2021年1月24日大阪東教会主日礼拝説教「語り続けよ」吉浦玲子
【聖書】
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。
【説教】
<神にゆだねる>
今日の聖書箇所に出てくるコリントは、ギリシャ南部のアテネの西に位置する大きな町でした。先週もアテネの説明のところで少し触れましたが、コリントは猥雑な街でした。当時、「コリント風」というと倫理的、性的な乱れを揶揄する言葉だったそうです。コリントにはアフロディテ、これは愛のヴィーナスのことですが、この女神の神殿があり、その神殿の周りには神殿娼婦が1000人もいたと言われます。この町で、パウロはアキラとプリスキラの夫婦と出会いました。この二人はこののちもパウロを助けることになる有力な信仰者でした。彼らとの出会いも神の不思議なご計画の内にありました。アキラとプリスキラの夫婦は本来ならばコリントにいない人々でした。しかし、ローマでユダヤ人の退去命令が出たため、彼らはコリントに来ていたのでした。この退去命令は、ローマでキリスト者に関わる騒動があったためかもしれません。しかしそのことのために、アキラとプリスキラ夫婦とパウロとの出会いがありました。しかもアキラとプリスキラの夫婦とパウロは、生業が一緒だったのです。ここで注意をしないといけないのは、パウロはもともと本職がテント職人だったというわけではありません。パウロはファリサイ派の教師でした。律法を教えていたのです。ファリサイ派の教師たちはそれぞれ生きていくための技術を身に着けていました。自分で生活を立てながら律法を教えることができるようにです。しかしここを短絡的に、パウロは自分で生計を立てならがら自活伝道をしていたと考えてはなりません。このあたりのことは書簡でパウロも書いています。コリントでパウロを批判する人々がいたため、彼はコリントで自活していたのです。しかし、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し」たとあります。これはシラスとテモテがフィリピからパウロの伝道のために献金を持ってきたからなのです。つまりパウロの伝道はフィリピの教会から支えられていたのです。
さて、パウロが熱心にメシアのことを語りだると、やはりここでも反対者が現れました。「彼らが反抗し、口汚くののしったので」パウロはその場を去りました。ここでパウロは激しい言葉を語っています。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」この激しさは彼のユダヤ人への愛情の裏返しでもあります。ユダヤ人であるパウロは異邦人への伝道者として召されていましたが、同胞の救いを誰よりも願っていました。だから聞き入れず滅びに向かう人々への思いがあふれてしまうのです。
ところで、かつて主イエスが弟子たちを派遣する時、弟子たちの言葉を受け入れない人々のところでは履物の埃を払って去りなさいとおっしゃいましたが、まさにパウロも服の塵を振り払って去ったのです。主イエスは無責任なことをお勧めになったわけでもなく、パウロも宣教の業を途中で放り出したわけでもありません。私たち人間は、為すべきことを為し、結果は神にゆだねるのです。
20年くらい前からでしょうか、よく成果主義という言葉を聞きます。仕事はたしかにそうでしょう。商品は売れなくてはどうしようもありません。商売は利益が出なければどうしようもありません。しかし私たちは神の前で成果を求められているのではありません。神の前にあって、成果は神ご自身が出されることだからです。私たちは、為すべきことを祈りつつ、謙遜にことを為します。そしてあとは神にゆだねるのです。場合によってはパウロのように服の塵を振り払って出て行くのです。
歯を食いしばって何が何でもここで頑張るというのは、場合によっては、人間の個人的な思い入れによることかもしれません。それでもしうまくいったら、自分の頑張りを自分も人も讃えるかもしれません。しかし、そこにたしかに成果はあっても、神の業を喜ぶ祝福はありません。日本に住む人は特に、塵を振り払うことが苦手かもしれません。ほろぼろになるまで、やりつづけて、自分も周りも傷つき、壊れてしまうまでやり続けるかもしれません。しかし、それは神の御望みになる所ではありません。たしかに神は時に試練と思えるような課題を私たちに与えられます。その課題を精いっぱい私たちはやり遂げようとします。しかし、自分の心や体が壊れるまでやるということではなく、たえず御心を問いながら、場合によっては撤退する、業を手放す勇気も必要です。
<恐れるな>
さて、9節で、パウロは幻の中で主の言葉を聞きます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
パウロは怖いもの知らずのつわものではありませんでした。人間的な情熱に突き動かされて激しく行動する人でもありませんでした。コリントの信徒への手紙Ⅰ2:3で「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」とパウロは語ってます。さまざまな困難の中、パウロにも恐れがあり、不安があったのです。それは単に「ああパウロにも弱い面があったのだな」ということではなく、そこに霊的な戦いがあったからだといえます。神に反対する悪しき力というのは、人間にとっては恐ろしいものなのです。霊的に鈍感な人、あるいはそういったものと真っ向から向き合わない人には分かりませんが、霊的な戦いを意識している人にとっては、深いところから恐れが生じるのです。
さらに、パウロはコリントの信徒への手紙の中で語ります。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、”霊”と力の証明によるものでした。」つまりパウロの働きは、パウロ自身の聖書の知識とか、弁論術といったところに依ったのではないとパウロは語っているのです。つまり自分の宣教は、聖霊と神の力に依るものだと語っています。
幻のよってパウロに示されたことは、悪しき力に対抗して語り続けなさいということでした。黙っていることは、ある意味、楽なことでしょう。矢面に立たなければ、矢も飛んでこず、傷つくこともありません。矢面に立ち、言葉を発すれば、大なり小なり痛みが伴います。しかしまた、黙っている者に神の力は働きません。聖霊の風も吹かないのです。語り続ける人間には神の守りがあります。神に従い歩む者と、共に神はおられます。「あなたに危害を加える者はない」そう幻によって神は語られました。
しかし実際のところ、使徒言行録をこれまで読んだなかで、パウロは暴動の中で半死半生の目にあったり、鞭打たれたり、投獄されたり、散々な目にあっています。人間的にいえば十分に「危害を加えられている」のです。主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」と福音書の中で語られました。しかし普通、やはり人間にとって、体を殺されることは恐ろしいことです。しかしなお続けて主イエスはおっしゃいました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」たしかに私たちの肉体の命が尽きる時があるかもしれない。パウロのように投獄されたり鞭打たれたりすることもあるかもしれない。しかし、そのすべてが神の御手のなかにあり、そこに神の愛が注がれているのです。だから安心して良いのです。
牧師として献身することを考えはじめていた頃、ある先輩の女性牧師から「あなたはここに行きなさいと言われたら、それに従って、どこにでも行けますか?」と問われました。神にすべてを捧げて生きていく献身者であれば、日本のみならず世界のどこにでも遣わされたら行かねばなりません。それはもちろん分かっていたのですが、正直、そのとき、自分には「はい、どこにでも行きます」と元気よく即答はできませんでした。家庭やさまざまな事情があったからです。それで「神さまの召しならば、どこにでも行かねばなりませんね」と少し言葉を濁した言い方をしました。その先生は私の気持ちを察したようで「牧師はどこにでも行かないとだめですよ。でもね、無理にそう思う必要はないの。自然にそう思えるようになったらいいわね」とおっしゃいました。
その会話は今でも時々思い出します。私たちには勇気が必要です。たしかに神の召しに応えて、足を踏み出すこと、言葉を発することには、勇気が求められます。しかしその求めは、神の配慮の内にあります。神はパウロにも配慮をし、私たちにも一人一人にも配慮をなさいます。神は一アサリオンで売られていた二羽の雀に慈しみを注がれるように、いやそれ以上に私たち一人一人に慈しみを注がれます。わたしたちにはパウロのような痛みに耐えることはできないかもしれません。しかし、やはり一人一人に痛みはあるのです。そして、わたしたちが、痛みつつ、なお、神に応えて生きていくとき、神ご自身が先立ってすべてを整えてくださっているのです。ですから私たちはむやみやたらと空元気を出したり、やせ我慢をする必要はないのです。試練はもちろんありますが、そこには神の配慮があり逃れに道も備えられているのです。ですから安心して歩めるのです。
<あなたの民はどこにいるのか>
ところで、以前、ある教会の牧師就任式に出席をしました。そこで司式をしていた牧師の説教を聞きました。その牧師は、伝道者として駆け出しのころ、ある教会の開拓伝道をしていました。生まれたばかりの教会で、あの手この手で宣教しようと先生は力を尽くしたそうです。しかし、なかなかうまくいかなかったそうです。何年やってもうまくいかず、何度も、今日のこの使徒言行録の言葉を思い出し、悲しくなったことがあるそうです。恐れるな、語り続けよという神の言葉を守り、語り続けても、なかなかうまくいかない。「ほんとうにこの町にあなたの民がいるのですか?」「あなたの民はどこにいるのですか?」といくたびも嘆いたと先生は語られました。その困難の中、どうにかその教会の基礎を作って、その先生は他の教会に移られました。その先生が開拓伝道なさった教会は次に赴任された牧師の伝道牧会の時代に成長をしました。じゃあ、最初に開拓なさった先生には力がなくて、次の先生が優秀だったから宣教が進んだのでしょうか?それは違います。もちろん次の先生も努力されたでしょう。しかし、初代牧師が蒔いた種が、時間をかけて芽を出したのです。
一生懸命やっているときに、なかなかうまくいかない。神の言葉に従って歩んでいるはずなのに思わしい結果にならない。あなたの民はどこにいるのですか?と言いたいことが私たちにもあります。実際、残念ながら、私たちは結局、神の民を自分で見ることはできないかもしれないのです。私たちが去ったあと、私たちが役目を終えた後、神の民がはっきりとわかり、実りが与えられることもあります。私たちは、私たちの蒔いた種の実りを地上で見ることはできないかもしれません。しかし、地上で見るのか御国で見るのかは別として、必ず私たちは見るのです。そして喜びの声を上げるのです。「ああ、あなたの民はここにいたのですね」と。「荒れ野と思っていたところが今豊かに実っているのですね」と喜べるのです。
すべてのことが、私たちの成果によって計られるのなら、私たちがこの地上で手に入れる喜びは多くはありません。しかし、神の業であるなら、かならず実るのです。神は成果を出されるのです。そして、私たちは謙遜に神のなさることに従い歩んでいくのです。神の民が大勢いることを信じて歩むのです。殺伐とした荒れ野のように見えてもやがて神が豊かな果樹園としてくださることを信じて歩むのです。そして、その豊かな実りに私たちはかならずあずかるのです。