林業周辺の仕事をしてきた夫と一緒に、原作を読んでから“神去なあなあ日常-WOOD JOB!”観てきました。
悪くない映画だけど、原作のほうが面白い。
以下に勝手に書くあれこれは、ネタバレになるかと思うので、新鮮な気持ちで映画を見たい方は読まないでください。
カマキリの赤ちゃん、生まれて初めてのピクニック。
一番感じたのは夫が「森の(山の)おごそかさが出てない」と言ったとおり、
映画化に一番期待した山の魅力を伝える映像がなかったことです。
それさえあれば大抵のことはOKだったと思うのですが。
古い話、川端康成原作の“古都”が何度も映画化されて、私は山口百恵ので観たのですが、
凛凛と並ぶ北山杉の林がそれはそれは美しく映像化されていて、あれを観て北山にひかれた人は多いはず。
そういう見惚れるショットが一か所もなかった。
春夏秋冬、山里でちょうど一年の時間が流れるのですから、
一年間カメラを担いで山に通い続ければ、心にしみる映像が撮れたはず。
この映画はたぶんそういう作り方はしていない。
重要な登場人物の一人、三十代半ばで細面、日本有数の山持ちである中村清一さん。
原作であれほど魅力的な人物が、映画では普通の中年のおじさんとして登場したのはほんと、ガクー!でしたね。
清一さんの妻祐子さん(原作で「テレビのなかでさえ、めったに見ないほどの美人」)が、
髪ふり乱したヒステリックな田舎の若おばちゃんだったことにも相当がっかり。
美人が必要なところで美人度をケチった映画は取り返しがつかない。
祐子さんの妹の直紀さん役は長澤まさみで美人度はまあいいか、ですが、
最初幽霊だと言われて主人公が本気にしたような雰囲気がない。
これは好みの問題じゃなくて、山里に違和感を感じさせるほどの美人姉妹は
時々現れる赤い着物白い着物を着た山の神の娘たちにイメージ的につながっていると思えるので重要です。
その姉妹の一人を嫁にして、東京育ちの妻を寂しがらせないよう標準語をしゃべっている清一さんは
東京という異界と山里をつなぐ人であり、同時に山里と神の領域という異界をつなぐ人でもある。
この山主夫妻がどこにでもいる俗な存在であると、“山には何かある”と感じさせられない。
中村家の屋敷内の様子も旧家の重みを感じません。
クライマックスの大祭を映画で見たい!という期待も肩すかしでした。
このとおり実写でやったら死人が出るし、CGでやるにもどれだけ費用が掛かることか。
だから縮小するのはやむを得ないとしても、まるで緊張感のないのはいただけない。
禊ぎを済ませた男たちを普段着姿(だったと思います確か)の祐子さんがきーきー叫びながらかき分けたり、
ふだん人の入らない神域に向かう男たちを直紀さんがバイクで蹴散らして追い抜いたり。
(夜の急斜面を苦労して登るのも神事の一部とすれば、バイクで運んでもらった主人公はズルしたことにもなるのでは?)
神様とか大自然とかへの畏敬の念が感じられないんです。
夜が明けてみるとあっけらかんと開けた斜面の下で女たちがワイワイ待っているのが見渡せて運動会のノリ。
この神事で主人公が死にそうな目に合うのもドジのせいで、通過儀礼としての試練を乗り越えたわけではない。
大層なことではなくても、神様を恐れ敬う気持ちがあれば、定められた神事を間違いなくこなすことには
それなりの緊張感が伴うはず。それ、ゼロです。
面白くしようとして全体にバタバタしすぎてかえって集中力を欠きました。
小説と映画は違うので、変更するのは当然として、変更の意図が分からないシーンがたくさんある。
繁ばあちゃんなんか、ただドーンと座らせておけばいいのに、なんで涙声でおろおろさせるんですかね?
百年単位でものを考えるのが当然になっている山里の人々の、落ち着き具合が伝わってこないんです。
あと、直接ストーリーに関係ないけれど、とても気になったのは火の扱いがぞんざいなこと。
ヨキが木の上で煙草に火をつける。杣人たちがやたら煙草を吸う。
河原で火遊びする子供たちを学校の先生(直紀)が叱ると、
ヨキが子供らに注意もせず俺が見てるんだからいいだろうと言い返す。
大祭のシーンでも、男達が手に手に裸火を掲げてたような?(記憶違いか? 原作では十個ばかりの提灯だけ)
「原作にも山火事の怖さは書かれていたが、煙草の火の後始末をどうするかは書いてなかったね」と夫。
携帯灰皿もアリでしょうが、夫によると落ち葉をどけて土を掘って、完全に埋めて帰るんだそうです。
原作つきの映画は、原作が良い!と思い込んでる人が見に来るので、頑張っていても不利ですよね。
おまけに我々夫婦は映画としての面白さ+山や林業をどう扱ってるかという意地の悪~い目で見ている。
以上の感想もそういう見方で書いてるので割り引いて読んでください。
見に行ったのは日曜なんですが、長い文章書くのがしんどくて一日空いてしまいました。
悪くない映画だけど、原作のほうが面白い。
以下に勝手に書くあれこれは、ネタバレになるかと思うので、新鮮な気持ちで映画を見たい方は読まないでください。
カマキリの赤ちゃん、生まれて初めてのピクニック。
一番感じたのは夫が「森の(山の)おごそかさが出てない」と言ったとおり、
映画化に一番期待した山の魅力を伝える映像がなかったことです。
それさえあれば大抵のことはOKだったと思うのですが。
古い話、川端康成原作の“古都”が何度も映画化されて、私は山口百恵ので観たのですが、
凛凛と並ぶ北山杉の林がそれはそれは美しく映像化されていて、あれを観て北山にひかれた人は多いはず。
そういう見惚れるショットが一か所もなかった。
春夏秋冬、山里でちょうど一年の時間が流れるのですから、
一年間カメラを担いで山に通い続ければ、心にしみる映像が撮れたはず。
この映画はたぶんそういう作り方はしていない。
重要な登場人物の一人、三十代半ばで細面、日本有数の山持ちである中村清一さん。
原作であれほど魅力的な人物が、映画では普通の中年のおじさんとして登場したのはほんと、ガクー!でしたね。
清一さんの妻祐子さん(原作で「テレビのなかでさえ、めったに見ないほどの美人」)が、
髪ふり乱したヒステリックな田舎の若おばちゃんだったことにも相当がっかり。
美人が必要なところで美人度をケチった映画は取り返しがつかない。
祐子さんの妹の直紀さん役は長澤まさみで美人度はまあいいか、ですが、
最初幽霊だと言われて主人公が本気にしたような雰囲気がない。
これは好みの問題じゃなくて、山里に違和感を感じさせるほどの美人姉妹は
時々現れる赤い着物白い着物を着た山の神の娘たちにイメージ的につながっていると思えるので重要です。
その姉妹の一人を嫁にして、東京育ちの妻を寂しがらせないよう標準語をしゃべっている清一さんは
東京という異界と山里をつなぐ人であり、同時に山里と神の領域という異界をつなぐ人でもある。
この山主夫妻がどこにでもいる俗な存在であると、“山には何かある”と感じさせられない。
中村家の屋敷内の様子も旧家の重みを感じません。
クライマックスの大祭を映画で見たい!という期待も肩すかしでした。
このとおり実写でやったら死人が出るし、CGでやるにもどれだけ費用が掛かることか。
だから縮小するのはやむを得ないとしても、まるで緊張感のないのはいただけない。
禊ぎを済ませた男たちを普段着姿(だったと思います確か)の祐子さんがきーきー叫びながらかき分けたり、
ふだん人の入らない神域に向かう男たちを直紀さんがバイクで蹴散らして追い抜いたり。
(夜の急斜面を苦労して登るのも神事の一部とすれば、バイクで運んでもらった主人公はズルしたことにもなるのでは?)
神様とか大自然とかへの畏敬の念が感じられないんです。
夜が明けてみるとあっけらかんと開けた斜面の下で女たちがワイワイ待っているのが見渡せて運動会のノリ。
この神事で主人公が死にそうな目に合うのもドジのせいで、通過儀礼としての試練を乗り越えたわけではない。
大層なことではなくても、神様を恐れ敬う気持ちがあれば、定められた神事を間違いなくこなすことには
それなりの緊張感が伴うはず。それ、ゼロです。
面白くしようとして全体にバタバタしすぎてかえって集中力を欠きました。
小説と映画は違うので、変更するのは当然として、変更の意図が分からないシーンがたくさんある。
繁ばあちゃんなんか、ただドーンと座らせておけばいいのに、なんで涙声でおろおろさせるんですかね?
百年単位でものを考えるのが当然になっている山里の人々の、落ち着き具合が伝わってこないんです。
あと、直接ストーリーに関係ないけれど、とても気になったのは火の扱いがぞんざいなこと。
ヨキが木の上で煙草に火をつける。杣人たちがやたら煙草を吸う。
河原で火遊びする子供たちを学校の先生(直紀)が叱ると、
ヨキが子供らに注意もせず俺が見てるんだからいいだろうと言い返す。
大祭のシーンでも、男達が手に手に裸火を掲げてたような?(記憶違いか? 原作では十個ばかりの提灯だけ)
「原作にも山火事の怖さは書かれていたが、煙草の火の後始末をどうするかは書いてなかったね」と夫。
携帯灰皿もアリでしょうが、夫によると落ち葉をどけて土を掘って、完全に埋めて帰るんだそうです。
原作つきの映画は、原作が良い!と思い込んでる人が見に来るので、頑張っていても不利ですよね。
おまけに我々夫婦は映画としての面白さ+山や林業をどう扱ってるかという意地の悪~い目で見ている。
以上の感想もそういう見方で書いてるので割り引いて読んでください。
見に行ったのは日曜なんですが、長い文章書くのがしんどくて一日空いてしまいました。