2021年12月19日大阪東教会クリスマス礼拝説教「神の国は近づいた」吉浦玲子
今年のクリスマス礼拝は、マルコによる福音書からクリスマスの恵みを共に味わってきたいと思います。しかしながら、マルコによる福音書には、天使も出てこなければ、羊飼いも、東方の博士たちも出てきません。洗礼者ヨハネの話から、いきなりイエス様の宣教の始まりになっています。降誕に関わる記述がありません。
マルコによる福音書の第1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されています。マルコは「福音の初め」を語ります。福音が始まった、それがキリストの到来なのです。福音はギリシャ語でエバンゲリオン、これは「エウ」が良いという意味で、「アンゲリオン」が知らせという意味です。エウアンゲリオン、エバンゲリオンで「良い知らせ」ということです。グッド ニュースということです。英語ではゴスペルであり、これあ「ゴッド」と「スペル」がつながった言葉です。ゴッドはGood、スペルは話です。つまりエバンゲリオンと同じく良い話、良い知らせです。良い知らせと言えば、試験に合格したとか、手術が成功したというような喜ぶべきことが知らされることです。キリストの到来は何が喜ぶべきことなのでしょうか?キリストをご存じないこの世の人々は、クリスマスはイエス・キリストという昔の偉い人の誕生日だと思っておられます。もちろん命の誕生というのはたしかに喜ばしいことです。それが自分とは全く関係のない子供であったとしても、人間にとって新しい命というのは、喜びや希望を与えてくれるものです。そこに未来を感じるからです。もう古い話ですが、私の子供は、平成という元号になって5日目に生まれました。私の子供が生まれる5日前、元号が昭和から平成に変わりました。その平静初日に生まれた子供たちの映像がニュースになりました。私の子供より一足先に生まれた子供たちの映像を見て時代の移り変わりを感じ、ことに感慨が深かったことを覚えています。大きな災害があったとき、その災害地で生まれた赤ちゃんのニュースに、暗い心が明るくされることもあります。命というのは私たちに希望を与え、喜びを与えてくれる、まして、イエス・キリストというよくわからないけど世界中の人が知っている偉い人の誕生日はおめでたいものだと何となく世の中の人は思って、クリスチャンでなくてもクリスマスを特別な日として迎えます。クリスチャンになる前の私もそうでした。
「福音の初め」はたしかに、命と関わることでした。飼い葉桶に眠るかわいい赤ちゃんのほのぼのとしたお誕生のお話を越えて、私たちたちの命ともっと切実にかかわることでした。自らの罪のゆえに死に向かっていた私たちの命が、死ではなく、まことの命へと向かうという知らせが福音でした。滅びではなく、永遠の命へと向かう知らせでした。単なるどこかの偉い人の誕生日ではなく、まさに私たちの命が、新しく生まれさせていただく、それが福音でした。その福音が、始まった、それがキリストの到来でした。
そして人間が作った福音ではありませんでした。神の子、イエス・キリストの福音でした。イエス・キリストによる福音であり、イエス・キリストに関する福音であり、イエス・キリストその人が福音でした。神の子イエス・キリスト、キリストそのものが福音であった。ここで神の子とありますのは、「子なる神」、父・子・聖霊なる三位一体の神である神の、子なる神のことです。子なる神は、当然ながら神なのです。神の子は神なのです。神の子は神ではないというのは当然ながら、異端です。その子なる神が、この世界に来られた。それが福音の始まりでした。
そして福音は突然来たのではありませんでした。神は順序立てて、すべてを備えられて、神の子イエス・キリストをこの世界に送られました。まずその福音の初めは、あらかじめ知らせられていたのです。今日の聖書箇所に洗礼者ヨハネの話が記されています。その洗礼者ヨハネの登場も、さらにその700年以上前に、イザヤ書に預言されていたものです。すべては神が準備なさっていたことでした。そしてその洗礼者ヨハネは、やがて来られる神の御子を指し示したのです。いきなり神の子イエス・キリストが来られたのではない、というのは、もちろん別にもったいぶっているわけではないのです。神は神の時間において、子なる神、イエス・キリストをこの世界に送られました。2000年前にふと思いつかれたのではないということです。人間の長い罪の歴史を忍耐してご覧になって来られた。そしてもっとも神がお選びになったその時に、子なる神はこの世界に来られました。人間の赤ん坊が生まれる時も、親は準備をします。ベビーベッドやら産着やら、育児に必要なものをそろえ、臨月まで備えます。神は人間の親以上に、ねんごろに備えられたのです。それは何より私たちのためです。私たちが、そのことが、神のご計画であり、神の私たちへのとてつもないプレゼントであることを理解できるように、あらかじめ旧約の預言者に伝え、洗礼者ヨハネに語らせ道を整えさせ、備えてくださったのです。
それにしても、冒頭に申しましたように、ここには私たちが一般に思い描くようなクリスマスの出来事はありません。飼い葉桶も天使も羊飼いたちも出てきません。いきなりらくだの毛衣に革帯をしているむさくるしい預言者が描かれています。そしてそのヨハネからイエス・キリストが洗礼をお受けになったことが記され、荒れ野でサタンの誘惑を受ける話となります。さらに、洗礼者ヨハネの逮捕が描かれます。美しい話がないだけでなく、キリストの洗礼の場面を除けば、むしろ殺伐とした話が多いのです。しかし、そうであるゆえ私たちは知ることができます。神の子イエス・キリストは殺伐としたこの世界に来てくださった、それが福音の初めなのだと。ニュースを見ますと暗澹となることが多くあります。大阪においては先週悲惨な事件もありました。今朝もまたまだ若い方がなくなったというニュースがありました。
そんな世界にあって、私たちはどこか遠くへ旅をして、福音を探し当てるのではないのです。キリストは、罪にまみれた、殺伐とした人間の世界のただなかに来てくださった。神の子イエス・キリストの方から来てくださった、それが福音の初めなのです。むさくるしい格好をした男が、声の限りに悔い改めよと叫ばねばならない世界に来てくださった、そしてまた同時に、悔い改める必要のない神の子、子なる神が、罪人と共に洗礼を受けてくださった、私たちと同じところに神が来てくださった。汚れた人間が、私たちが浸った水に、同じ体を持った人間として浸ってくださった、それが福音の初めなのだと語られています。
そしてまた、主イエスの道を備えた洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスに捕らえられてしまったその頃に、神の子イエス・キリストは公の宣教を始められました。それもあえて、ヘロデ・アンティパスが支配しているガリラヤへ行って宣教を始められました。暗く殺伐とした世界の、子なる神の道備えをしたヨハネが捕まってしまうように罪の極まったところで神の子イエス・キリストは宣教を始められました。キリストの声は、暗きところ、殺伐としたところに響いたのです。清らかなところ、正しいところに響いたのではありません。暗きところに声がするゆえに、私たちにもキリストの声が聞こえるのです。私たちも暗く殺伐とした者だからです。子なる神の声を聞くにふさわしい者だから聞くのではないのです。最もふさわしくない者として、私たちは子なる神の声を聞きます。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
神が備えられ、神の時が来ました。それが時が満ちたということです。そして神の国は近づきました。近づいたというとどのくらい近づいたのでしょうか。近づいたのであって、来たとは言われていません。しかしこの近づくとは、ほぼ来たという意味です。そもそも神の国が近づくというと、それは喜ばしいことでしょうか?それが一般的に人々が思うような桃源郷のような天国という意味であれば、喜ばしいことかもしれません。しかし、神の国というとき、第一に考えねばならないことは、そこは神の支配にある国ということです。天地創造以来、世界は神が御支配されていますが、神の国が完成する時、神ご自身が顕現されて、その力を直接に奮われる、裁きを行われることになります。それは人間にとって喜ばしいこととはあまり考えられないかもしれません。お花畑のようなところで楽しく暮らすということ以上に、神を支配者、王としてお迎えするということです。ですから、私たちは悔い改めるのです。悔い改めとは神の方を向くということです。王である神の方を見るということです。悔い改めというと、自分の悪いところを思い起こして暗い気持ちになるような感じがしますが、ある方はこのようにおっしゃっています。「悔い改めとは、思い煩いを自分の後ろに投げ捨て、神の豊かさによって生きることである」と。自分の力で何とかしようと思っていた様々な事柄、自分の力でどうにもできないと嘆いていた様々な事柄を、自分の後ろに投げ捨てるのです。自分の力でどうにもできないことの最もたるものが自分の罪です。それを後ろに投げ捨てろというのです。自分の力ですべてをどうにかしてやるという傲慢を後ろに投げ捨てろということです。そして自分の力ではなく、神の豊かさによって生きなさい、それが悔い改めです。
ある牧師がおっしゃっていました。そもそも「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は一般的にはおかしいと。「悔い改めて、正しく生きなさい」とか「悔い改めて立派になりなさい」というのなら、一般的な言い方で、理解しやすいのです。しかし、そうではない、「福音を信じなさい」と語られているのです。自分の思い煩いを捨てて、ただ良き知らせを信じなさいと言われているのです。正しく生きる、立派に生きるというのはどこまで行っても人間の側の行いや心がけの問題になります。しかしそうではない、福音を信じる、良き知らせを信じる、つまりキリストを信じるのです。それが私たちの福音の初めです。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」そう福音書の最初に記されていました。福音書の初めの言葉としては、そっけないような記述です。「初め」はギリシャ語で「アルケー」という単語ですが、これは考えると不思議な言い方です。福音が始まった、とか、福音の初めは以下のようであったという言い方ではないのです。投げ出したように「福音の初め」と言われているのです。たとえば、ヨハネによる福音書は「初めに言があった」と始まります。ここにも「初め」というアルケーという同じ単語が使われています。初めにおいて、 in the beginning 初めから、言葉があった、というような表現になっています。こちらの初めの使い方はきちんと日本語としても完結した言い方のように感じます。「初めに○○があった」というのは時間関係が分かりやすく感じます。しかし、マルコにおける「福音の初め」というのは、福音がここから始まったということを言っているのですが、その初めの対象や範囲がわかりにくいのです。このマルコによる福音書の1章で福音の初めのことが書かれているのか、あるいはマルコによる福音書全体が、福音の初めについて書いているのか、ぼんやりとしているのです。
そもそもマルコによる福音書は、主イエスの復活で終わりますが、本文は、イエス様が十字架にかかられ葬られたあと、婦人たちが墓に行くとイエス様の亡骸がなく、婦人たちは天使と出会い震えあがって逃げたという終わり方になっているのです。そのあとに補足のように他の弟子たちに主イエスが現れたことや弟子たちが宣教に派遣されたことが書かれています。なにかかっちりとした終わりがあるように見えないのです。
ですからこう言えます。マルコの福音書は終わっていないのです。福音の初めを記しているマルコの福音書はまだ終わっていないのです。2000年後の今も、まだ福音の初めは続いているのです。神の子イエス・キリストがふたたび来られ、神の国が完全に完成する時までが福音の初めなのです。しかしまた悔い改めて福音を信じるものには、すでに神の国は到来しているのです。この暗い、殺伐とした世界に生きながら、なお私たちは悔い改めて福音を信じる時、神の国に生きているのです。私たちが福音を信じ、神の国に生きることができる、それがキリストの到来の出来事、クリスマスです。今日、お一人の方が、悔い改めて福音を信じることを決意されました。お一人の方が神の国に新しく命を与えられます。その喜びのうちに、ここにあるすべての者がそれぞれの新しい命を覚えます。新しい命を与えてくださった神の子イエス・キリスト、子なる神キリストの到来を感謝します。