大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

マルコによる福音書第4章1~20節

2022-03-27 16:03:21 | マルコによる福音書

2022年3月27日大阪東教会主日礼拝説教「わが心は石にあらず」吉浦玲子 

<神は大雑把?> 

 今日の聖書箇所は有名な「種を蒔く人」のたとえ話です。種は4種類の場所に蒔かれます。「道端」と「石ころだらけの場所」と「茨の生えたところ」と「良い土地」です。このたとえ話は当時のイスラエルの農業のあり方を良く知っている人々には非常にリアリティのあるものであったと思われます。当時の種まきは、かなり大雑把になされていたのです。適当に種をばらまくので道端に落ちる種もあったり、石や茨のなかに落ちる種も実際にあったのです。もっと効率的に土地を耕して畝を作ったりして種を蒔けばいいではないかと几帳面な日本人なら考えるところです。しかし当時、このたとえ話を聞いた人々は生き生きとそのイメージを思い描くことができたのです。 

 13節からの主イエスご自身による解説を読みますと、種は神のみ言葉であり、土地は私たちの心であると語られます。となりますと、じゃあ自分はどんな土地だろうか?と考えてしまいます。道端でサタンにすぐに種が奪われてしまうような土地だろうか、石だらけで根がはれなくてすぐ枯れてしまうような土地だうか、茨が茂っていて世の誘惑に負けてしまうような土地だろうか、と考えてしまいます。そして多くの人は、自分などは三十倍も六十倍も百倍も実を結ぶような良い土地ではない、ああ良い土地になれるようにがんばらなくては、と思うのです。 

 しかし、このたとえ話は、新共同訳聖書の見出しにもなっていますように、「種を蒔く人」のたとえ話なのです。ポイントは土地の側にはないのです。種を蒔くのは誰でしょうか?それは神ご自身です。主イエス・キリストです。神が豊かに蒔かれるのです。しかし、神は、言ってみれば、人間の感覚で言えば大雑把に蒔かれるのです。私自身がかなり大雑把な人間なのでそうであるなら、少しうれしいですけれども。神は、ここは良い土地だとか石ころだらけだと区別をして蒔かれるわけではないのです。昨年から、教会の庭を整備いただいていますが、労力をかけて苦労して耕し、種を蒔いてもうまくいかなかったことがあると聞いています。ひまわりは芽が出るとすぐに虫に食われますから、わざわざまず植木鉢に種を蒔いて芽が出てから庭に植えましたが、結局、あまりうまくいきませんでした。しかし、皮肉なことに、残っていた種を別の場所に無造作に蒔いたものは、とてつもなく育ちました。植えた土地によって、生育にずいぶん違いました。もちろん園芸の専門家であれば、ここの土地は良く育つとか、ここはダメだというのがあらかじめ分かるでしょう。神もまた、実際のところ、よくよくご存知なのです。ここに御言葉を蒔いても、根が育たず枯れてしまうことを。せっかく芽が出ても茨にふさがれて実を結べない、すぐにこの世の誘惑に負けて成長できなくなってしまうだろうということを。 

 にもかかわらず、惜しげもなく蒔かれるのが神なのです。それが「種を蒔く人」であり、私たちもまたみ言葉を蒔かれた者なのです。私たちが良い土地だから蒔かれたわけではない、むしろまったく耕されていない道端であったり、石がごろごろしていたり、茨が茂っていたりしていたのです。大阪東教会の庭にもしぶとくどくだみが茂っていました。どくだみは土地の栄養を奪い、他の植物が育てなくする性質のようです。あるいは空襲で焼け落ちた旧会堂の残骸が埋まって開墾がむずかしいところがあったと聞きました。土自体が黒く焼けてどうしようもないようなところもあったようです。しかし、どのような土地であろうとも、神は蒔かれるのです。非効率的と思われることを、愚かとも思えることを神はなさるのです。 

<愚かな神の憐れみ> 

 神のなさること、そして、信仰の出来事というのは合理的なことではないのです。合理的に考えようとするとき、むしろ神のなさることは愚かに見えるのです。新約聖書には、愚かとも思える神の姿がたとえ話としてよく描かれています。道楽の限りを尽くして家の財産を失って帰ってきた息子を抱きしめる父親、天文学的な額の借金を帳消しにしてくれる王様等々。普通に考えますと道楽息子を無条件で赦す父親は子供を甘やかすダメな父親ですし、借金を帳消しにした王も統治者として疑問を持ってしまいます。実際、借金を帳消しにされた家来はまったく王に感謝もしていないのです。人間から見たら神は、実に愚かで馬鹿げた存在に見える時があるのです。人間から見て、立派な正しい人間を愛される神であれば理屈は通ります。ちゃんと石を取り除き、茨を取り除いて、耕して、さあ土地を整えましたという人間のところにだけ種を蒔く神の方が理解はしやすいのです。 

 ところで、いま、受難節の時を私たちは過ごしています。私たちはこの時、いっそう、神の憐れみに思いを巡らしたいと思います。神の憐れみとは何でしょうか?いろいろな言い方ができますが、一つの言い方として、どうしようもない人間と共に痛んでくださる、それが憐れみです。どうしようもない人間、神から離れている人間を糾弾したり、罰を与えるのではなく、罪ゆえに苦しむ人間と共にその苦しみを共に苦しんでくださる神、それが憐れみ深い神なのです。私たちの苦しみの根源にあるのは私たちの罪です。その罪ゆえに苦しんでいたとしても神は憐れんでくださるお方です。子供が小さなとき、子供が病気になって苦しんでいたら、親であれば、代わってあげたいと思うと思います。神は人間が自分の罪ゆえに苦しみの深みに入っていっても、それを自業自得だとおっしゃるのではなく、その苦しみを共に苦しんでくださるお方なのです。さらには十字架において、自ら代わりに痛みを担ってくださいました。それが神の憐れみです。 

 茨だろうか石ころだろうが、神は見捨てず豊かに蒔いてくださる、太っ腹な神は、同時に、私たちと共に苦しんでくださる神でもあります。ですから、私たちは少しずつ知っていくのです。石ころだろうが茨だろうが、太っ腹に種を蒔いてくださる神だから、私たちは好きに生きてよい、ずっと石ころだらけでいいとは思えなくなるのです。何でも赦してくださる神なのだから安心して罪を重ねてよいなどとは思えないのです。神の憐れみを知る時、私たちはそう思えなくなるのです。 

<神の国のミステリー> 

 さて、今日の聖書箇所のたとえ話とその説き明かしの部分の間に、「たとえを用いて話す理由」と見出しがついた箇所が挟まれています。ここには不思議なことが書かれています。弟子たちにたとえについて聞かれた主イエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とおっしゃるのです。通常、たとえ話というと、話を分かりやすくするために語られます。しかし、主イエスの語られているたとえ話は「外の人々」に語られるものだとおっしゃるのです。先週の聖書箇所で、イエスの母マリアと兄弟たちが主イエスを連れ戻そうと家の外に立っていたことが描かれていました。それに対して、主イエスは家の中にいてご自身の言葉を聞いている人々こそが自分の家族なのだと語られました。つまり、主イエスのそばにいる人々、主イエスの話を聞いている人々は内側の人々であって、「外の人々」とは主イエスから離れている人々、主イエスの話を聞いていない人々をさします。 

 そもそも、「神の国の秘密」というものは、隠されているものなのです。秘密という言葉は、ギリシャ語でミュステーリオンで、英語のミステリーの語源となっています。謎であり、神秘でもあります。「神の国の秘密」というものはそもそも見て理解して納得するという種類のものではないのです。信じるものです。理性で理解し、納得できるものであれば信じる必要はありません。主イエスの最初の宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。確かに神の国は近づきました。しかしいまそれをはっきりと肉眼で見ることはできません。いまはまだミュステーリオン、なぞで神秘なのです。その神秘を語ったものがたとえ話です。しかしそもそもが、現時点では隠されているものですから、たとえで語られても分からないのです。 

 しかし、内側にいる人々にはその秘密が打ち明けられている、と主イエスはおっしゃるのです。たとえ話でなぞかけのように語られるだけでなく、説き明かしがなされるのだとおっしゃるのです。逆に言えば「内側」に主イエスの側に来なければ分からないのだとおっしゃいます。戸口の外に立っていては分からないのです。そもそも神の国とは、神の支配されるところです。神の支配に従う者にはそこに入ることがゆるされていますが、神の支配に従うつもりない人々にはゆるされていません。神の国のことがすっかり分かって納得できたら神の国の支配に従い神の国に入りますというあり方は信仰のあり方ではありません。まず主イエスに近づくのです。そして神の言葉を聞くのです。 

 教会は受洗をけっして強要はしません。しかし、洗礼を受けることは、神の国の支配に従うということでもあります。神の国のことをすっかり分かったから洗礼を受けるわけではありません。むしろ逆で、主イエスの言葉を近くで聞き、主イエスに従おう、神の句の支配に従おうと決意したとき、さらに神の国の神秘が開かれていくのです。外にいてはけっして分からない神の国の神秘が少しずつ開かれるのです。キリストに聞き、そして従っていくとき、神の国は少しずつ私たちの内に開かれていきます。もちろんこの地上に生きる時、まだ終わりの日が来る前は、けっして完全な形で神の国を私たちは知ることはありません。大伝道者のパウロも「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」と語っています。しかし、外にいてはけっして分からない秘密を、キリストに従って生きる私たちはキリストから知らされるのです。 

<とてつもない実りを期待しよう> 

 さて、種を蒔く人のたとえに戻れば、そもそもこの描かれている土地は、別々の土地ではありません。ひとつの畑を耕す時、良い土地もあれば、石ころのところもあり、茨もあるということです。畑からこぼれて脇の道端にも種が落ちるということです。私たちの心にはさまざまなところがあるということです。そしてまた私たちはまったく変わらない者ではありません。教会の庭の石ころを取り除き、どくだみを抜き、場所によっては何度も何度も労力をかけ手入れして植物が植えられたように、私たちの内なる土地は神によって変えられるものです。最初は石だらけであったても、神が少しずつ石をとり耕してくださるのです。気がつくと、最初は少ししか実っていなかった実が、何十倍にも増えているのです。この何十倍という表現は大げさな言葉ではありません。神の業はそのように実るのです。そして、種まきのたとえからもう一つ示されていることは、実るためには、信仰が育っていくには時間がかかるということです。そして一見無駄と思えることもあるということです。それは私たちの信仰の歩みにおいてもそうですし、教会の伝道についても言えることです。自分ではしっかりやったつもりが寄り道したり、無駄だったと思えることをしたりします。しかし、神において無駄なことは一つもありません。また一方、すぐに自分の信仰が変わったり、今日、頑張って伝道をしたから来年には教会に爆発的に人が増えるということはあまりありません。むしろやってもやっても頭打ちに見えることの方が多いのです。しかし、神が教会を養ってくださるならば、それは必ず実を結ぶのです。それも三十倍にも六十倍にも百倍にも実を結ぶのです。2000年に渡る教会の歴史を見てもそうです。12人の弟子たちから、そしてペンテコステの日に洗礼を受けた三千人から、どれほど多くの実が実ったでしょう。1877年1月24日、シティオブペキン号から日本の地に降り立った米国人宣教師によってはじめられた宣教によって大阪西教会が立てられ、大阪東教会が立てられ、夙川教会が立てられ、森小路教会が立てられました。150年足らずの間にどれほどの実りがあったでしょうか。ここにいる私たち一人一人もまた、神の豊かな実りです。キリストの側にいる時、私たちには神の国の秘密が開かれ、そしてますます良い土地に変えていただきます。私たちは豊かにされていきます。そしてまた私たちからもさらに新しい実りが増え広がっていきます。 

 


マルコによる福音書第3章31~35節

2022-03-27 15:47:46 | マルコによる福音書

2022年3月20日大阪東教会主日礼拝説教「ほんとうの家族」吉浦玲子 

 教会に、かつてその教会にいた牧師の息子や娘、あるいは古くからいる信徒の子弟が牧師として赴任してくることは、なかなか難しいことです。牧師や信徒の子弟でなくても、自分の出身教会に牧師として献身してすぐに赴任するというのは難しい面があるようです。私自身はそのような教会を直接は体験していませんが、信徒時代、一時期在籍した教会の前任牧師が、その教会の昔の牧師の息子さんだったということはありました。私はその前任牧師を直接は知らないのですが、聞くところによると、昔の牧師の息子である前任牧師は、信徒さんから親しまれていたのですが、それは、小さいころから知っている親しさであって、牧師に対しての信頼とか尊敬というものとは違ったようです。信徒さんたちに悪気はなかったのですが、どうしても、御言葉を語り、教会を導いていく存在として、その前任牧師を見ることができなかったようです。あのかわいかった坊ちゃん、大きくなったあの少年というように、その面影で見ていたのです。結局、その前任牧師は比較的短期間で教会を去ったとお聞きしました。 

 聖書を読みますと、主イエスご自身が、身内の人、また地元の人から理解を得られなかったということが記されています。今日の聖書箇所もそうです。少し前の聖書箇所21節と合わせて読みますと、主イエスの母と兄弟は主イエスを取り押さえようとやってきたのです。ごく普通にガリラヤで大工として生活をしていた長男が突然新興宗教の教祖のようになってしまった、さらにあろうことか立派な権威ある学者たちと対立をしているともうわさがあり、さらには「気が変になった」とも聞き及び、驚いて、家に連れ帰ろうとしたのだと思われます。もちろん、そこには血縁の者としての愛情もあったと考えられます。気が変になっている長男を連れ帰って、元の生活に戻そう、そしてまた家族や親族が変な目で見られないようにという心配もあったでしょう。 

 母と兄弟たちは、「外に立ち」とあります。カファルナウムの主イエスがおられた家は、群衆が押し掛けていて、母や兄弟たちは中に入れなかったようです。いやむしろ家族たちは積極的に入ろうとはしなかったとも言えます。「人をやってイエスを呼ばせた」のです。気が変になったと言われる息子の話を聞いている人々もまた普通の状態ではないと主イエスの家族には思われたかもしれません。なので、その中に入ることに抵抗があったのかもしれません。外に呼び出して、変な集団から主イエスを切り離して、説得して、連れ帰ろうと思ったのでしょう。家族にとって、人々に話をしている主イエスの姿は、別人のようであり、遠い見知らぬ存在に見えたかもしれません。彼らは、自分たちが知っている長男イエスの姿を求めました。 

 そもそも「外に立ち」というときの「外に」というのはエクゾーという言葉です。一方、「気が変になっている」という言葉は「心が外に行っている」「理性から離れている」というエクゼステミーという言葉です。主イエスが気が変になっている、つまり心が外に行っていると思っている家族が「外に」立っている、つまり実際のところ、「心が外に行っている」のはどちらなんだ、むしろ主イエスの母や兄弟の方が「外に」いるのではないかということも暗に示されていると考えられます。 

 その家族に対して主イエスの態度は、冷たいともとれるものです。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と呼びに来た人に対して「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃるのです。この言葉が外にいた家族たちに聞こえたのかどうかは分かりません。聞こえたかどうかは別にしても、この後に続く言葉と合わせましても、聞きようによっては、外にいる者たちは家族なんかじゃないよ、とおっしゃっているように聞こえます。主イエスはこの箇所だけでなく、ときどき、ご自身の家族に対して冷たいと感じるような言葉を語られることがあります。ヨハネによる福音書のカナの婚礼の場面では、「ぶどう酒がなくなりました」と知らせる母マリアに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えておられます。息子の母に対する言葉としてはとても冷たい感じがします。主イエスだけではありません。弟子のヤコブとヨハネにしても、漁師だったふたりは、父ゼベダイと雇い人たちを舟に残して主イエスに従ったとあります。信仰者は、自分の家族を捨てて、神に従わないといけないのでしょうか。しかし、一方で旧約聖書の十戒には「父母を敬え」という戒めもあります。自分の父母を悲しませて、主イエスに従うことは良いことなのでしょうか。 

 もちろん、聖書において、この世の家族、親族のないがしろにしてよいということが語られているのではありません。信仰者たるもの、家族を捨てて神に従うのだというのではありません。家族より教会を大事にせよということでもありません。主イエスはおっしゃいます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」主イエスが言われる「ここ」には主イエスの福音を聞きたい人もいたかもしれませんが、多くは主イエスに病気を治してもらいたいとか、悪霊を追い出してもらいたいという人々でした。「外に」立っている家族のみならず、家の中にいた人々も、主イエスがどなたかということは分かっていなかったのです。しかしなお、家の中にいる人々に対して主イエスは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃるのです。 

 家の中にいた人々は主イエスのことは分かっていなかった、分かっていないということにおいて、家の外にいた母や兄弟たちとそれほど差があったわけではありません。しかし、「わたしの兄弟、姉妹、母」と言われた人々は、家の中にいたのです。主イエスの声が聞こえる周りに、近くにいたのです。よく主イエスという人のことを分かってはいなかったけれど、とにかくそばにいたのです。その人々を主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」といってくださるのです。今、礼拝において、会堂の中に私たちはいます。あるいはネットを介してキリストの御言葉の近くにおられる方々がいます。そんな私たちに向かって主イエスは「わたしの兄弟、姉妹、母」だとおっしゃってくださるのです。私の家族とは、私の言葉を聞く者たちなのだと主イエスはおっしゃるのです。 

 教会は「神の家族」と言われます。家族なんだから仲良くしましょう、あるいは教会は皆が仲が良いから、支え合っているから家族なんだと思われるかもしれません。もちろん、教会は、皆が仲良く、祈り合い、支え合っていけたら良いとは思います。しかし、家族であるということは、血を分けた家族であっても、自分たちで選べないのが家族です。さきほど言いました十戒の中の「父母を敬え」という言葉は、儒教的な親を敬えという教えとは少し違ったニュアンスがあります。最近、親ガチャなどという言葉が言われますが、実際、親は選べませんし、親から見て子供も選べません。こんな兄弟はいやだと思ってもどうにもなりません。選べないということは神に与えられている関係ということです。教会が神の家族であるということは、神によって与えられた関係性なのだということです。同じ信仰を持っている、志を同じくした集団ということ以上に、神がその関係性を与えられたということです。思想信条を同じくする同志や仕事関係の組織であれば、選択の自由度に差はあっても、原則的には人間の側がその関係性を持つかどうかを選ぶことができます。しかし、家族という関係は、人間の側が選べないのです。神が与えられた関係なのです。世の中にはたしかに毒親といえるような親もいます。親だから絶対に従えということではなく、しかし神に与えられた関係として、それもこの世における最初の関係として尊重をするということが「父母を敬え」の意味です。 

 ですから「神の家族」としての教会という共同体も、神から与えられたというところが基本となります。もちろんまったく選択権がないかどうかといいますと、主イエスの側に来るかどうかという点においては人間側の意思が必要となります。その点において、家の外にいた母や兄弟たちは、主イエスのそばにいませんから、血を分けた家族ではありますが、主イエスからご覧になって神の家族とは言えません。 

 そしてまたここで注意しないといけないことがあります。主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃっています。「御心を行う」とはどういうことでしょうか。私たちはいま、主イエスの言葉を聞いています。聞くだけでなく「行い」なさいとおっしゃっているのです。では、私たちは、奉仕をしたり、隣人に親切にしたり、熱心に毎日祈ったりといったことを熱心に行ってはじめて、主イエスから家族と認められるのでしょうか。そうではありません。 

 今日の聖書箇所で主イエスの話を聞いていた人々は、12弟子を含めて、神の御心を行えなかった人々なのです。弟子たちの中には主イエスを銀貨30枚で売った者もいました。イエスなんて知らないと三回も否定した者もいました。十字架のときには弟子たち全員が主イエスを置いて逃げてしまったのです。弟子たち以外で主イエスの話を聞いている者たちの多くは、病気を癒していただいたら主イエスから去っていきました。ことによるとその中には主イエスが逮捕された時、「十字架につけろ」と叫んだ人すらいるかもしれません。 

 そのことを分かったうえで主イエスはなおおっしゃるのです。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。どうせあなたたちは御心は行えないだろうと意地悪でおっしゃっているのではありません。あなたたちは御心を行う人になっていくのだとおっしゃっているのです。今は、ただただ、自分の病を癒してほしいと思っているだけかもしれない。悩みを聞いて欲しいだけかもしれない。自分が理想とするイスラエルを建設したいと思っているだけかもしれない。そして、これから、いくたびも罪を犯し、神を悲しませ、隣人を苦しめ、自分自身も苦しむかもしれない。そんな一人一人を主イエスは「見回して言われた」のです。そこにいる一人一人を見回して、慈しんでおっしゃったのです。すでにあなたたちは私の家族である、と。 

 神の言葉は、発されたときに実現します。光あれとおっしゃったとき光があったように、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と主イエスがおっしゃったとき、そこに主イエスの兄弟、姉妹、母が起こるのです。そしてまた御心を行う人々が起こされるのです。いまは罪の底に沈んでいても、神の御心ができなくても、キリストの言葉を聞いている今このときから、あなたたちは御心を行うことができる人とされていくのだとおっしゃっているのです。いえ、神の御心の第一は、その言葉を聞くことです。ですから、今、主イエスの言葉を聞いている者はすでにみなキリストの家族とされているのです。そして主イエスの言葉を聞く者は変えられていくのです。神が変えてくださるのです。御言葉を聞き続けましょう。そして御言葉をますます行う者に変えられていきましょう。その時、教会もキリストの家族として成長していきます。私たちは一人で成長していくのではないのです。家族と共に成長をしていくのです。教会という神の家族の中で成長していきます。家族ですから、喧嘩もします。その喧嘩は、他人なら自制できることでも、つい言い過ぎたり余計傷つけ合うこともあるかもしれません。しかしその中で私たちは学んでいくのです。愛を学んでいきます。そんな私たちを見まわして主イエスは喜び慈しんでくださいます。