ずいぶん間が開いてしまいましたが、このブログの続き。
升田さんとの会話
一夜明けて対局日の2月18日。朝、木村名人と会った。「升田さん、こっちに泊まってるの?」と聞く。私は返事に困った。再び升田さんのところへ行った。午前7時頃です。対局開始は午前10時の予定だった。
升田さんは割合、早く出て来た。酒の匂いがした。前夜、升田さんはかなり飲んでいた。私は、もしかしたら出て来ないかもしれないと思っていた。だが、これは副立会人としての自分の役目だ。出て来なければ出て来ないで、行ったけど出て来ませんでしたが、ひとつの理由になる。升田さんは頭の中で相当心配し、神経を使ったと思う。私を待たせる時間が短かった。
私は、「規則ですから対局に来てください」と言った。升田さんは、「俺の言っていることを君がうんと言わない限り将棋は指さない」と答えた。
升田「君が心配して来るから指してもいいけど、3手目に投げていいか?」
丸田「対局が始まれば投了は対局者の自由意志です。投げたいのなら投げればどうぞ。周りの者は止めることが出来ません」
升田「そういう台詞じゃいやだ。君がいいって言わなきゃだめだ」
こういう会話があった。升田さんは対局はするが3手で投げることを了承しろと言い、私も了承した。投げてはいけないとは一言も言わなかった。結局、升田さんは、将棋を指さなかった。世に言うところの、“陣屋事件”です。
30分ほど升田さんと話をして、“陣屋”に戻った。関係者に報告をした。村松さんが車に電話を入れた。「将棋を指さないということは対局の放棄だね」
「そういうことになります」
そんな言葉が聞かれた。
木村名人は平然としていたけど、香落の下手を指さなくて済み、ほっとしたのではないですか。後日開かれた理事会で、「向こう1年間、全対局に升田八段の出場を停止す」と処分が下されたが升田さんへの同情論も強く、ついには渡辺会長以下、理事の加藤治郎八段(名誉九段)、大山九段、北楯修哉八段(九段)、山本武雄七段(九段)、上田三三(さんぞう)六段(七段)、丸田が全員、辞表を出すことになった。しかし木村名人の「升田不問、理事会の辞表不受理」という英断で、“陣屋事件”は決着を見た。
毎日新聞社は当初怒ったが、事件のおかげで王将戦が有名になった。日本全国に知れわたった。相当プラスになったと思います。アマの人たちも王将戦という言葉を気に入って、名人戦よりも多いくらいになった。
なお木村―升田の七番勝負は最終局まで指され、升田さんが5勝2敗で勝って王将位を奪取。旅館“陣屋”は、この事件のあと、客が来るとドドーンと大太鼓を打ち鳴らすようになった。
おわりに
丸田九段は長野県で生まれ、東京の下町、浅草で育った。話していると、「おっ、うまいこと言うねえ」とか、「と、こうきたね」とか。いきな江戸っ子言葉が出る。その語り口がひとつのリズムを作り、聞く者の心を酔わせる。今回の特別編は、そんな気持ちの良いロングインタビューだった。
苦労した青少年期。いまなおベールに包まれた陣屋事件。これまで封印されていた謎が、当事者によってついに語られた。その意味は大きい。
丸田九段は将棋連盟の最高頭脳である。それは語られている数々のエピソードで分かる。思い出の棋譜の山田戦(割愛)には、将棋の才能とともに九段の明晰ぶりが随所に表れている。表紙は天才写真家の呼び声高い丸田祥三氏。親子共演である。木屋太二(インタビュー=平成17年6月14日 神奈川県・秦野市「陣屋」にて)
升田九段というのは実に繊細で、気の小さいところがあったのか、と思わせるエピソード。「君が3手目に投げるって認めてくれなきゃ嫌だ」といった言葉に対し、「どうぞ」と丸田九段が返したらどうなったのか。丸田九段は官僚として生きれば最高級だった(河口老師評)そうなので、まあ、それもわかって升田九段は駄々をこねたのだろう。知ってしまえばなんとも他愛のない事件であるが、将棋史的には超一級品の資料である。
ところで、将棋ペンクラブ関東交流会では、棋士直筆の色紙や棋書を持ち帰ることができる。1日将棋指して、棋士の指導対局受けられて、宴会まであって、その上に色紙か棋書のお土産までついて3,000円はありがたすぎる。2次会も同じくらいで、長野からの往復新幹線代の方が高いなんて…。素晴らしすぎるイベントです!
話を戻すがその色紙や棋書、その日の対局の勝利数が多い順に選ぶことができる。最高は6勝、ひげめがねは3勝だったので、まあ真ん中くらい。
にもかかわらず、渡辺先生の色紙が4勝の人が取り終わった時点でまだ残っていた!!ひげめがねの妻は、『将棋の渡辺くん』のおかげで渡辺先生大好き。家庭円満のためにもあの色紙を持って帰らねば!!
「では3勝の人」とペンクラブ幹事の方に名前を呼ばれた瞬間ダッシュ(気持ちの中では)したが、目の前で獲られたあ~~。
仕方なくほかの色紙や棋書を吟味していた。どうしても決められない。
そこに升田先生の『勝負』が。かなり迷ったが、それを選択し、ページをめくりながら席に戻ろうとしたところ…
表紙をめくると…
あっ!!
升田九段の書は「強がりが雪に転んで廻り見る」を写真でしか見たことがないが、これは本物なのか?
アカシア書店の星野さんが通りかかったのでお聴きしてみると、うなずかれた!本物ってことで良いですか??
もし不慮の事故でひげめがねが死んだら普通に処分されてしまう可能性があるので、その際は妻にご確認ください(笑)。
升田さんとの会話
一夜明けて対局日の2月18日。朝、木村名人と会った。「升田さん、こっちに泊まってるの?」と聞く。私は返事に困った。再び升田さんのところへ行った。午前7時頃です。対局開始は午前10時の予定だった。
升田さんは割合、早く出て来た。酒の匂いがした。前夜、升田さんはかなり飲んでいた。私は、もしかしたら出て来ないかもしれないと思っていた。だが、これは副立会人としての自分の役目だ。出て来なければ出て来ないで、行ったけど出て来ませんでしたが、ひとつの理由になる。升田さんは頭の中で相当心配し、神経を使ったと思う。私を待たせる時間が短かった。
私は、「規則ですから対局に来てください」と言った。升田さんは、「俺の言っていることを君がうんと言わない限り将棋は指さない」と答えた。
升田「君が心配して来るから指してもいいけど、3手目に投げていいか?」
丸田「対局が始まれば投了は対局者の自由意志です。投げたいのなら投げればどうぞ。周りの者は止めることが出来ません」
升田「そういう台詞じゃいやだ。君がいいって言わなきゃだめだ」
こういう会話があった。升田さんは対局はするが3手で投げることを了承しろと言い、私も了承した。投げてはいけないとは一言も言わなかった。結局、升田さんは、将棋を指さなかった。世に言うところの、“陣屋事件”です。
30分ほど升田さんと話をして、“陣屋”に戻った。関係者に報告をした。村松さんが車に電話を入れた。「将棋を指さないということは対局の放棄だね」
「そういうことになります」
そんな言葉が聞かれた。
木村名人は平然としていたけど、香落の下手を指さなくて済み、ほっとしたのではないですか。後日開かれた理事会で、「向こう1年間、全対局に升田八段の出場を停止す」と処分が下されたが升田さんへの同情論も強く、ついには渡辺会長以下、理事の加藤治郎八段(名誉九段)、大山九段、北楯修哉八段(九段)、山本武雄七段(九段)、上田三三(さんぞう)六段(七段)、丸田が全員、辞表を出すことになった。しかし木村名人の「升田不問、理事会の辞表不受理」という英断で、“陣屋事件”は決着を見た。
毎日新聞社は当初怒ったが、事件のおかげで王将戦が有名になった。日本全国に知れわたった。相当プラスになったと思います。アマの人たちも王将戦という言葉を気に入って、名人戦よりも多いくらいになった。
なお木村―升田の七番勝負は最終局まで指され、升田さんが5勝2敗で勝って王将位を奪取。旅館“陣屋”は、この事件のあと、客が来るとドドーンと大太鼓を打ち鳴らすようになった。
おわりに
丸田九段は長野県で生まれ、東京の下町、浅草で育った。話していると、「おっ、うまいこと言うねえ」とか、「と、こうきたね」とか。いきな江戸っ子言葉が出る。その語り口がひとつのリズムを作り、聞く者の心を酔わせる。今回の特別編は、そんな気持ちの良いロングインタビューだった。
苦労した青少年期。いまなおベールに包まれた陣屋事件。これまで封印されていた謎が、当事者によってついに語られた。その意味は大きい。
丸田九段は将棋連盟の最高頭脳である。それは語られている数々のエピソードで分かる。思い出の棋譜の山田戦(割愛)には、将棋の才能とともに九段の明晰ぶりが随所に表れている。表紙は天才写真家の呼び声高い丸田祥三氏。親子共演である。木屋太二(インタビュー=平成17年6月14日 神奈川県・秦野市「陣屋」にて)
升田九段というのは実に繊細で、気の小さいところがあったのか、と思わせるエピソード。「君が3手目に投げるって認めてくれなきゃ嫌だ」といった言葉に対し、「どうぞ」と丸田九段が返したらどうなったのか。丸田九段は官僚として生きれば最高級だった(河口老師評)そうなので、まあ、それもわかって升田九段は駄々をこねたのだろう。知ってしまえばなんとも他愛のない事件であるが、将棋史的には超一級品の資料である。
ところで、将棋ペンクラブ関東交流会では、棋士直筆の色紙や棋書を持ち帰ることができる。1日将棋指して、棋士の指導対局受けられて、宴会まであって、その上に色紙か棋書のお土産までついて3,000円はありがたすぎる。2次会も同じくらいで、長野からの往復新幹線代の方が高いなんて…。素晴らしすぎるイベントです!
話を戻すがその色紙や棋書、その日の対局の勝利数が多い順に選ぶことができる。最高は6勝、ひげめがねは3勝だったので、まあ真ん中くらい。
にもかかわらず、渡辺先生の色紙が4勝の人が取り終わった時点でまだ残っていた!!ひげめがねの妻は、『将棋の渡辺くん』のおかげで渡辺先生大好き。家庭円満のためにもあの色紙を持って帰らねば!!
「では3勝の人」とペンクラブ幹事の方に名前を呼ばれた瞬間ダッシュ(気持ちの中では)したが、目の前で獲られたあ~~。
仕方なくほかの色紙や棋書を吟味していた。どうしても決められない。
そこに升田先生の『勝負』が。かなり迷ったが、それを選択し、ページをめくりながら席に戻ろうとしたところ…
表紙をめくると…
あっ!!
升田九段の書は「強がりが雪に転んで廻り見る」を写真でしか見たことがないが、これは本物なのか?
アカシア書店の星野さんが通りかかったのでお聴きしてみると、うなずかれた!本物ってことで良いですか??
もし不慮の事故でひげめがねが死んだら普通に処分されてしまう可能性があるので、その際は妻にご確認ください(笑)。