておられる。その様子に感動をするとおっしゃいました。それらの人々は赴任したばかりの牧師と個人的に親しいわけでもないのです。世間話がはずむ相手でもありません。だれかが会いに来てくれて話し相手をしてくれてうれしいというのではないのです。しかし、聖餐のパンとジュースに涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして喜ばれる方々は、まさに聖餐の場にあって、キリストをいただいておられるのです。肉体的な体は弱っているけれども、なお自分がキリストと結びつき、永遠の命に生かされていることを感じておられるのです。逆に言うと、自分がどのような状態であったとしても、キリストのゆえに生かされていること、生き生きと行かされていることこそが永遠の命をいただいているということです。そのことを確認するのが聖餐です。
<見える説教>
ところで、さきほど、信仰とは見えないものを信じることだと申し上げました。では、見ることを神様は否定なさるのでしょうか?そうではありません。たとえば信仰の父、アブラハムは75歳で神の導きに従い、生まれ住んだ土地を離れました。神はあなたの子孫を祝福すると約束されたのです。しかし、それから20年ほどたってもアブラハムには子供ができませんでした。アブラハムの年齢は100歳近くになっていました。神に従って歩んできたアブラハムでしたが、やはり子供は与えられないとあきらめかけていました。アブラハムは神に対して不満を言いました。つぶやいたのではありません、はっきりと神に向かって「あなたは子供を与えてくださらない」と申し上げたのです。それに対して、神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星を見上げさせられました。そして「あなたの子孫はこの星のように増える」とおっしゃいました。アブラハムはその言葉を信じました。神への信頼が揺らいでいたアブラハムに神は空を見上げさせられたのです。そして星を数えてみよとおっしゃったのです。アブラハムはその星をみて、神の言葉を聞いて信じました。
わたしたちにもまた、神は見えるものをあたえてくださいます。見えるものに縛られ、惑わされる私たちのために、主イエスを信じていても、信仰の揺らぎがちなわたしたちのために聖礼典が備えられました。聖餐は<見える説教>だともいわれます。語られる説教は、聖霊によって神の言葉とされますが、説教そのものは目に見えません。一方で、聖餐は見える形での説教であるといえます。キリストの十字架と復活、罪の赦しを見える形で語る説教が聖餐です。
そしてまたこの聖餐は、信仰によって味わうものです。信仰がなければ、ただのそこらへんで買えるパンとジュースなのです。今日の聖書個所は6章最初の5000人の食事からつながるものです。6章最初にある5000人の食事を聖餐の起源だとして、洗礼をまだお受けになっていない方にも聖餐式の配餐をすべきだと主張する人々が一部にいます。しかし、今日の聖書個所を読んでもわかるように、主イエスから食事をいただいた人々は、主イエスを信じることなく「つぶやいた」のです。旧約聖書の時代の、荒れ野でマンナをいただいた出エジプトの民も、荒れ野で神に繰り返し「つぶやき」ました。聖餐は単なる食事ではありません。つぶやきではなく、神への信頼においていただくものなのです。
出エジプトの民にモーセはその最後の説教の中で語ります。神が人々にマンナを食べさせたのは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」と。神はもちろん肉体のためにパンが必要であることはご存知です。ですから、荒れ野でマンナを降らせ、そしてまた5000人を満腹させられたのです。しかし、マンナを食べた民も、5000人の人々も多くはまことの神への信仰には至りませんでした。
人間は、「主の口からでるすべての言葉によって生きること」が必要なのです。神の言葉を聞くとき、信じる者に変えられます。そして神の言葉によって生きるとき、私たちはつぶやきをやめます。神への信頼のなかに生きていきます。喜びの中に生きていきます。主の口から出るすべての言葉によって、まことの命に生きるものとされるのです。元気な時も肉体が弱った時も、順風満帆の時も試練の時も、主のみ言葉によって生かされまし。そしてその命が永遠の命へと至る命であることを信じさせていただきます。そのときわたしたちには平安が与えらえます。
信仰の弱い私たちが、見える説教を味あわせていただきながら、繰り返し、キリストの十字架と復活を覚えるのです。罪の赦しを感謝するのです。主の口からでる言葉によって生かされます。見える説教である聖餐において信仰を強められます。赦されて永遠の命を生きる者として喜びのうちに歩みます。