ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

紀貫之(きのつらゆき)醍醐天皇陛下が公式な和歌集 古今和歌集の中心責任者の和歌の達人で平安国風文化に貢献

2019年07月05日 | 紀貫之公
紀貫之(きのつらゆき)公
醍醐天皇陛下が公式な和歌集 古今和歌集の中心責任者の和歌の達人で平安国風文化に貢献

868年~945年
9世紀後半。

紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。

紀氏は古くから豪族の家系でしたが、この頃は藤原氏が勢力を伸ばしていたため、紀氏の勢力は衰えていました。


また、当時は遣唐使が廃止され中国の文化より

わが日本の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。


そのような環境で育った紀貫之。

歌人としての才能を発揮し、
宮中で知れ渡るようになります。

二十代のころから宮中の
歌合せ会に参加。

藤原氏に指名されて歌を詠んだことも
ありました。

勅撰和歌集『古今和歌集』を編集する

905年に

醍醐天皇陛下が公式な和歌集

天皇陛下命令の和歌集
勅撰和歌集をつくることになりました。

「万葉集」以後の歌が集めて和歌集が作ろうということです。

紀貫之は醍醐天皇陛下から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。

さらに紀貫之はその中心責任者に選ばれました。

数年後。

紀貫之と他3人で和歌集20巻を
完成させます。

約1100首をおさめた
この和歌集は『古今和歌集』
と名付けられ、天皇の命令で作られた最初の和歌集として有名です。

『古今和歌集』には素朴で詠んだ
国民の歌から、
紀貫之のような貴族の
こまやかな感情を詠んだ歌まで
載せられました。

すべて身分をのせた和歌集は世界でもありません。

紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。

やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける

という言葉で書き始められています。

「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。


さらに
『土佐日記』を記しました。

『古今和歌集』を作ったあとも、
紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。

土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。

都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。

『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立したとして高く評価されます。

紀貫之公は
和歌で古今和歌集で
平安国風文化に貢献した
我が国功労者である。

神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した

2019年07月05日 | 北畠親房公
神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した。

 14世紀南北朝時代の南朝の中心的存在であった公卿・北畠親房公
です。
『神皇正統紀』の著者で有名ですね。
親房公はきちんとした公正な批評眼を持っていました。

『神皇正統紀』は南朝方の正統性を説くべく著された歴史書であり、
しかも、後醍醐天皇陛下の後継である幼帝・後村上天皇陛下のために書かれたもです。

そうならば南朝の正統性、歴代の天皇陛下の御代のすばらしさ一色となり、
武家政権の弱点をつくものとなってもよいはずです。

 しかし、親房はまず、武家政治、武家方の良さをきちんと認めました。
とりわけ後醍醐天皇陛下が倒した鎌倉幕府の第三代執権、北条泰時を公正に評価しています。
泰時が朝廷の意思を尊重することを忘れず、また御成敗式目制定により、法による安定した治世を行ったことを
認めているのです。
そして、北条政権は泰時の「余徳」があってこそ、七代にもわたる徳宗家を維持できたと認めている。

 南朝が倒した武家政権の優れた点を
明確に評価した上で、
北畠親房公は南朝の中心人物でありながら、
天皇陛下方を冷静な目で観察することも怠りませんでした。
それは、後鳥羽上皇が泰時の父・北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱(1221年)に疑問を呈しています。
親房公は、
「頼朝以降の鎌倉幕府には取り立てて失点もなく、人民の暮らしも安定していた。天皇陛下・朝廷方は鎌倉幕府以上の徳政をしくための用意が必要だった」と述べているのです。

 さらに、後醍醐天皇陛下による建武の新政が、わずか二年半で挫折した要因も客観的に分析しています。
新政に貢献した人々も含め、恩賞や人事に関する不公平や不公正を顧みなかった、
そのような天皇政治に対する不満が要因である。
親房は『神皇正統紀』に記しました。つまり、南朝側の不手際の記録さえ書き残し、後の世の教訓としたのです。

 対立者の優れた点は公正に評価し、自身が身を置く側に対しても改めるべきところは、冷静に観察、分析した上ではっきりと指摘していた。

神皇正統紀の北畠親房公は
国民のために考えていた
素晴らしい愛国功労者だったのだ。


土派手の尾張藩主徳川宗春は徳川吉宗将軍の同時期

2019年07月05日 | 徳川宗春
その大名の名は尾張藩主・

徳川宗春(とくがわむねはる)。

宗春は初めて藩主として
領国である尾張名古屋に入る(お国入り)の時の服装からぶブッ飛んでいました。


質素倹約の将軍徳川吉宗のときに

派手なファッションはダメ、芝居や遊郭もダメ、祭りもダメ、ぜいたくな食事もダメ「ぜいたくは敵!」。

それに対して
「質素倹約とか、たわけたことやっとったらいかんがね!」


宗春の信条は、

「政治で大事なのは締め付けじゃなくて愛と勤労と遊び開放」

『温知政要』を、必死な思いで質素倹約に耐えていた将軍・吉宗にも贈呈した。


「ぜいたく禁止」により制限されていた芝居の興行を奨励。

年に1回だった芝居興行を年に100回に爆増させました。

禁止されていた藩士の芝居見物も解禁。

さらに、「風紀が乱れる」として認められていなかった遊郭の営業を公認。

結果、名古屋には3つの遊郭ができました。

さらに、「倹約のため派手な娯楽は控えろ」と幕府が命じていたにもかかわらず、盆踊りなどのお祭りを盛大にやりました。

ある盆踊りに至ってはなんと1カ月半も盆踊りが続けられた。

土派手徳川宗春は幕府の将軍吉宗に怒られて制限されますが、徳川宗春はおもしろい異色の殿様ですね。

おもしろい。