紀貫之(きのつらゆき) 868年~945年
9世紀後半。
紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。
そのころのわれら日本は独自の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。
歌人としての才能を発揮し、宮中で知れ渡るようになります。
20代のころから宮中の歌合せ会に参加。
藤原氏に指名されて歌を詠んだこともありました。
貫之は歌人としては華やかな存在
『古今和歌集』を編集する
905年(延喜5年)
醍醐天皇陛下の命により「万葉集」以後の歌が集められて、和歌集が作られることになりました。
初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、
編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。
紀貫之は醍醐天皇から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。
約1100首をおさめたこの和歌集は『古今和歌集』と名付けられ、
天皇陛下の命令で作られた最初の和歌集として有名です。
『古今和歌集』には素朴で詠んだ人も分からない歌から、紀貫之のような貴族のこまやかな感情を詠んだ歌まで載せられました。
紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。
やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける
という言葉で書き始められています。
「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。
和歌集20巻を完成させます。
そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。
貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。
『土佐日記』を記す
貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。
『古今和歌集』を作ったあとも、紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。
土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。
都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。
これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したものである。
われら日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文である。
その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。
『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立しました。
貫之の最大の功績は漢詩文、
『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。
『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。
和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。
ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。
『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。
この歌の歌意は、
「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。
紀貫之の歌の中ではとくに
有名な一首だ。
伝統的な和歌や
勅撰和歌集で子孫に残した
ひらがなカナカナ仮名の文学
随筆の向上
文学で我が国大貢献の
紀貫之公ありがとうございます。
9世紀後半。
紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。
そのころのわれら日本は独自の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。
歌人としての才能を発揮し、宮中で知れ渡るようになります。
20代のころから宮中の歌合せ会に参加。
藤原氏に指名されて歌を詠んだこともありました。
貫之は歌人としては華やかな存在
『古今和歌集』を編集する
905年(延喜5年)
醍醐天皇陛下の命により「万葉集」以後の歌が集められて、和歌集が作られることになりました。
初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、
編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。
紀貫之は醍醐天皇から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。
約1100首をおさめたこの和歌集は『古今和歌集』と名付けられ、
天皇陛下の命令で作られた最初の和歌集として有名です。
『古今和歌集』には素朴で詠んだ人も分からない歌から、紀貫之のような貴族のこまやかな感情を詠んだ歌まで載せられました。
紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。
やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける
という言葉で書き始められています。
「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。
和歌集20巻を完成させます。
そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。
貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。
『土佐日記』を記す
貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。
『古今和歌集』を作ったあとも、紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。
土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。
都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。
これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したものである。
われら日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文である。
その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。
『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立しました。
貫之の最大の功績は漢詩文、
『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。
『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。
和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。
ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。
『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。
この歌の歌意は、
「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。
紀貫之の歌の中ではとくに
有名な一首だ。
伝統的な和歌や
勅撰和歌集で子孫に残した
ひらがなカナカナ仮名の文学
随筆の向上
文学で我が国大貢献の
紀貫之公ありがとうございます。