大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

サムエル記下第7章1~17節

2020-12-13 15:29:11 | サムエル記下

202012月13日大阪東教会主日礼拝説教「」吉浦玲子 

【聖書】 

 王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。王は預言者ナタンに言った。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」ナタンは王に言った。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。 

 「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。 

 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 

わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。 

【説教】 

<家を興される神> 

 ダビデは神殿を建てることを決心しました。彼は長い逃亡生活の後、ようやく王座に着き、周辺の敵を退け、平安を得たところでした。こののちの多くのイスラエルの王を見ると、最初は神に従って歩んでいた王が、途中から変節してしまうということがあります。だいたい人間は苦労している時は真面目に生きることが多いですが、富や名声を得た後、堕落することもあります。しかしダビデは、平安を得たとき、今こそ神のために神殿を建てたいと願ったのです。今日の聖書箇所の少し前のところで、王の相談役であった預言者ナタンもそれはたいそう良いことだと感じたのでしょう「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」とダビデ王に言います。ダビデの決心はナタンでなくても称賛することでありました。 

 しかし、今日の聖書箇所では、預言者ナタンを通して、神がそのダビデ王の良き決心をお受けにならないことが語られています。 

 ダビデは自分はレバノン杉の立派な王宮に住みながら、神の箱は天幕と呼ばれるテントに置かれていることを申し訳なく思っていました。神の箱にはモーセが神かうけた十戒の板が入れられていました。その大事な箱を立派な神殿に入れたい、言ってみれば神の家を建てたいとダビデは願ったのです。 

 それに対して、神は「イスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」とナタンを通して語られます。そもそも神は人間の作ったもの、人間の指定した場所にとどまられる存在ではありません。新約聖書の時代、山の上で、イエス様のお姿が光り輝く姿に変わり、そこにモーセとエリアが登場する「山上の変容」と呼ばれる場面があります。その素晴らしい光景に圧倒されたペトロは、主イエスとモーセとエリアのために小屋を建てようといいます。この素晴らしいことをずっととどめておきたかったのです。 

 神のために神殿を建てたいと願ったダビデも、主イエスのために小屋を建てましょうと言ったペトロも、神を自分の願った場所にとどめたい、さらにいえば、自分の都合の良いところに神にいてほしいという不遜な願いを持ったとも言えます。もちろん、最初に申しましたように、普通に考えたらダビデの神殿を建てたいという願いは悪いものではありません。ダビデはそれが神に仕える者として当然のことだと善意をもって考えたのです。ペトロにしてもそうです。しかし、神ご自身は神殿を建てろとも小屋を建てろとも願ってはおられないのです。 

 では、神はダビデやペトロをお叱りになったかというとそうではありません。今日の聖書箇所では、むしろ11節「主があなたに告げる。主はあなたのために家を興す」とおっしゃっているのです。神様のために家を建てようと願ったダビデに対して、むしろ、神の方が、あなたのために家を興そうとおっしゃってくださったのです。 

<祈りが聞かれない時> 

 私たちはどうしようもない困難な時に祈ることができます。よく言われることですが「祈ることしかできない」のではなく「祈ることができる」のです。祈りは気休めでも、義務でもなく、具体的な神の力を体験することです。祈りを通して神とわたしたちは交わります。 

 しかしまた、祈りを通して願ったことが叶わないという経験も私たちはよくいたします。今日の聖書箇所で、ダビデも願ったことが神から退けられました。それは私たちの祈りの内容がダメだったからとか、祈り方がまずかったということではないのです。また万が一、神の御心に沿わない願いであったとしても、神は祈りに対して厳しい態度はとられません。むしろ祈る者、神に願いを申し上げる者に対して、人間の願ったこと以上の恵みを与えてくださるのです。 

 ダビデに対しても、本来、人間の作ったものの内などにはお住まいにならない神が、そんなものいらないと怒りを表されるのではなく、ダビデの神への誠実さ、純粋さゆえに、むしろダビデの願ったもの以上の祝福をダビデに与えられました。私たちもまた、願ったことが叶わないと思っていたら、むしろ願ったこと以上の恵みが与えられるということを経験します。 

 そしてまた神は「あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を堅く据える」とおっしゃいます。本来、人間の造ったものなどには住まわれない神が、ダビデの子孫の建てた家に住もうとおっしゃるのです。神は人間の願い以上のものを与えられ、また願いそのものに対しても無下に却下はなさらないのです。時や形を変えて、願いを聞き届けてくださいます。人間の考えることは、神の思いに比べたら、はるかに幼く、愚かです。しかし、子供を愛する父が幼子の願いに温かく応えるように、神は幼く愚かな人間の願いを聞き届けてくださいます。実際、ダビデの子、ソロモンによって神殿は建てられます。人間の造ったものにはお住まいにならない神が、イスラエルの長い歴史において人神殿で人間と出会ってくださいました。ソロモンの後、幾たびか神殿は建てなおされたり改修されますが、紀元後1世紀までエルサレムの地にありました。約1000年に渡ってイスラエルの中心にあり続けました。 

<新しい王国> 

 神はダビデにそしてソロモン、さらにはダビデ家の子孫に対してたしかに祝福を与えられました。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」そう神は約束されました。 

 しかし、一方で、その後、イスラエルは王国の分裂、衰退といった厳しい歴史のなかを歩みました。ダビデの子孫である王たちの多くはダビデのように神に従順に従いませんでした。その反逆のイスラエルをなおこのダビデとの約束のゆえに守り通されました。 

 しかし、バビロン捕囚以降は、ダビデ家からイスラエルを治める王は立てられませんでした。ダビデ王家は断絶したのです。実際、主イエスの時代、イスラエルを治めていた王は支配者ローマの傀儡で血筋的にも純然たるユダヤ人ではない王でした。神は長い歴史の中で、御自分に従わなかったダビデの子孫たちに匙を投げられ、ナタンを通して語られた約束を反故にしてしまわれたのでしょうか。ダビデの王国は、この地上から消えてしまったのです。 

 もちろん、神は約束を反故にはなさいません。新しい形で王国を立てられました。ダビデの子孫であるイエス・キリストによって新しい王国、神の王国をこの地上にお立てになりました。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」この言葉は、イエス・キリストの到来によって成就しました。クリスマスの出来事は、神の新しい王国がダビデの子孫イエス・キリストによって立てられる出来事でした。ダビデの子孫たるキリストが王となられる出来事でした。もちろん王国といっても、目に見える、政治的社会的な国ができているわけではありません。しかし、いま、全世界に20億を越えるクリスチャンがいます。多くの教派に分かれ、統一的な政権や組織を持っているわけではなく、いやむしろ教派間の争いすらある状況ですが、ダビデの末裔によって開かれた新しい王国はいまも世界に広がっています。その王国はふたたび王たるキリストが到来されるとき、完全に目に見える形で完成します。 

<命を輝かせるために> 

 ところで、少し暗い話で恐縮なのですが、会社員時代、ことに出張の多い仕事をしていた頃、12月は電車の人身事故によく遭遇しました。何回かお話ししたことがあるかと思いますが、JRのある大きな駅の指令室に、システムの納入をしていたとき、管轄の益で人身事故が起き、指令室が大混乱になるのを目の当たりにしたことがあります。ホームから線路への飛び込み自殺があり、駅のホームからの現場の生々しい報告と指令室からの緊迫した指示の声が指令室に大声で響いていました。部外者である私はひどく面くらいましたし、人の命が失われた現場にいることに恐れを覚えました。どうにか仕事を終え、大阪に戻ってきたのですが、その帰りの電車でも二回、人身事故に遭遇して電車がとまり、かなり暗澹とした気分になったことがあります。それが12月の思い出です。 

 12月、今年はコロナで例年とは異なりますが、例年なら華やかな季節です。仕事に、年末年始の準備に、クリスマスや忘年会といったイベントに忙しい時です。そんな人々が賑わしく動き回っているこの季節、社会の片隅で、孤独に苦しみを抱えている多くの人々がいます。クリスマスの時期は、欧米でも自殺が多いと聞きますが、周りがにぎやかであればあるほど、自分の孤独が深まり、自分の目の前の扉が閉ざされているように感じ、命を絶つ人がいます。世の中がきらびやかであればあるほど、深い闇と高い壁が生まれます。2000年前、ダビデの末裔であるキリストが到来し、新しい王国が立てられたにもかかわらず、なおこの世界の闇は深く、人々の苦しみは深いのです。 

 さきほど、キリスト者は祈ることができる、と申しました。祈ることすらできない悲しみの時は嘆くことができます。祈りも嘆きも、聞いてくださるお方、神がおられます。いえもちろん、直接に神の声が聞こえるということは通常ありません。祈ってもむなしい、嘆いても悲しみは消えない、そういうことおあります。しかし、やがて必ず慰めの言葉が聞こえてくるのです。神が聞かせてくださるのです。そして自分がひとりではないことに気づくのです。嘆きや祈りがけっしてむなしいものではなかったことに気づきます。 

 私たちはもっとそのことを人々に伝えていかねばなりません。クリスマスは教会の最大の伝道の季節であると言われます。それは教会が、教会の勢力拡大や財政的安定のために信徒数を増やすために為すことではありません。私たちは祈ることができる、嘆くことができる、そのことを多くの人に伝えるためです。暗い12月の闇の中に、光があるということを知らせるためです。神からいただいた命をみずから絶つことのないように、神からいただいた命を神によってかがやかせていただくようにしていただきたいと、つたえるのです。もちろん、教会に集う人々が増えることは喜ばしいことで、そのことによって、これまでできなかったことができるようになります。単純に大教会になることを目指すべきではありませんが、宣教の実りとして神が与えてくださる豊かさは得たいと思います。 

 そのためにも私たち一人一人が特にこのクリスマスの時、祈らねばなりません。今年は特に、コロナの禍のために経済的困窮の末、自殺者が増えると言われています。この時代であるからこそ、なお私たちは、新しいキリストの王国について宣え伝えねばなりません。クリスマスは、クリスチャンにとって、楽しくお祝いをするためのものではありません。むしろ、世の暗さ、社会に潜む悲しみに目を向けるべき時です。だからといって福祉的な活動のみを教会がするのではありません。慈善活動が教会の中心にあるのではありません。もちろんそういう活動も大事ですが、なにより教会は「神があなたとともにおられます」ということを伝えるのです。インマヌエルなる神、インマヌエルとは神が共におられるということでした。まさに神は共におられるのです。今日の聖書箇所の最初の部分に、預言者ナタンはダビデに「主はあなたと共におられます」と告げました。しかし、このダビデに向けられたナタンの言葉は、キリストの到来によって、すべての人々への言葉になりました。「神が共におられます」。この言葉によって、私たちは私たち自身の闇、悲しみ、苦しみをぬぐわれます。共におられる神が私たちの内側に光を灯してくださいました。次週、クリスマス礼拝です。新たにキリストによって光を灯されたお一人の方が洗礼をお受けになります。なお多くの方が続かれますようにと願います。「神が共におられます」、私たちは目には見えなくてもいま神の王国に入れられています。そのことを聖霊によっていっそう深く知らされ、喜びのうちに歩みます。