ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

「大和魂(大和心)」とは、神代から続くわれら日本人の精神、われら日本の心のこと

2019年07月23日 | 大和魂と大和心
「大和魂(大和心)」とは、
神代から続くわれら日本人の精神、
われら日本の心の全体像ををさしますね。

 わが国の1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、
すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。

古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。

 聖徳太子国父の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、
これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。

 「大和魂」という言葉が
初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。
主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。
低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。
大学では、唐の学問が教えられた。
唐の学問(漢才)を身につけた上で、
我が国の実情にあうように
応用できる智恵才覚を
「大和魂」という表現で表している。

 「才(学問)をもととしてこそ、
大和魂の世に用ゐらるる方も
強うはべらめ。」
 (学問[=漢才]を基本と
してこそ実務の才
[=大和魂=和魂]が
世間で重んじられるという
ことも確実というものでございましょう)

 明治時代に欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、
以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」
と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。

 源氏物語を書いた清少納言
(966年~1025年) は、
「和魂漢才」こそ大切である
という文脈の中で
「大和魂」という言葉を使っているのである。
唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。

 「大和心」の初出は、
文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。

大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心 である。

われら日本の心こそ大和魂、大和心ですね。


関白太閤豊臣秀吉公はわが国を守り欧州キリスト教から日本女性を守った。

2019年07月23日 | 太閤豊臣秀吉公
関白太閤豊臣秀吉公はキリスト教を禁止することでわが国を守り

キリシタンと欧州の宣教師の手引きによる奴隷として売りさばいていた日本女性を守った。

キリシタンが同胞の日本女性や子供を
奴隷として欧州や印度などに売りさばいていた

悪行を見抜き
キリスト教を禁止
キリシタンを排除追放したのだ。

さまざまな文献資料によっても証明されているから事実です。

いまのわか日本の歴史教科書は秀吉のキリシタン弾圧は教えても、
日本女性が奴隷としてキリシタンたちが海外売りさばいた事は教えないのは
なぜか。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』
の初版にも

『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。

ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。
ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、
もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、
何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

神杜仏閣の破壊

伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害した。
売国奴高山右近と大友宗瞬などキリシタン大名
神杜仏閣の破壊、焼却した最悪である。

ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たということです。

関白太閤豊臣秀吉公はキリスト教を禁止することでわが国を守り
キリシタンと欧州の宣教師の手引きによる奴隷として
売りさばいていた日本女性を守った
大功労者と愛国者だ。

皇紀2679年の伝統国の我ら祖国

聖徳太子大功労者はわが国の中心の礎をつくったみんなから尊敬される国父だ。

2019年07月23日 | 聖徳太子公
聖徳太子大功労者は
わが国の中心の礎をつくった
みんなから尊敬される国父だ。

和をもって貴しとなす」の条文から始まる十七条憲法。
これにて和の精神
日本の和、大きい和、大和精神がはっきりした。

国民から慕われた
皇族の皇太子である聖徳太子である。

この古代の時代で慕われる指導者がいるとはすごいわが国。

当時の中國の隋に対して
送った国書にも
聖徳太子は堂々と外交を展開しました。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

『日出づる処の天子』
『日出づる』日本はこれから発展していく感じですが、
中国は『日没する』でこれから夜になるみたいです」

子供の頃は学校で教わりましたね。
この意味もあります。
でもこれは単に東と西という意味で、
皇帝もそんなに気にしなかったみたいです。

実は皇帝がいちばん
許せなかったのは『天子』
という言葉なのです。」

「日本の天皇陛下と中国の皇帝が同じ偉さになってしまう。
だからそんなこと絶対に許せん
と中国は怒こりました。」

しかし
聖徳太子天皇家摂政は

卑弥呼や邪馬台国と
いった下に見られた名前を
つけられたのを
徹底抵抗して
はっきりと宣言しました。

うちらは独立した国です。
と宣言した。

これがあったからこそ
わが国の独立が始まったのです。

聖徳太子大功労者は
わが国の中心の礎をつくった
みんなから尊敬される国父であります。

皇紀2679年の伝統国の我ら祖国

ひらがなカナカナは世界に誇るわが日本の素晴らしい独自の国文化です。

2019年07月23日 | ひらがなカタカナ
ひらがなカナカナは世界に誇るわが日本の素晴らしい独自の国文化です。

国文学の発達

わが日本では
長らく中国からもたらされた
漢字が使われていました。

わが日本が生み出した漢字もできました。

さらに
奈良時代に和歌などを
記すための万葉仮名が発達しました。

万葉仮名は漢字の表す意味とは無関係に
言葉の音に当てはめたものです。

山を也麻
春を波流
一字一音節

平安時代には万葉仮名の形が
徐々に崩れ草書体(草がな)が生まれ、更に簡略化された平がなが成立しました。

はじめの時期はカタカナは男性ひらがなは女性を中心に使われました。

かな文字の成立により、
日本人の感覚を生き生きと表現する国文学が発達します。

国文学の代表例である和歌は、
9世紀後半に六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・僧喜撰・小野小町・大伴黒主)らの歌人が活躍しました。

905年(延喜5年)には
わが日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立しました。
この和歌集は紀貫之が中心となり作られ、かな文字の仮名序、漢文の真名序からはじまり、これらの構成は9世紀の勅撰漢詩集の影響がみられます。

これ以降和歌は宮廷でも重要視されました。

三代集(古今集・後撰集・拾遺集)、

八代集(前述の三代集+後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集)
などの勅撰和歌集が編纂されました。

物語としては、
かぐや姫を主人公とした『竹取物語』、貴族社会を描いた『宇津保物語』、
歌物語としては、『伊勢物語』、
『大和物語』などが生まれました。
また、紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京するまでの『土佐日記』を書いています。

かな文学はますます発展し、
一条天皇陛下の皇后の藤原定子に
仕えた清少納言の随筆『枕草子』や、
一条天皇の中宮彰子に仕えた
紫式部の長編小説『源氏物語』などの傑作が生まれました。
その他にも藤原道綱母の『蜻蛉日記』や『紫式部日記』『和泉式部日記』、
菅原孝標女の『更級日記』などの日記文学が女性特有の細やかな感性によって書かれました。

ひらがなカナカナは世界に誇るわが日本の素晴らしい独自の国文化です。


皇紀2679年の伝統国の我ら祖国