日本人は石を「景色」として見るという話(妄想?)を書いたけど、もう一つ雑談を。(いつだって雑談だろw)
石好きの人たちはよく「この子」「お迎えした」「お嫁に行った」などと言います。
まあジャーゴン(特定集団内語彙)とも言えますけど、あながちそうとばかりは言えない。
やっぱり日本人はどこか心の奥底で、石にも魂があると見ているのかもしれない。
よく日本人の宗教性とか神道とは何かとか議論されますけど、そういう時に多くの人が見落としていることがある。
それは「自然霊」という存在。
自然霊という概念は非常に広い。天候も、季節も、山野河海も、石も草木も、全部、「霊的存在」であって、崇拝や畏敬の対象である。竜神は天候や山河を、土公神などは土地を、稲荷大神や宇賀神は米を、各地の山の神は山とその麓の地を、水神は川や泉・井戸を、それぞれ司っている。植物霊・動物霊といった存在もあるけれど、それよりもっと高級で偉大な存在として。
で、神道や修験道・民衆密教はそういう霊的存在と交渉することを主眼としていた。もちろん死霊(人間霊)の慰撫・鎮撫も大事なことですけど、むしろそれより大きな枠割として、こういう大いなる霊的存在との交渉があった。
こういうことは、西洋人や近代の知識人にはなかなかわからない。ある種の盲点になっている。彼らはそれをプリミティブ宗教の特質のように見なし、「愚昧な信仰」とレッテルを貼りたがるでしょうけど、まあそういうものでもない。実はいるし。(おいおいw)
日本人は縄文の昔から今に至るまで、そういう「感覚」を持っていた。これがわからなくては、神道も日本人の宗教的心性もわからない。日本仏教だって「山川草木悉有仏性」なんて言うしね。
まあ、そういう心性からすれば石が「子」であったり、「お迎え」したり「お嫁に出し」たりするのもごく自然なこと。なのでしょう。(日本人の多くはシントウアイトなわけね)
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地球の活動や自然の山野河海を司っている「高級知性的霊的存在」は、まあいます。(ほんとか?) ただし、それは「人霊」や人類の生命活動とは無関係。たまに忖度してくれることもあるようですけど、だいたいはお構いなし。大噴火や大地震が起きて多くの人間が死んでも、「あ、すまん」くらいのもんです。彼ら(複数なのね)は彼らなりの大いなる創造活動があるわけで、それによって地球もそれ自体進化成長を続けている。
石たちは、そういう大いなる地球霊の創造のたまもの。彼らが人間にもわかる美を創ろうとしたかどうかはともかく、石たちの驚異的な姿は地球霊の大いなるイデアの結晶だとも言える。人間やその他の生物の魂とはまったく異なる種類のものだけれど、石にもそういう意味での魂はある。
われらがなすべきことは、そういう創造が語り掛けてくる様々なイデアを受け取ること。そしてそれを自らの魂に刻み込むこと。
地上の物はたとえ石といえども移り過ぎていくもの。人の命もまた同じ。けれど魂に刻み込まれたものはそれを超えて生き続ける。天の世界はそういう宝で溢れている。
まあ妄想と思っていただいても結構ですけど。