大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書 5章19~30節

2018-08-07 11:52:19 | ヨハネによる福音書

2018年7月8日 大阪東教会主日礼拝説教 「今やその時」吉浦玲子

 

<権威とは?>

 

 聖書は秩序を重んじます。天地創造において、神は混沌ではなく秩序を造られたからです。夜と昼を分け、海と陸地を分けられました。その秩序の中に、この世の社会の制度もあり、また権威も置かれています。この世界の制度も権威も、一見、神やキリスト教とは関係のないところで決定されているように感じるものでも、その背後には神の働きがあると考えます。ですから、主イエスの時代、イスラエルはローマ帝国に支配され、イスラエルの人々は苦しんでいましたが、そのローマの支配を排除するような反ローマ的な働きを主イエスはなさいませんでした。たとえば<皇帝のものは皇帝に返せ>とおっしゃり、ローマへの税金も納められました。のちの伝道者パウロもこの世の権威には従いなさいと勧めました。もちろんこの世のすべての権威が正しいわけではありません。いやむしろ古今東西、権威というものは独裁や暴走ということと離れがたくあったことのほうが多かったのは、皆さんよくよくご存知でしょう。第二次世界大戦の時のボンヘッファーのように、ヒトラーと戦った牧師もいます。しかし、ボンヘッファーのあり方が本当に聖書的に正しいあり方であったのかは賛否が分かれます。このように個別のことがらにおいては判断が難しいところがありますが、大原則としては、聖書はこの世界の秩序、権威に従うべきことを示しています。

 

 今日の新共同訳聖書の見出しには「御子の権威」と書かれています。権威とはそもそも何でしょうか?辞書には「他を支配し服従させる力」と書かれています。その力の源は、身分であったり、所属する組織であったり、その人の能力であったりします。「御子の権威」と聞く時、神の御子であるイエス・キリストに権威があるということに関して、違和感を持つ人はおられないでしょう。父なる神に由来する権威がある、それは当然のことのように感じられます。神の御子であるキリスト、身分として考えても十分すぎる権威があります。さらに、御子ご自身、主イエスご自身、多くの素晴らしい業をなさる力をお持ちでした。主イエスは多くの奇跡-ヨハネによる福音書では「しるし」と表現されている奇跡を行われました。病を癒され、悪霊を追い出し、嵐を鎮められ、時として死んだ人を生き返らせることすらされました。世俗的な言葉で言えば、スーパーマンのような力をお持ちでした。ですからその能力においても権威の根拠はたしかにありました。

 

<キリストは一人では何もできない?>

 

 しかし、主イエスご自身が今日の聖書箇所でお語りになっている言葉には驚かされます。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もその通りにする。」イエス様は自分からは何事もできないとおっしゃっているのです。また今日の聖書箇所の最後のところでも「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」これは主イエスの謙遜でしょうか?そうではありません。父なる神と子なる神であるキリストが、それぞれ別の力を持っているわけではないというを示しています。父なる神の力と独立した子なる神の力があるわけではないということです。この世の父と息子はどのように似た親子であっても、また息子の力が親譲りと見える力であっても、それぞれの力は独立しています。しかし、父なる神とその御子における力は独立していないのです。父なる神の力はそのままキリストにおいて働くということです。父なる神とは別の力があるわけではないということです。少し付け加えれば、三位一体といわれるキリスト教の神学的な考え方は、父・子・聖霊という三人の神様が独立しておられるということではないのです。あくまでもただお一人の神様の力の働き方が人間からみて違って見えるように働くということです。御子の権威ということであれば、それはキリストの力は、そのまま父なる神の力であるから、そこに権威があるということになるのです。

 

 そしてまた主イエスの時代、多くの人が主イエスを受け入れられなかったことの原因がまさに御子の権威が父なる神に由来するものだという点にあります。主イエスが個人的な能力で素晴らしいことをなさったのなら人々は受け入れられたのです。あるいは旧約聖書時代の預言者のように、神から言葉を委託されて伝えたり、あくまでも人間でありながら、時に神から力を与えられて発揮するというのならまだ理解はできたのです。

 

 しかし、キリストの力は違いました。それは神そのものの力だったのです。今日の聖書箇所の少し前の部分にこう書いてあります。「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスは安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである」

 

 神と等しい者として、神の力をそのまま発揮されたゆえにキリストは理解されず迫害を受けることになったのです。

 

<命とは>

 

 そしてまたその力の本質とは何でしょうか?神の力の本質とは何でしょうか?人間を抑え込み支配する力でしょうか?今日の聖書箇所にはこう書いてあります。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」

 

 命という言葉はヨハネによる福音書において良く出てくる重要な言葉です。1章の「初めに言があった」につづく最初の段落に「言の内に命があった」という言葉があります。言はキリストのことでした。そのキリストの内に命があった、というのです。そしてその命は神の命でもあります。神はキリストを通して、子なる神を通してその命を人間に与えられるというのです。

 

 命の反対は死です。そもそも聖書は、端的に言って、命と死について書いてあるといってもいいでしょう。<良い生き方の勧め>といったような、「ためになる言葉」が書かれているわけではありません。生きることと死ぬことに関わることが書いてあるのです。神は命と死をご支配されているのですから、それは当然であると言えます。創世記の2章には、人間は神の息を鼻から吹き入れられて生きる者となったとあります。その息が取り去られれば死ぬのです。しかし、本来、神から命を与えられたはずの人間は、そのことを普段は意識をしません。しかし、人間は神を意識しようがしまいが、多くの人は自分の死んだ後も何かを残したいと思います。それは死で自分の存在のすべてが終わりになることを恐れる気持ちがあるからといえます。自分自身がなにか残せなくても子供や子孫やあるいは地上で出会った人たちを通じて何かを残したいと思います。私自身、短歌を作っていました頃、歌人としての自分自身の名前は残らなくてもいいので、読み人知らずの短歌として、自分の短歌が1首だけでも100年200年と残ってほしいと願っていました。短歌は日本の文学としては長い命を持っています。1300年前の作品が残っています。しかし、世界を見まわしますと、もっともっと長く読み継がれてきている文学作品はあります。しかし、どんなに息の長い芸術作品を残したとしても、その作者の命はやはり永遠ではないのです。作品と作者は別のものなのです。

 

 しかし一方で、人間がほんとうに神から与えられた命に生きるとき、たとえ地上に何も残せなかったとしても、その命は永遠に輝きます。この地球という星の上で、数年から数十年、あるいは100年以上生きて、肉体的には滅びます。さらにそこから数十年たてば誰からもその人が生きていたことがほとんどの人の場合は記憶されていない。そのようなごくごく普通の人生であっても、その命は輝くのです。永遠に輝くのです。

 

 私たちはこの地上での命を終えた人を送る葬儀の時に、「また会う日まで」と讃美歌で歌います。天国であいましょうと言います。それは単なる気休めでしょうか?悲しみを紛らわせるための方便でしょうか?そうではないのです。たしかに私たちはまた会うのです。キリストがふたたび来られる時、私たちはまた会うのです。永遠の命に生きるのです。古代から、どこの国でも天国とか極楽などと、死後の世界をいいます。それは死を恐れた人間の造り出した妄想でしょうか?聖書はそうではないと語っているのです。今日、最初に読んでいただいたコヘレトの言葉にあるように、人間には永遠を思う心が与えられています。神によって与えられています。神から息を与えられた、また神の似姿として造られた人間だからこそ、永遠を思うのです。だから聖書を知らない人々でも、死後のことを考えたのです。しかし、本当の永遠とは神と共に生きるということです。神と共に肉体的な死では終わらない命に生きるということです。

 

 命の反対は死であると言いました。永遠の命ではなく、滅んでいく死もあります。それは裁きの死です。罪の裁きによる死です。肉体的な死を越えた、永遠の死と言っても良いでしょう。裁かれた人間は二度死ぬのです。肉体の死と裁きの死です。ヨハネによる黙示録21章には「第二の死」として記されています。

 

 今日の聖書箇所の24節には「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」とあります。

 

 この裁きは御子に委ねられています。つまり御子の権威、力ということを語りながらその権威の最大のものは、裁きにおける権威であるということです。

 

<今やその時>

 

 では、私たちはその裁きの日を怯えながら生きるのでしょうか?あるいはもうすでに信仰告白をして救われているのだから、つまり裁きを免れているのだから自由に何をしてもいいと考えるのでしょうか?

 

 「はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

 

 先週、23年前大量殺人事件を起こした宗教団体の指導者たちが死刑執行されました。先進国と呼ばれる国で死刑が執行されるのは世界的には数少なく、死刑に対しては批判もあるようですが、あの宗教団体が、人々をマインドコントロールするのに使ったことのひとつは、<裁きへの恐怖>でした。裁きというのが未来のどこかにあるのなら、たしかにそれは恐るべきことです。

 

 もちろん聖書においても、終わりの日に最後の裁きの時はあると記されています。しかしまた一方で、キリスト、つまり裁きの支配者であるキリストが来られた時に、すでに裁きは始まっています。「裁きを行う権能を子にお与えになった」とあります。その裁きの時は、「今やその時」なのです。命か死か、その裁きは今や始まっているのです。私たちは今、決断するのです。キリストを信じるのか、神の御子を敬うのか。<いつかそのうち>ではないのです。いま御言葉を聞き、いま信じて生きる時、私たちは命に生かされます。いま御言葉を聞かず、信じることなく歩むとき、それは死へと渡される歩みです。

 

 しかしそれは毎日毎日を緊張しながら歩む歩みではありません。たしかに裁きの権能を与えられた権威ある御子が来られました。しかし、そもそもなぜ御子は来られたのでしょうか。なぜ父なる神は御子をこの世界にお遣わしになったのでしょうか?「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と三章にあったように、父なる神はその愛のゆえに、御子を遣わされました。御子がこの世界で「この人は合格」「この人は不合格」と採点をして、命か死を判定するためではありませんでした。「御子を信じる者が一人も滅びないように」でした。

 

 つまり御子は救うために来られたのです。救うために、そしてそのために十字架におかかりになるために来られたのでした。そして実際に御子を信じる者が一人も滅びないように十字架におかかりになりました。十字架は神の裁きでした。すでに神の裁きは終わったのです。ですから私たちは怯える必要はないのです。怯えることなく信じるのです。キリストを信じるのです。一度信じたからもういい、ということではありません。日々信じて生きていくのです。今この時、キリストを信じ、今この時、永遠の命の輝きを先取りして、輝かされて生きていくのです。


ヨハネによる福音書 5章1~18節

2018-08-07 11:30:22 | ヨハネによる福音書

2018年7月1日 大阪東教会主日礼拝説教 起き上がり、歩きなさい吉浦玲子

 

<ほんとうの苦しみは何か>

 

 主イエスは地上でのご生涯において、多くの病人を癒されました。そのことを思う時、主イエスはスーパードクターであったといえなくはありません。聖書に詳しく記述されている癒し以外にも、その生涯において多くの人々を癒され、そこにはそれぞれ個別の物語があったと思われます。しかしその癒しは、マンツーマンで行われたようです。これは不思議なことです。神の力をもってすれば、たとえば、主イエスの周りに集まった半径100メートル以内の人々をいっせいに瞬時に癒す、などということだっておできになったはずです。しかし、主イエスは、一人一人と話をされ、一人一人に固有なやり方で癒されました。たとえば、聖書には生まれつき目の見えない人を癒す物語が多く出てまいりますが、ある人には主イエスは土をこねて目に塗って池にいって洗いなさいとおっしゃいました。その通りにその人が池にいくとその人は目が見えるようになりました。またある盲人には言葉でだけ「見えるようになれ」と主イエスはおっしゃり、癒されました。

 

 一人一人異なるやり方で、主イエスは癒されました。十把一絡げで癒されたわけではありませんでした。それは、一人一人とキリストは出会い、肉体の病の癒しを越えた、ほんとうの癒しをなさろうとされたからです。肉体の病よりもっと重い病、人間にとって致命的なもっとも酷い病、それは罪という病です。そのもっともタチの悪い病、重篤な病、死に至る病である罪という病を主イエスは癒そうとされたのです。その癒しのために、主イエスは、十羽一絡げで癒されるのではなく、一人一人と出会われました。

 

 そして今日の聖書箇所に出てくる38年も病気であった人とも出会われました。ベトザダの池というのは有名な池でした。この池にはいいつたえがありました。迷信と言ってもいいでしょう。主の御使いがときどき水の上に下りてくるという言い伝えでした。御使いが水の上に下りる時、水が動く、その水が動いた時、まっさきに池に入った人が病を癒されるという言い伝えがあったのです。ですから、その池の周りには病の人が大勢横たわっていたのです。そのような迷信にすがるしかないような病の人々が横たわっていました。そこには貧しくて医者にかかることができない人もいたかもしれません。また医者にはかかれたけれど匙を投げられてしまった病人もいたかもしれません。いずれにせよ、苦しみに満ちた光景がそこにはありました。そのようななかに、38年間病だった人もいたのです。水が動く時、一番に水に入って癒されようとしていたのです。

 

 主イエスは「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」とあります。38年も病気の人に対して、「良くなりたいか?」とお聞きになるなんて、とんでもないことのように感じられます。常識的に考えるとデリカシーのかけらもないような言葉のようです。しかし、なぜ主イエスがその質問をされたかということが次の男性の答えでわかります。「主よ、水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 

 「良くなりたいか」その言葉に対して、「当り前じゃないですか」という言葉ではなく違う言葉をこの人は返しました。「こことここが痛いのです」とか「もうずっと脚が動かないのです」「医者にも見放されたのです」という困窮を訴える言葉でもないのです。「水が動くとき、自分を池まで連れて行ってくれる人がいない」とその人は言うのです。つまりその人にとって、誰からも顧みられないということがもっとも大きな苦しみだったのだということがここでわかります。長く病んでいても、かたわらに心配してくれる家族がいたり、助けてくれる人がいる、そこにはまだいくばくかの希望があります。しかし、この38年間病の中にある人は、肉体の病以上に深い絶望を抱えていたのです。

 

 この男性は、病の最初のころから一人ぼっちだったのでしょうか?最初は家族がいたけれどあまりにも長く病にあって、治る見込みもなかったので、だんだんとこの人の周りから人が去って行ったのでしょうか。あるいは家族や周囲の人と離れざるを得ない不幸な経緯があったのでしょうか。それはわかりません。しかし、おそらくかなり長い期間、この人はただ一人で池のそばに横たわっていたのでしょう。誰からも顧みられることのない生活をしていたのでしょう。そしてまた神の御使いが降りて来る時、池までたどり着けない、そんな自分は、神からも見放された存在であると感じていたかもしれません。自力で池にたどり着ける人の姿や、だれかに抱えてもらって池にたどり着く人の姿をこの人は繰り返しこれまで見てきて、そのたびに悔しい思いをし、やがてその悔しささえ枯れ果てたような心になっていたでしょう。この男性は、生きていながら、すでにこの世界から死んだも同然の扱いを受けていると感じていたでしょう。神からも人からも見捨てられていると感じていたのです。

 

 「良くなりたいか?」その問いに、「もちろん良くなりたいです。」と答えることのできない、深い深い闇をこの人は持っていたのです。そこにこそ、この人の苦しみがありました。

 

<起き上がりなさい>

 

 その人に主イエスはおっしゃいます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」これも普通に考えたらむちゃくちゃな言葉です。彼は起き上がれないから横たわっていたのです。好きで横たわっていたのではないのです。しかしまた、一方で、この男性は、病になった最初のころは、起き上がりたいと願っていたかもしれませんが、おそらくもう起き上がることを諦めていたでしょう。もう何年も何年も横たわったままで、起き上がることを願うこともできなくなっていたでしょう。ただ自分を池まで連れて行ってくれる誰もいない、そのことだけを悲しみ、憤り、絶望していました。しかし主イエスはおっしゃるのです。誰かに抱えられるのではなく、自分の足で起き上がりなさい、と。誰も自分を池まで連れて行ってくれない、それだけを思いつめていた人に、「あなたはもうすでに自分で起き上がれるのだ」と主イエスは語られるのです。あなたはすでに起き上がることができる、なぜなら、キリストであるわたしが来たのだから。救い主であるわたしが来たのだから。

 

 イザヤ書9章に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」とあります。クリスマスの時に良く読まれる御言葉です。光の当たらない土地、陰の地、ただの陰ではない、死の陰の地に住んでいた人々に光がさした、キリストの降誕とはそういう出来事でした。まさに生きながら死の陰の地に住んでいたこの男性にも光が輝きました。心も魂も死んでいた男性、ベトザダの池という死の陰の地に死んでいた男に主イエスの光がさしたのです。この男は、「起き上がりなさい」と言われ、「そんなことできるわけがないではないか」と答えたりはしませんでした。主イエスの言葉を聞いて、起き上がってみたのです。それはあまり深く考えての行動ではなく、とっさのものであったかもしれません。しかし、男性は主イエスの言葉を聞いてその言葉に従って行ってみたのです。そこに男性の小さな小さな信仰がありました。主イエスの言葉を信じて起き上がってみた、そうしたら起き上がれたのです。しかも、よろよろとではなく、床まで担いで歩くことができたのです。

 

 床は、この男性の世界のすべてでした。彼がすがっていた世界のすべてでした。この男性は床に横たわり、そこから池だけを見つめて日々を過ごしていました。しかしキリストが来られた今、これまで世界のすべてであると思っていた床を自ら担いで歩み出したのです。だれかに抱えてもらいたいと願っていた男性は、自分自身で、それまでの日々のすべてであった床を担ぐことができるようになりました。自由を得たのです。力を得たのです。主イエスの言葉によって、その言葉を信じてたちあがったゆえに、彼は自由を得ました。

 

 床というこれまで自分が依存していたものを担げるようになったのです。主イエスの言葉を聞き信じる時、わたしたちも担げるようになるのです。それまで自分の手ではどうにもならないと思っていたことがどうにかなるようになるのです。人生の中で自分の手ではどうにもならないと思っていたことがキリストの言葉に従って歩むとき、動いて行くのです。自分が変えられるからです。キリストによって自分自身が変えられたから、周りも変わって行くのです。重たいと思っていたことを軽々と担げるようになるのです。キリストの言葉を信じて一歩を踏み出したからです。

 

 その歩み出した人に主イエスは今日の聖書箇所の後半の部分14節でおっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」最初に主イエスは最も重い病である罪と言う病を癒されたとお話ししました。主イエスは、体の病だけではない、その人の根幹にあった罪と言う病を癒されました。しかし、14節だけを読むとすこし違和感もあります。起き上がりなさいと主イエスが男性に言われたことと罪の問題がストレートには結びつかないようにも感じます。そしてまた無理に結びつけると、肉体の病が罪のゆえに起こったとも解釈されかねません。当然ながら、風邪も脳卒中も癌も罪のゆえに起こるということではありません。しかしまた、一方で人間のすべての苦しみの根源には罪の問題が深く横たわっていることも事実です。実際に、38年間病であった男性の苦しみの根源は肉体の病以上に「誰にも顧みられていない」という思いがあったのです。本来は、創造主なる神と共に歩むはずの人間が罪のゆえに神から隔たっている、神から隔たっている人間は、隣り人とも豊かに交わることができません。神から隔たっている人間は、本当のところは、人間からも隔たっているのです。38年間病であった男性が、自分は誰からも顧みられていないと感じた思いの根源にあるのは、神からの隔たりでした。神から隔たっていること自体が罪でした。しかしもう男性はキリストと出会い、神から顧みられていることを知りました。

 

<本当の癒し>

 

 しかし、今日の聖書箇所は男が癒されて、めでたしめでたしと終わるのではありません。「その日は安息日であった」という言葉から続く10節以下のユダヤ人たちの対応の記事に移ります。癒された男が床を担いで歩いていたら、床を担ぐことは安息日には許されていないととがめられます。他の福音書でも安息日に関して主イエスとユダヤの人々の対立が多く記されています。安息日は十戒にも記されている重要な戒めです。安息日は、仕事を休み、神を礼拝する日でした。しかしそれは本来は、人間が神に立ち返るための恵みの戒めでありました。それが主イエスの時代には、本来の律法に加えて細かい<××をしてはいけない>というおびただしい禁止事項を並べたものになりました。本来は神を讃え神の業を喜ぶべき日が、人間を縛る規則の塊となっていました。病が癒されて、男が担いだ床は、男性にとって喜びの象徴でした。癒してくださったキリストを讃える行為でもありました。しかし、人々は、それを行ってはいけないというのです。神から与えられた喜びが、人間が勝手に作った規則によって冷や水を浴びせられるようなことになったのです。

 

 聖書の前の箇所に戻りますが、そもそもベトザダの池には五つの回廊があったと2節に書かれています。これはモーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をあらわしていると解釈されます。つまり律法を象徴しているのです。

 

 その律法を象徴する回廊に多くの病の人が横たわっていたのです。そして、この箇所で象徴的に語られているのは<律法では人は癒されない>ということです。律法が不要だというのではありません。律法は人間の罪をあぶりだすものです。律法のゆえに人間は罪を知らされます。しかし、その罪からの救いは律法ではなしえないのです。律法を象徴する回廊で迷信を信じて人々は横たわり、そしてまた、救われた人へ「今日は安息日」だという冷酷な言葉を投げかけるのが、神から離れた人間の姿です。

 

 そんな人間に主イエスはおっしゃるのです。「良くなりたいか」と。回廊で迷信を信じて横たわっている人々は愚かに見えます。しかしまたわたしたちも罪を知らずに生きている時、愚かなのです。罪にまみれながら自分は健康であると思っています。迷信なんか信じていない、律法になんて縛られていないと思うのです。本当は罪と言う病から癒して頂かなくてはいけないのに、それがわかっていないのです。多少、調子が悪いと思っていても自分の力で池まで歩いて行ける、そう思っています。実際には自分の力では罪をどうすることもできないのです。そんなわたしたちに主イエスは語りかけてくださいます。「良くなりたいか?」と。わたしたちは自分が良くないことをキリストの言葉によって知らされます。聖霊によって病を理解します。そして良くして頂くのです。ただキリストの言葉を聞き信じるのです。そのときわたしたちはまことに健やかにたちあがることができるのです。自分の抱えていたものを軽々と持ち上げて歩むことができるのです。