大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書18章28~40節

2020-03-08 12:35:08 | ヨハネによる福音書

2020年3月8日 大阪東教会終日礼拝説教 「真理とは何か」吉浦玲子

<主イエスが上げられるために>

 逮捕された主イエスは、夜中に大祭司のところへ連行されました。それから鶏が鳴き、明け方になりました。最後の晩餐から、主イエスの祈り、逮捕そして十字架へと、時刻の推移がはっきりと描かれています。それは神の救いの業が刻々と進んでいるということでもあります。いよいよ、主イエスが十字架にかかられる日の朝となりました。その朝、私たちが毎週、礼拝で告白しています使徒信条に出てきますポンテオ・ピラトのもとへと人々は主イエスを連れて行きました。ピラトが当時のローマ総督でした。ピラトのことは、ほぼ詳細にその生涯が分かっています。実際にピラトがユダヤで総督をしていたときに主イエスが十字架におかかりになったということはヨセフスが編纂した歴史書にも記されている事実です。

 さて、ユダヤ人たちがわざわざポンテオ・ピラトのところまで主イエスを連れて行ったのは理由がありました。31節に「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」とユダヤ人たちが答えているように、ユダヤ人たちは主イエスを死刑にしたかったのです。しかし、当時、死刑判決を下し、執行する権限はユダヤ人には、たしかに、なかったのです。しかし、これまでも主イエスは殺されそうになるような場面はありました。実際のところ、主イエスに先立って活動した洗礼者ヨハネは首をはねられて殺されましたし、少し時代が後になりますが、初代教会のステファノは使徒言行録によればユダヤ人たちによって石打にあって死んでいます。こういうことを考え合わせますと、現実には、ユダヤ人たちが主イエスを殺そうと思えば、殺せなくはなかったのです。しかし、おそらくもともと広く民衆に人気のあった主イエスの場合、民衆からの反発を、ユダヤ人の権力者たちは考えたのだと思います。ですから、自分たちが直接手を下すのではなく、ローマによる処刑という形にしたかったのだと考えられます。

 一方、ローマが人間を死刑にするのは、ローマへの反逆の意図があるとみなす時でした。 ポンテオ・ピラトは主イエスを一瞥して、そのようなローマへの反逆の意志があるようには思えなかったようです。ですから、ユダヤ人同士でユダヤの律法によって裁けばいいではないか、そう考えました。朝早くからユダヤ人たちにやって来られて、ひどく迷惑でもあったでしょう。しかも、ユダヤ人たちは異邦人と接すると汚れて過ぎ越しの祭りの食事をできなくなるので、ピラトの官邸には入ろうとせず、外から申し立てるのです。この後、ピラトは主イエスを官邸の中に入れ、主イエスを尋問し、また外に出てユダヤ人たちと話をする、というように、官邸内と外を行ったり来たりする羽目になります。その状況の中で、主イエスを何としても死刑にしたいユダヤ人たちは執拗にピラトを誘導していきます。

 先週の聖書箇所では、神の業である十字架の物語と、ペトロの裏切りという人間の罪の物語が並行して進んでいっているとお話ししましたが、今日の聖書箇所でも、主イエスを死刑にしたい人間の思惑と、神の業が並行して描かれています。並行して、といっても、どちらかというと、今日の聖書箇所ではユダヤ人やピラトといった人間の動きの方が目立って見えます。

 しかし、聖書は語ります。ここにも神の業が働いているのだ、と。むしろ、それこそが大きなことなのだ、と。32節に「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」とあります。これは、主イエスはご自分が<十字架で死ぬのだ>と最初からご自分でおっしゃっていたということです。実際、十字架でなければならなかったのです。ステファノのように石打の刑でも、洗礼者ヨハネのように首を切られるような死に方でもなく、十字架にかけられ殺されるということが重要なことだったのです。ヨハネによる福音書3章14節にはモーセの時代の荒れ野で上げられた青銅の蛇の話を主イエスがなさったことが記されています。その蛇のように自分は上げられねばならないとおっしゃっていました。またヨハネによる福音書12章32節でも「わたしが地上から上げられるとき」と主イエスは語られています。いずれも<上げられる>という言葉が出てきます。まさに主イエスは上げられるのです。十字架の上に上げられるのです。主イエスご自身が、ご自分の死に方をそのように語っておられたのです。十字架に主イエスが上げられることは神のご計画だったからです。ユダヤ人たちがピラトを誘導して、結果的にユダヤ人たちの思惑通り、主イエスは十字架におかかりになったように見えますが、実際はそれは神ご自身が実現されたことでした。

 ところで、<上に上げられる>というのは、通常は名誉なことに感じられます。しかし、十字架においては、当然ながら、そうではありません。身ぐるみはがされて、裸の姿で、みじめに罪人として十字架に上げられるのです。しかも、上げられるのは神であるお方です。このことを私たちはしっかりと覚えねばいけません。神であるお方が、みじめなお姿で十字架におかかりになった、三位一体の神が十字架にお係りになった、つまり神を十字架につけるほどに私たちの罪は重いということです。やさしいやさしいイエス様という方が私たちの身代わりに十字架にかかってくださったと安易に甘ったるく考えてはならないのです。三位一体の神が、つまり神ご自身が、十字架にかかられたということです。私の罪によって神が十字架にかかられたのです。それが分かっていないとき、私たちは、本当に意味での自分の罪も、罪の赦しも分かりません。そして悔い改めもないのです。繰り返します。私たちは神を十字架につけたのです。神が私たちの罪ゆえ十字架につかれたのです。

 民数記によりますと、モーセの時代、神に反逆した民は、神に怒りによって送られた炎の蛇にかまれて倒れました。かまれた人々は次々に死んでいきました。しかし、モーセが青銅で造った蛇を竿につけて掲げ、その蛇を見上げた人々は助かったのです。まさにイエス・キリストはモーセが竿に掲げた青銅の蛇のように、人びとの上に上げられました。人間を救うためでした。十字架を見上げた人間が救われるためでした。

<真理とは何か>

 さて、ポンテオ・ピラトはユダヤ人に押される形で主イエスを尋問します。ピラトが確認したいことは、ローマへの反逆の意志があるかどうかだけです。「お前がユダヤ人の王なのか」端的にピラトは問います。つまり、お前はローマへ対抗する勢力のリーダーなのか?と聞くのです。そこから先のやり取りはピラトにとってはおおよそ理解不能な内容でした。しかし、ピラトには主イエスが、現実的な意味でのローマへの反逆を意図していないことは分かったのです。「わたしの国は、この世には属していない」という主イエスの言葉に、それは宗教的なことが語られているのであって、政治的なことではないことがピラトには分かりました。ピラトにとって宗教的なことはどうでもいいことでした。

 ピラトだけではありません、この世界の多くの人にとって、「わたしの国は、この世には属していない」などという言葉はどうでもいいことです。多くに人の関心事は、まさに自分が属しているこの世のこと、会社のこと、家庭のこと、ご近所のこと、日本のこと、世界情勢であり、現実です。しかし、また一方で、神を信じていると思っている者であっても、この世のことと神のことを分離して考えることがあります。神のことは心の問題であって、現実の世界とは別のことであると考える場合があります。しかし、前にもお話ししたように、神の出来事と現実の世界は切り離されたものではないのです。別のものに見えながら、神の出来事は、現実の生活にも及ぶのです。むしろ神の現実が、この世界の現実となるのです。

 さらにピラトに対して主イエスはおっしゃいます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」真理という言葉は難しい言葉です。ここで語られている真理とは、自然科学における真理とか、哲学的な意味での真理とは異なります。<神が啓示される神ご自身のこと>、それが真理です。端的に言えば、神そのもののことともいえます。つまり主イエスは神を証しするためにこの世界に来たとおっしゃっているのです。神の愛、神の正しさ、神の救いを顕すために主イエスはこの世に来られました。それに対して、ピラトは「真理とは何か」と答えて、審議を中断します。ここで、ピラトはまじめに真理とは一体何なんだ?と問うたのではないのです。「は?真理?何言ってんだよ」というような小馬鹿にしたニュアンスで聞き流したのです。

 しかし、主イエスはピラトにこうも語っておられます。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」これはまさに、主イエスがご自分のことを羊飼いであると語られたとき、「わたしの羊はわたしの声を知っている」とおっしゃったことと同じことです。真理に属さない人、つまり神を信じない人は、主イエスの声が聞けないのです。主イエスの声を聞かず、羊飼いが守っている囲いを破って出て行くのです。ピラトもまた、羊飼いである主イエスの声を聞けませんでした。真理に属していなかったのです。

<十字架を見上げる>

 ところで、紀元410年8月24日に、アウグスティヌスが語った説教が残っています。アウグスティヌスはご存知のように、神学のみならず、西洋の文化学問に大きな影響を与えた学者でありキリスト者でした。そのアウグスティヌスの410年の説教です。何回か読んだことがあり、昨日も読みました。410年、当時、長く栄華を極めたローマ帝国は衰退の一途をたどっていました。その年、帝国の中心地のローマは西ゴート族に包囲され、陥落をしました。ローマは<永遠の都>と言われたローマ帝国の象徴的な都市でした。その永遠の都ローマが占領、略奪、破壊されたのです。さらに帝国破滅の危機的な状況の中で、キリスト者への批判も起こったのです。もともとローマ帝国は多神教で、ローマの神々をあがめていました。そのローマ帝国において、キリスト教が国教とされたのはアウグスティヌスの説教から30年ほど前でした。キリスト者でない人々は、もともとのローマの神々を捨てて、キリスト教を信仰するようになったから、帝国は傾いたのだと、キリスト者を批判したのです。帝国が崩壊し、人びとは不安と恐れの中、バッシングする対象を求め、根拠なくキリスト教がその対象となったのです。社会が混乱している時、こういうバッシングやデマははありがちなことです。社会的不安の中で、根拠のないバッシングやデマが広がっていくのは昔も今も変わりません。

 そんな状況の中、アウグスティヌスは語りました。「神は耐えられないような試練を神はお与えにならない」と。そもそも神の裁きと試練は異なる、今、ローマに起こっているのは裁きではなく試練なのだと、そして今こそ神に信頼する時だと語りました。なによりイエス・キリストご自身が十字架において試練をお受けになった、ご受難に遭われた、そのことを覚え、キリストに信頼するのだと語りました。アウグスティヌスが語ったのはけっして目新しいことではありません。聖書にもとづいて、ただキリストを見上げよ、十字架のキリストを見上げよと語ったのです。

 翻って2020年の今日、新型コロナ肺炎の感染が世界的に広がっています。ウィルスの詳細がいまだに分かっていないこと、治療の明確な方法が確立されていないことによって、大きな不安が人々の間にあります。経済や生活への影響も直撃しています。そして私たちのこの小さな群れの礼拝にもその影響は出ています。このことが一か月後どうなるのか、半年後はどうなっているのか、この感染症によって世界がどうなっていくのか、私たちには分かりません。先の見えない怖さがあります。そしてまた、いろいろなものが自粛されていく閉塞感の中で、当たり前の日常が奪われていく日々にあって、ともすれば、欝々としていきます。

 しかし、私たちは410年にアウグスティヌスが語ったように、試練に遭われた受難のキリストを、今こそ覚えるのです。十字架に上げられたキリストを見上げるのです。かつて荒れ野で倒れた人々が、ただモーセが掲げた青銅の蛇を見上げさえすれば死なずにすんだように、私たちは今こそ、十字架に上げられたキリストを見上げます。

 真理とは何か?それは神ご自身であり、十字架に上げられたキリストによって証しされています。その真理は冷酷な事実でもなければ、無味乾燥で難解な理屈でもありません。愛と、命へと、私たちを導くものです。主イエスの時代、絶大な力を持っていた大ローマ帝国も倒れました。確かなものは何一つありません。世界には新たな感染症も天変地異も起こります。私たちの足元の大地ですら揺れ動きます。地面を見ても、周りを見ても確かなものはありません。だからこそ見上げるのです。十字架のキリストを見上げるのです。そこからこそ救いが来るのです。確かな平安が来るのです。乗り越えられない試練はない、その確信が、キリストの光と共に、十字架から与えられるのです。