大阪東教会礼拝説教ブログ

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マルコによる福音書第2章23~28節

2022-02-20 13:29:55 | マルコによる福音書

 

 

2022年2月20日大阪東教会主日礼拝説教「人の心を縛るもの」吉浦玲子 

 ある安息日のことでした。主イエスと弟子たちは麦畑を通って行かれていました。麦がたわわに実っていたのでしょう。弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めたとあります。弟子たちは食べるために麦の穂を摘んでいたのです。彼らは空腹だったのです。通りすがりの畑の麦を食べないといけないほどお腹が空いていたのです。麦を見てお腹を空かせていた弟子たちはほっとしたことでしょう。主イエスと弟子たちは町から町へと宣教の旅をしながら、招かれた家で食事をすることもありました。前にお読みした聖書箇所では、徴税人の家に招かれて食事をしている場面もありました。しかし、旅から旅の宣教の歩みにおいて、いつも豊かな食事に恵まれていたわけではありませんでした。むしろ、食べる物にも事欠くような日の方が多かったのではないでしょうか。今日の聖書箇所の前の場面では断食についての問答がありました。主イエスの弟子たちはなぜ断食をしないのかと問われていました。たしかにすでに神の御子が来られて共におられる、その喜びの場面で断食はしないものだと主イエスはお答えになりました。しかし、一方で、実際の食べ物事情からいうと、弟子たちは日常的に断食をしていたとすら言えるような状態だったようです。 

 ですから、弟子たちは麦畑に入り、麦の穂を摘んで、そして手で揉んで殻をとって食べていたのです。そのこと自体は律法でゆるされていたことです。貧しい人が麦畑に入って手で麦を摘んで食べることはゆるされていました。鎌などの道具を使って刈り取ったり脱穀することはゆるされていませんでしたが、手で摘んで揉んで食べる分にはなんら問題がなかったのです。 

 しかし、問題はその日が安息日であったということです。ファリサイ派の人々は、弟子たちの行為をとがめました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」この麦の穂を摘むという行為が労働だと判断されたのです。安息日に、禁止されている労働を主イエスの弟子たちはしていると、とがめられたのです。私たちの感覚では、なんて細かいことをグチグチいうのだと感じます。しかし、ファリサイ派の人々は真剣です。神の律法を真剣に守ろうとしていたのです。今日的な感覚で、ファリサイ派の人々を単純に杓子定規な教条主義者とはいえないところもあります。 

 安息日の根拠は旧約聖書では二通りあります。一つは出エジプト記にあります。天地創造の時、神がこの世界を6日間で創造され、7日目にお休みになったことが安息日の根拠の一つです。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」出エジプト記にこうあります。神は天地創造をなさって疲れたから七日目にお休みになったわけではありません。七日目に、お造りになった世界を喜び、祝福されたのです。「見よ、それは極めて良かった」とあるように、世界を祝福されたその七日目を特別に聖別されたのです。その特別に聖別された日が安息日でした。その「極めて良かった」世界は、人間の罪のために壊れてしまいました。今や不完全な世界です。しかしなお神の顧みは続いています。神はこの世界を守ってくださっている、そのことを覚え、神が聖別された七日目を特別な日として過ごす、それが安息日です。 

 安息日のもう一つの根拠は、申命記にあります。かつてエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民は、エジプトにいる間、奴隷ですから、当然安息日などはありませんでした。しかし、出エジプトによって、エジプトを脱出し、奴隷から解放されましたた神によって、イスラエルの人々は自由な人間として解放されました。救われたのです。そしてイスラエルの民は安息日を守ることができるようになりました。安息日は神の救いと人間の解放を記念する日となったのです。 

 いずれにしても聖書は「休みなさい」と人間に言っているのです。安息日というものは、神が御自身の業のゆえに与えられる安息の日、休みの日なのです。休みなさい、そして神の業を覚えなさいという日です。休まなければどうなるでしょうか?もちろん働きづめでは人間は心身を病みます。一見タフで、昭和の時代のコマーシャルのように24時間戦えるような人であっても、実際のところ、体と心にダメージが蓄積されているのです。休むということは、そのような人間の弱い肉体と心を守る面もありますが、それ以上に、神を業を覚えるということが人間にとって必要なのです。安息日には神を礼拝するのです。休まなければ、あるいは仕事が休みでも、レジャーだ家族サービスだと忙しく動き回っていては、神の業を覚えることができません。結局、日曜から土曜まで、すべてが人間の働き、業だけで過ごすことになります。そうなると、すべてを人間が牛耳って制御しているように錯覚します。そうではないのです。私たちは神に造られ、神に救われ、日々、神に守られている、そのことを覚えるために休むのです。仮に私たちが休まなければ、神さまは私たちを守ってくださらないということはないでしょう。でもどうしょうか?たとえば、子供たちが、両親が働いてることに一切感謝をしない、お父さんとお母さんは勝手に働いてて、自分たちは自分たちで学校に行ったり日曜日も塾や習い事にいったり友達と遊ぶから、ということであれば、そこに家族の喜びはあるでしょうか。親と子が共にひとときでも時間を過ごし、家族での休養の時を持つとき、そこに家族の喜びがあるのではないでしょうか。神と人間の関係もそうです。神様が勝手に働いていて、私たちは私たちでやっとくから、というのでは、そこには神と人間の交わりはありません。信仰の喜びがありません。安息日は神と交わり、神の業を覚え、感謝して、心安らかに喜ぶ日なのです。 

 かつて信徒のころ、私たちはかなり熱心に教会の奉仕をしていました。日曜日も朝早く教会に行って、昼ごはんの準備、教会学校の奉仕、礼拝のあとはパソコンに向かってさまざまな事務処理を夕方近くまで行っていました。日曜日、教会から帰ってくるとき、とても疲れて、なんだか平日に会社で残業して帰っているのと変わらないなあとどんよりと暗くなって思うことが、よくありました。今思うと、神との交わりを喜ぶという肝心なことを私は忘れていました。神の前で安息するということの意味が分かっていなかったのです。会社の仕事は休んでいても、結局、自分の手の業を続けていたのです。 

 これは、聖書に出て来るファリサイ派の人々も同様でした。空腹でやむを得ず、麦を食べていた弟子たちに、律法違反だとチェックを入れる、そんな彼らは、本来の安息日の意味を取り違えていました。もちろん、彼らは神の戒めに真面目な宗教家ではあったのです。主イエスの時代には、律法に違反をしないように、モーセの律法に加えて、口伝律法と言われるものがありました。もともと律法には安息日に関して39の禁止事項があったようですが、さらにその39に対して39のもっと細かい細則ができたのです。つまり全体で39×39の1521の禁止事項がありました。何を安息日に休まねばならない労働と考えるのかということが細かく規定されているのです。弟子たちが麦を摘んで手で揉んで食べることも脱穀するという労働と見なされました。現代のイスラエルでは、たとえば、エレベーターのボタンを押すことも労働として安息日には禁止されています。しかしまた反面、命に関わるような病気に対しての医療行為はなしてもよいとも定められています。 

 安息日に関しては、単純にお腹空いているんだから、飢えているんだから堅苦しいこと言わなくていいではないかという問題でもないのです。主イエスはそれに対しで、かつて命を狙われて逃亡していたダビデが、本来祭司以外は食べてはいけない祭司のパンをもらってたべたことを引き合いに出して答えられました。この話はサムエル記にある話ですが、祭司は、ダビデたちが身を清めていることを条件にパンを渡したのです。これは、安息とは何かということを示すことです。安息は神が与えられるものです。奴隷であった民を解放し、自由を与えてくださった神が、人間に平安を与えるために安息を与えてくださいました。奴隷から解放された出エジプトの民は、安息日を守りました。そして毎日、天から降って来るマナという食べ物で人々は養われていました。マナを拾って持ち帰って食べたのです。しかし、安息日の前日にはマナは二倍の量降って来たのです。安息日にマナを拾いに行かずに済むように。安息日にはお腹空かして神のことを思っておけというのではないのです。神は心身の必要を満たしてくださり、人間が本当に安息を得られるようにしてくださったのです。追手から逃げ回り空腹だったダビデたちに、祭司を通して、神は安息を与えてくださったのです。神は人間を愛し、弱い人間のために安息を与えてくださったのです。 

 そしてまた、この箇所で、ある牧師は、パンをもらったのがダビデということにも意味があるとおっしゃています。ダビデは祭司からパンを受け取った時、まだ王に即位はしていませんでしたが、すでにサムエルから油を注がれていました。神から王になる者としてすでに選ばれていました。その神に選ばれた王であるダビデに対してパンが与えられ、ダビデは、自分に従う者たちにそのパンを分け与えることができたのです。つまり王たるダビデがパンを人々に与えたのです。主イエスはダビデの血筋であり、ダビデの王権を継ぐ者でした。いえ、ダビデ以上の王たるお方でした。ですから、「人の子は安息日の主である」とおっしゃったのです。神が人間のために安息をお与えになった、そして地上に来られた神、そして完全なる王である主イエスもまた人々にまことの安息をお与えになるお方でした。人間に対してまことの平安をお与えになる方でした。ですから人の子、主イエスは安息日の主でもありました。 

 今日、私たちは安息日の定義で人々を縛ることはないかもしれません。しかし、私たちが神から顧みられていることを忘れる時、私たちは自分で自分を縛るのです。そしてまた人をも縛るかもしれません。日曜日に残業するような気持ちで奉仕をしていた私もそうです。本来、神に与えられた安息を喜ぶ日なのに、自分はこれをやらねばならないと自分で自分を縛っていました。そしてまた、ほかの人はなぜわたしのように奉仕をしないのか、と不満にも思っていました。ファリサイ派の人々が飢えている弟子たちに対して批判をしたように安息ということを人を裁くための道具としていたのです。 

 神はこの世界を造ってくださいました。それは命を造ってくださったということです。私たち一人一人の命を造ってくださいました。神は私たちの一人一人の命を慈しんでくださる方です。命が損なわれることを願っておられません。私たちが肉体的にも、心も健やかに、生きていくことを望んでおられます。そしてまた霊的にも健やかに豊かに生きていくことを願ってくださっています。そのために安息日は定められました。心身共に、霊肉共に神に守られ、慈しまれていることを覚えるために安息日が定められました。 

 旧約の時代、土曜日が安息日でした。主イエスの復活ののち、主イエスが復活をなさった週の初めの日、つまり日曜日を、キリストを信じる者は礼拝を捧げる日と定めました。この日曜日を旧約時代と同じように「安息日」と呼んでいいかどうかは神学的には議論があります。しかし私たちはこの日曜日を主の日として礼拝をいたします。この日、神から安息をいただきます。しかし、人によっては日曜日が仕事である方もあるでしょう。また病やご高齢のため礼拝に集えない方もあるかもしれません。しかし、すべての人々に対して、神は安息を与えられます。それぞれの場で、場合によって、曜日を違えてでも、一人一人に、神は安息をあたえてくださいます。一人一人の命を慈しんでくださいます。私たちの縛られていた心を主イエスが解放してくださいます。私たち一人一人の命が本来の息を吹き返すのです。それが神に与えられた安息の時です。