2021年6月20日日大阪東教会主日礼拝説教「選ばれし者へ」吉浦玲子
<使徒ペトロ>
今日から「ペトロの手紙Ⅰ」を共に読んでいきます。その冒頭に、「イエス・キリストの使徒ペトロから」と挨拶の言葉が書かれています。「ペトロの手紙」は、主イエスの12人の最初の弟子たちの内の一人であるペトロが書いたものであると長く考えられてきました。これから「ペトロの手紙」を読もうという時にいきなり少しがっかりさせてしまうかもしれませんが、近年の研究では、この手紙は、ペトロ自身が著者でない可能性を指摘されています。
しかし、私たちはこの手紙の内に、かつてガリラヤの漁師であったペトロ、主イエスに「あなたの岩の上に教会を立てる」と言われたペトロ、逆に主イエスから「サタン、退け」と手厳しくお叱りを受けたペトロ、さらには「イエスなんて知らない」と三回も主イエスを否定したペトロの姿を思い起こしながら読んでき行きたいと思っています。直接に執筆した者がだれであれ、教会では、2000年に渡り、福音書や使徒言行録におけるペトロの姿と合わせてこの手紙を読み、そこから神の御言葉を聞きとっていたからです。そしてまたそのように読むことによってこそ、なによりこの手紙が伝えんとすることを私たちは理解できると思うのです。
さて先ほど申しましたように、手紙は挨拶の言葉から始まっています。「イエス・キリストの使徒ペトロから」と記されています。使徒とは、「遣わされた者」という意味で、一般的には、主イエスの弟子たちの中で最初に選ばれた12名の弟子を指します。そして「使徒」は主イエスの復活の証人でもあります。復活の証人という意味では、最初の12使徒、あるいは裏切って自殺したイスカリオテのユダの代わりに選ばれた使徒以外に、使徒言行録に出てくるパウロも自らを使徒と呼んでいます。使徒の定義や考え方はいろいろありますが、ざっくり言いますと、初代教会において特に重要な宣教者を使徒と呼ぶということかと思います。
その使徒という名称は、ペトロにとって自分からけっして胸をはっていえるようなものではないのではないかと思います。かつて主イエスを裏切ったこともある自分を思う時、けっして堂々と自分は主イエスの使徒だ、一番弟子だ、とは言えない存在だという思いを彼は生涯持っていたと考えられます。しかし、手紙の冒頭では「使徒ペトロから」と語りかけます。さきほど、この手紙の著者はペトロ自身ではない可能性があると申し上げましたが、パウロと同様、ペトロ自身も、その宣教牧会活動において、他のキリスト者に対して、使徒としてふるまい、語っていたことでしょう。そしてそれは自分に使徒という名にふさわしい何かがあるからと彼が考えていたからではありません。まさに彼はキリストに使徒として「遣わされた」から自らを「使徒」と呼んだのです。
<わたしの羊を飼いなさい>
ところで、ヨハネによる福音書第21章の主イエスとペトロの会話は有名です。新約聖書211ページ下の段、ヨハネによる福音書第21章15節からになりますが、復活なさった主イエスは、ペトロに聞かれます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。それに対して「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロは答えました。これが彼の精いっぱいの答えでした。かつての彼なら、何の躊躇もなく、「私はあなたのことを誰よりも愛しています!」と答えることができたでしょう。しかし、先週共にお読みしましたように、ペトロは主イエスが逮捕された時、主イエスの裁判が開かれていた大祭司の家の庭で、三度も「主イエスなんて知らない」と言ったのです。ペトロは自分の弱さ、ふがいなさを、いやというほど知らされました。ですから「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」としか答えることができなかったのです。しかしまた、主イエスがご存知です、という答えは、主イエスに委ねた答えでもあります。ペトロは自分自身の思いすら、あやふやなこと、頼りにならないことを分かったのです。わたしの心を私以上にあなたはご存知です、という主イエスへの信頼の言葉でもあります。そのペトロに主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」とおっしゃいました。頼りにならない自分の心や思いではなく、ただ主イエスにすべてをお委ねするという思いでした。
実際、主イエスはペトロの弱さもすべてご存じで、そのうえで、なお使命をお与えになりました。「わたしの小羊を飼いなさい」。<あなたの小羊>ではなく、<わたしの小羊>なのです。主イエスの大事な大事な小羊なのです。その小羊をあなたに委ねると主イエスはおっしゃったのです。大きな使命です。この会話は三回繰り返されます。ペトロは三回も主イエスから「わたしを愛しているか」と問われ、三回とも「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えます。三回目にペトロは三回も「わたしを愛しているか」と問われ、悲しくなったと福音書に語られています。これはペトロが三回主イエスを知らないと言ったことと呼応しているとよく解釈されます。いずれにせよ、ペトロはふさわしいから遣わされるのではないのです。いや、ある意味では、ペトロはとてもふさわしいのかもしれません。弱さを知っている人間だからこそ、イエスさまを堂々と愛していると言えない人間だからこそ、ペトロは遣わされたといえます。ペトロはたしかにキリストの復活の証人でした。最も近くでキリストを見ていた人でした。キリストはもっとも近くに、弱く、学識もない、いざという時に自分を裏切る人間を置かれ、なお、彼に重要な使命をお与えになりました。三回というのは使徒という役目の重さを示します。
ところで、昨日、青年会兼教会学校教師会をリモートで行いました。そのなかで、「汝の敵を愛せ」という有名な聖書箇所から黙想をしました。皆、敵を愛するということは難しいと口々に語りました。しかしまた考えますと、私たちは敵はもちろんのこと、自分が愛する者すら、また自分を愛してくれている者すら、十全には愛せない者です。神を愛することすら難しいのです。もちろん、あるときは心から「イエス様愛しています!」と言えるかもしれません。しかし、現実社会の中で生きていくとき、主イエスのこと神のことは二の次三の次となっていくこともあります。試練の中で、むしろ神に対して反発すら覚えることもあるかもしれません。しかしそのようなことすべてを主イエスはご存じなのです。だからこそ十字架にかかってくださったのです。十字架の上で、自分を侮辱する人々を見ながら、なおその人々のために祈られました。私たちもまたキリストに祈られたのです。神も人間も愛せない私たちのために主イエスは祈られたのです。ですから私たちもペトロのように精いっぱいの思いでお答えするのです。私自身は、たいへん傲慢な人間で、昔は心のどこかで自分はペトロのように愚かな人間ではないという思いがあったように思います。しかし、だんだんと自分もペトロと同じだな、いやペトロより愚かな人間だとわかってきました。だから私も主イエスに向かって「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と言わざるを得ません。そもそも私たちは自分の心すらどうすることもできません。でも、その心をそのまま神に差し出すのです。そのとき、私たちは神によって遣わされるのです。
<選ばれた者>
このようにして遣わされたペトロは、主イエスの小羊に語りかけます。このとき語った相手は、各地に離散しているキリスト教徒たちでした。いま、コロナの禍の中、人々が分断されています。愛の交わりを第一とするはずの教会も、この一年余り、相集って礼拝をお捧げすることができません。そんな中でよく言われることが、今の状態は21世紀における教会の「バビロン捕囚」だということです。集うべき場を奪われ、離散してしまっている教会の群れは、まさに紀元前6世紀にイスラエルがバビロンに滅ぼされ、国を失い、捕囚とされた民の状況に重なります。かつてのバビロン捕囚とされたイスラエルがそうであったように、私たちもまた、今、問われています。私たちは御言葉を求めていたのか?神に従って生きることを望んでいたのか?単に仲の良い人と教会でお茶を飲みたかっただけだったのではないか?神への献身ではなく、自分への見返りを求めていたのではないか?御言葉をちょっと良い言葉、ためになる人生訓のように聞いていたのではないか?そう問われながらも、なお私たちに神の御言葉と恵みは注がれました。さまざまな手段を通して、神は今も私たちに働かれています。その恵みを感じたこの一年余りであったと言えるのではないでしょうか?
ペトロもまた、分断された人々に神の言葉を語りました。当時、キリスト教徒は弱い新興宗教の一グループに過ぎませんでした。それはクリスチャンがマイノリティである日本の状況とも似ています。クリスチャンは、それぞれの場所で苦労をしながら信仰を守っていたのです。さらに当時は、迫害もありました。さらには教会内に教会を荒らす間違った考えをもった人々が入り込んでくることもありました。パウロが「残忍な狼」と呼んだ、一見信仰深そうな人々ですが、実際のところ福音を踏みにじる人々です。ですから、キリスト者には教会の内と外からの攻撃がありました。そんな各地のキリスト者に、ペトロは、慰めの言葉、力の言葉を語りました。まさにペトロは主イエスの小羊を守り、養うために語りました。
ペトロは自分がそうであったように、自分の言葉を聞く人々の弱さも良く知っていました。キリスト者にとって、ある意味、困難な戦いは外的な迫害でもなく、教会の中に入り込んでくる福音ならざる考えでもなく、弱い自分自身との戦いであることをペトロは良く知っていたと思います。
ペトロは「選ばれた人たちへ」と書いています。選ばれるというと、何かクリスチャンが、選民思想に凝り固まって、クリスチャンではない人を見下ろしているように感じます。しかし、これは恵みの言葉です。弱いあなたたち、なかなか神も隣人も愛することのできないあなたたち、そんなあなたたちだからこそ、神は恵みをもってあなたがたを選ばれたのだとペトロは語るのです。自分を誇ることのできないあなたたち、逆に、時々傲慢になるあなたたち、そんなあなたはすでに神に選ばれ、恵みの中に生かされているのだとペトロは語ります。私たちも選ばれています。恵みの中で生きるように、恵みのために選ばれています。愛され、愛することに選ばれています。愛せない私たちです、しかしなお、あなたは愛せるようになる、そのためにわたしが選んだ、あなたは神を愛し、隣人を愛し、敵をすら愛せるようになる、そのために私が選んだ、それが恵みだ。その言葉を誰よりも弱かったペトロを通して、神は私たちに語られました。