ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

修身は素晴らしい

2019年08月02日 | 修身
尋常小学校の修身一年生の

前半の目次はこちら

一 ヨク マナビ ヨク アソベ
二 ジコク ヲ マモレ
三 ナマケル ナ
四 トモダチ ハ タスケアヘ
五 ケンクワ ヲ スルナ
六 ゲンキ ヨク アレ
七 タベモノ ニ キ ヲ ツケ ヨ
八 ギヤウギ ヲ ヨク セ ヨ 
九 シマツ ヲ ヨク セ ヨ
十 モノ ヲ ソマツ ニ アツカフ ナ
十一 オヤ ノ オン
十二 オヤ ヲ タイセツ ニ セ ヨ
十三 オヤ ノ イヒツケ ヲ マモレ

いいこといっていますね。
修身は我が国の偉人と世界の偉人の
実話をいれているところがいいですよね。

いまの道徳もいいところもあります。
さらに修身もいれていくことが望まられるね

皇紀2679年わが国繁栄

我が国の最高随筆のひとつの枕草子

2019年08月02日 | 清少納言
我が国の最高随筆のひとつの枕草子は、一条天皇陛下の中宮である
藤原定子の元への出仕でたる。

父や曽祖父の血筋に連なる清少納言には豊かな教養があった。
快活で清新な気風が才能を開花させました。

三つの段から構成されています。

一 類聚的な段(るいじゅう)
~は、~ものといった書き出し

二 日記的な段

三 随想的な段

他の平安時代の文学があはれとしめらかな情感が基調に対して
枕草子は
をかしという明るい快い情趣を
基調としている。
自然や季節の美しさ、心の機微を鋭く描きだしている。

われら日本人の感性をあらためて引き出してくれた。


素晴らしい日本人の感性である。

皇紀2679年わが国

豊臣秀吉公は皇室を尊敬とわが国を守る愛がある

2019年08月02日 | 太閤秀吉公は祖国愛に溢れていた
豊臣秀吉公からは
【身を立てよう】と
【職務に勉励しよう】と
【皇室を尊敬して国民を心ひとつにしよう】
があらわれています。

豊臣秀吉公は尾張の貧しき家に生まれたり。
幼き時より、世に優れたる功名をなさんと志し、十六歳の時、わずかの金を持ち、ただ一人、故郷を立ち出で、遠江の松下加兵衛という武士に仕えたり。

かくて、よく、主人のために、働きしかば、加兵衛に信用せられ、着物や道具の出し入れをする役を言いつけられたり。
されども、仲間の者にそねまれ、やがて、故郷に帰れり。

その後、秀吉は織田信長の武勇優れたるを慕い、人を頼みて、これに、仕えたり。
これ、秀吉が身を立つる基なりき。


秀吉は、信長に仕えし後も、人に優れて、働きたり。

信長、ある日、明け方より、狩りに出でんとして、「誰かある。」と呼びしに、秀吉は「藤吉郎、これにあり。」と答えて、立ち出でたり。

ある年、清洲の城の塀、百間ばかりも、崩れしことあり。

信長、部下の者に言いつけて、これを普請せしめしに、二十日ばかりをすぐれども、工事はかどらず、よって、改めて、秀吉にその役を命じたり。

秀吉は人夫を十組に分かち、組組に工事を割り当てて、急ししかば、翌日になりて、残らず、出来上がりたり。
秀吉は、常に、かく、職務に勉励せしかば、信長の信用を得て、次第に、重く用いらるるに至れり。


秀吉は、おいおいに、立身して、関白、太政大臣となれり。

これより先、国内、戦乱うち続きて、皇室、大いに、衰えたり。

秀吉これを嘆きて、皇室のために、尽くししこと少なからざりき。

秀吉は、京都に聚楽の第をつくりて、これに、おりしが、あるとき、後陽成天皇の臨幸を仰ぎたてまつりたり。
かかる臨幸の儀式は、久しく、絶えたりしことなれば、人々、遠近より来たりて、拝観し、中には、「はからずも、かかる太平の有様を見る事よ。」とて、大いに、喜びたる者ありき。

秀吉は、諸臣一同に、
皇室を尊ばしめんと思い、御前において、これを誓わしめたりき。

太閤秀吉公は祖国愛に溢れていた