大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書1章39~45節

2019-01-14 10:08:03 | ルカによる福音書

2018年12月9日大阪東教会主日礼拝説教 「幸いな人」吉浦玲子

<急いで>

 マリアはずいぶんと思い切った旅をしました。マリアが住んでいたナザレの町からエリサベトの住むユダまでは数日かかる距離でした。現代とは異なって、当時、旅は大きな危険を伴うものでした。しかも若い女性一人です。しかし、マリアは「急いで」行ったのです。今日の聖書箇所の前のところで、マリアは天使ガブリエルから救い主イエス・キリストをその身に宿すことを告げられました。いわゆる受胎告知の場面でした。まだ結婚をしていていないマリアが当惑していると、ガブリエルは「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男との子を身ごもっている。」と語りました。マリアはガブリエルが語ったエリサベトの家に向かったのです。マリアはけっして<エリサベトも身ごもっている>という天使ガブリエルの言葉を疑って確認しようとしたわけではないのです。マリアは、エリサベトに対して神のなさった素晴らしいことを知ると矢も楯もたまらず、エリサベトのもとに急いだのです。

 エリサベトは祭司であるザカリアの妻でした。ガブリエルが「年をとっているが」とマリアに語ったように子供を産める年齢を過ぎた女性でした。しかし、神がその高齢のエリサベトに子供を与えられました。マリアのもとに天使ガブリエルがきた六カ月まえ、エリサベトの夫であるザカリアが聖所で不思議な体験をしたことを人々は知っていました。それ以来、ザカリアは口がきけなくなっていましたから、はっきりと何があったのかは周囲の人にはわかりませんが、聖所の前にいた人々も、妻であるエリサベトもザカリアの身にただならぬことが起こったことを悟っていました。しかし、そのただならぬことは夫ザカリアだけにとどまることではなく、むしろ、エリサベト自身にとってこそ、本当に意味でただならぬことが起こったのです。イエス・キリストに先立ってイエス・キリストが来られることをのべ伝える洗礼者ヨハネとなる子供をその身に宿すこととなったのです。エリサベトは1章の24節には五か月の間、身を隠していた、と書いてあります。高齢になって身ごもるということは、現代でも、女性に複雑な思いを抱かせます。ましてエリサベトの場合、神の不可思議な力が働いて身ごもったのです。自分の身に起こった神によるただならぬことを自分の中で思い巡らすためにあえてエリサベトは身を隠していたのでしょう。

 そのエリサベトのところへマリアは向かいました。「急いで」行ったのです。聖書には「急いで」行った人々の話がほかにもあります。たとえばルカによる福音書の2章では、有名な羊飼いたちへの天使のお告げの場面があります。救い主が生まれたことを知らされた羊飼いたちは、「急いで」幼子のもとに行ったのです。彼らは羊飼いでしたから、本来なら羊を放り出して出かけるなんてことはできないのです。しかし彼らはとるものもとりあえず、すぐさまベツレヘムに向かいました。あるいはこのような話もあります。ヨハネによる福音書で、主イエスと井戸のところで出会ったサマリアの女は、すぐに町に出て行ってイエス様のことを人々に知らせました。この女性はそもそも訳ありの女性で、人の前には出ていかない生活をしていました。人とは付き合いをしない、世間から隠れるようにして生活をしていた女性でした。その女性が水汲みに来ていたにもかかわらず水がめをその場に置いたままに町に出て行ったのです。神の出来事に心動かされたとき、人間は急ぐのです。明日にしようとかひとまずこれをやってからということはないのです。羊を置いて、水がめを置いて、急ぐのです。居てもたってもいられないのです。神の出来事に心動かされるとはそういうことです。マリアはガブリエルの言葉によって心動かされました。神のなさる出来事にいてもたってもいられなくなりました。そして若い女性の身で遠路やってきたのです。

<共に喜ぶ>

 さて、マリアがユダの町に着き、エリサベトの家に入って挨拶をすると、エリサベトの体内の子がおどった、とあります。挨拶という言葉には喜びを伝える、という意味もあります。エリサベトにはこの時点で、マリアが救い主を身ごもっていることは知らされていませんでした。しかし、エリサベトは聖霊に満たされて、マリアの身に起こったことを悟ったのです。そして声高らかにマリアへの祝福の言葉を述べます。「あなたは女の中で祝福された方です。」エリサベトは祭司の妻でした。家柄も社会的立場も、田舎の小娘に過ぎないマリアより上でした。年齢も相当に違ったでしょう。しかし、エリサベトはとても丁寧にマリアに語り掛けています。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」とマリアに対して「主のお母さま」と呼びかけています。自分が宿している子供がやがて主のさきぶれとして用いられる洗礼者ヨハネであることを、ザカリアを通して知っていたでしょう。そしていま目の前にいる身分の低い、まだ幼いといってもよい少女が「主の母」であると知らされたのです。エリサベトの胎内の子がおどったとありますが、胎内の子も、自分の主となるイエス・キリストを宿したマリアの訪問を喜んだのです。洗礼者ヨハネもその母も、主となるイエス・キリストとその母との出会いを喜んだのです。マリアもエリサベトも、それぞれに特別に神に選ばれた女性でした。マリアはイエス・キリストを、エリサベトは洗礼者ヨハネを身に宿しました。それぞれに役割は違います。しかし、それぞれに喜んだのです。変な言い方になりますが、私のほうが身分が高いのに洗礼者ヨハネの母で、この小娘がイエス・キリストの母になるなんて不公平だなどとは思わないのです。エリサベトもマリアも喜び合ったのです。なぜ喜ぶことができたのでしょうか?それはいくつか考えられますが、ひとつには最初に言いましたように神のなさる出来事に心を動かされたからです。聖霊が働いたともいえます。私たちの心が硬直しているとき、喜びに乏しく、私たち自身が聖霊の働きを押しとどめている場合があります。逆に言いますと、たえず聖霊に祈り求めなければ、私たちは神の出来事に心動かされなくなるのです。

 さらに二人が喜んだ理由は、マリアにしてもエリサベトにしても、そもそも神の出来事にふさわしいものが自分にあるとは考えていなかったのです。マリアはガブリエルに「わたしは主のはしためです」と言いました。神の素晴らしい出来事の前で、自分というものの取るに足りなさをよくよくわかったのです。エリサベトにしてもマリアより社会的な地位は上だと言っても、けっして自分に優れた才覚やふさわしい何かがあるというわけではないことをわかっていました。エリサベトは25節で「主が、わたしに目を留めて、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」と語っています。マリアは今日の聖書箇所につづく箇所で「身分の低い、このはしためにも目を留めてくださったからです」と神を賛美しています。この世の中では取りに足らないとされている者、ことに2000年前のイスラエルの女性は数に入らない存在でした、そのような女性たちに神は目を留めてくださるお方だと知ったので喜んでいるのです。

 しかし仮に、身分の高い男性であったとしても、あるいは、世界中の誰もが才覚のある人物だと認める人であっても、本当に神の出来事に心動かされたとき、神の前で自分が取るに足りない者であることを知るのです。神の出来事に心動かされた者は、その出来事を自分がうけるにふさしくない者であることを知ります。そして神の前に自分が罪を持った者であることを知ります。しかし、それは自分を卑屈に感じたり卑下するようなことではなく、むしろ喜びとしてとらえられるのです。逆に自分が受けるにふさわしいと思うものを与えられたとしたら、それは当然のことであり、もちろん多少の喜びはあっても、あふれるような喜びはありません。そしてまた自分自身の手によって手に入れたこと、なしたことであれば、どうしても他と比べることにもなります。なぜマリアが主の母で私は洗礼者ヨハネの母なのだということになります。しかし、マリアにしてもエリサベトにしても、それが神からの一方的な恵みであるゆえに、ただただ神が自分に目を留めて用いてくださった、と純粋に神のなさることを喜ぶことができたのです。

 そしてその喜びは分かち合える喜びなのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とローマの信徒の手紙の中でパウロは語りましたが、泣く人に同情して泣くことはできても、喜ぶ人とともに喜ぶことはなかなか難しいとよく言われます。しかし本当に、そこに主の働きがあり、神の働きを信じることができるとき、私たちは共に喜ぶことができるのです。私たちはクリスマスを共に喜びますが、その喜びの根源にはクリスマスは神が与えてくださったものであるということがあります。マリアとエリサベトがともに喜んだように胎内の子供も喜んだように私たちも喜ぶのです。

<幸いな人>

 今日の聖書箇所の最後のところで、エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とマリアに語りました。じつはここは、「信じる人は幸いです。主がおっしゃったことは必ず実現するからです。」という訳もできる箇所です。これはどちらの訳も間違いではありません。「信じる人は幸いです。主がおっしゃったことは必ず実現からです。」と訳される時、神を信じるということに重点がおかれるような、信じることが先になるようなニュアンスになります。神はすでにイエス・キリストをこの世界に送ってくださり、私たちを救ってくださいました。私たちはその神を信じます。しかし、その神の業は2000年前に終わったことではありません。今も続いておりますし、未来に向かって続いています。信じる者は未来に向かって希望を持つことができるのです。主がおっしゃったことが必ず実現することを待つことができます。

 19世紀の牧師でブルームハルトという人がいます。お聞きになったことがありますでしょうか。20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトに大きな影響を与えた牧師です。ブルームハルトは実は父親と息子、いずれも牧師でした。劇的、爆発的ともいえる宣教をなした親子でした。その親子を現す言葉に「待ちつつ急ぎつつ」という言葉があります。最初に、マリアが急いだことを語りました。私たちの信仰生活にはたしかに「急ぐ」側面があるのです。神に動かされて急ぐのです。しかし、私たちは未来に向かって「待つ」者でもあります。果報は寝て待てというように、ただぼーっと待っていれば良いというのではないのです。マリアのように急ぎながら、なお、待つのです。マリアは、子供が生まれるのを待ちました。月満ちるまで待ったのです。そしてその子供は赤ん坊として生まれてきたのであって、すぐに大きくはなりません。幼児から少年となり青年となる歳月をマリアは待ちました。息子が成人してから、カナという町の婚礼の席に息子と出席しましたが、祝いの席のぶどう酒がなくなりました。マリアは息子であるイエスに「ぶどう酒がなくなりました」といいました。急いで告げたのです。しかし、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えました。冷たく感じるような言葉です。しかし、マリアは待ちました。すると水がぶどう酒に変えられました。マリアも待ちつつ急いだ人でした。私たちも信仰において、未来を待ちつつ、今を急ぎます。そんな私たちは幸いな者です。アドベントの季節、私たちはクリスマスを待ちます。そして主の再臨を待ちます。そして今日を神に動かされて生きていきます。聖霊によって信じる者と日々されつつ生きていきます。なお急ぎつつ待つ者とされます。そのとき私たちは神によって幸いな者とされています。