ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

江戸時代の服飾文化・藍染めとガマの油売り口上

2022-08-20 | ガマの油口上 技法

      つくば市神郡の蚕影神社の絵馬  

大道芸、ガマの油売リ口上   

 
ガマの油売り口上の冒頭に「さあさあ お立ちあい、ご用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。遠出山越え笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白(あいろ)がトント分からない。山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、童子来たって 鐘に撞木を当てざれば、鍾が鳴るのか、撞木が鳴るのかトント その音色が分からぬが 道理じゃ。」とあるが、
この中の「黒白(あいろ)がトント分からない。」とは、藍染の色合いのことを言っていると言い伝えられている。

 そこで、藍染が江戸時代の服飾文化の発展に果たした役割を調べてみると、そこには江戸時代の豊かなた服飾文化があった。 

江戸時代の木綿織物 
 江戸時代に入って「衣料革命」が起き、人々の目常着が麻から木綿へ急速に切り替わってくると、それまで綿栽培地を中心に農間余業として糸を紡いだり、染めたり織ったりされていた。

 それが、次第に木綿織の専門業機屋ができ、それが集まった特産地が形成されていった。特産地ではそれぞれの特有の技術が開発きれ、ブランド名がつけられて大消費地に大量に出荷されるようになった。
 太物と呼ばれた木綿織物は、都会では専門の呉服店で売られるようになった。この時期の呉服店が今日のデパートに発展した店もある。

 幕末に鎖国が終わって、開港された港に外国から輸入きれた綿や綿糸が入ってくるようになって、次第に綿栽培地は衰退した。
 さらに明治になって綿花の輸入が自由化きれると、締作地帯はわが国から消えていった。

 しかし、木綿織業はこうした事態を迎えて、かえって活況を呈するようになった。
 安い輸入綿糸でそれまでに培った技術をフルに生かし、明治時代になると優秀な織物を織って国際競争に打ち勝っていくようになった。

 から木綿織物の産地といわれた三重県松阪市周辺の農村では、ほとんどの村で農閑期の女性の作間稼ぎ(さくまかせぎ、副業)として木締が織られていた。この地域の特産品であった縞木綿織は「松阪の女技」といわれ、機織上手であることが農家に嫁ぐ女性の必須条件とされた。

 隣接する津市や鳥羽市周辺の村々でも事情は同じだった。伊勢地方で生産された木綿織物は松阪周辺で集荷きれたものを「松阪木綿」、津周辺で集荷されたものを「伊勢木綿」、神戸(鈴鹿市)周辺で集荷されたものを「神戸木綿」と呼ばれたが、江戸へ出荷きれるときには等しく「松阪木綿」の商標がつけられた。


 正徳2(1712)年に刊行きれた『和漢三才図会』に、
木綿織物の順位を上から伊勢松阪、河内・摂津(大阪府)、三河・尾張(愛知県)、紀伊(和歌山県)、和泉(大阪府)、播磨・淡賂(兵庫県)としており、伊勢松阪ブランドが最上位にランクされていたからである。 

 知多半島(愛知県)で織られた生木綿(漂白加工する前の木綿)は、海路によって伊勢松阪に送られ、そこで加工を施され完成品となって、伊勢商人の手で江戸へ送られた。ところが文政年間(1818~30)に、知多地方の人々は工程に工夫を凝らして独特の晒木綿をつくりだした。
 この木綿の風合いが江戸っ子に人気を呼び、浴衣、手拭、下帯などにさかんに使われた。 

 知多木綿は生木綿から晒木綿に変わり、同時に松阪を経由せずに直接江戸へ出荷きれるようになった。この近くには尾張西部地方で生産されていた尾張縞木綿がある。西陣(京都)や結城(茨城県結城市)からも技術を入れ、人気の尾西縞木綿の技術を確立した。
 結城から入れた技術は絹と木綿の交織であった。  

(注)「江戸時代の木綿織物」の項は
   「江戸時代 人づくり風土記50 近世日本の地域づくり 200のテーマ」 
    企画・発行:農文協 (社団法人 農山魚村文化協会) によった。

藍染め(あいぞめ)の色合い 
 
 江戸時代も後期に入ると木綿の流通とあいまって染色技術も発展し、江戸時代には多くの藍染めが盛んに行われるようになった。 かつては阿波藩における生産が盛んであり、現在でも徳島県の藍染めは全国的に有名である。 

 藍染めのための染料はタデ藍を発酵させて作る、藍玉を用いることが多い。
藍染めは名前のとおり藍色の染色を行うことができ、色が褪せにくいという優れた特徴を持っている。 


  藍染めの色の中で、よく知られている色に「褐色=かちいろ、かちん色」がある。藍染めの中では、かなり濃い色に位置づけられている。武家社会の中では、その色相が、強さと美しさを兼ね備えた色として受け入れられていた。
 もちろん、この「褐色(かちいろ)」が「勝ち」に通じると思われていたので、弦を担ぐ意味もあったのも理由の一つであった。

  ところで、藍染めされた色には、昔から、淡い色から濃い色まで、次のような色名がつけられている。藍染めは、単品の染料ではあるが、濃淡だけでなく、紫味、青味、緑味などの色味にも変化がある。色合いをあげると大雑把な順であるが、淡い色→ 濃い色へと次の順で変わっていく。 

 藍白(=白殺し)→ 水縹→ 瓶覗き(かめのぞき)→ 水浅葱 → 浅葱(あさぎ)→ 薄縹 → 薄監 → 花浅葱 → 浅縹 → 縹(はなだ)→ 納戸 → 熨斗目(のしめ)→ 藍錆(あいさび)→ 藍→ 鉄→ 紺藍 → 紺(=留紺、とまり紺)→ 搗(かち、褐)→ 紫紺 → 藍鉄 → 搗返し → 濃紺。

  藍染には、このように濃淡多数の色合いがあるので、実物を見てみないとどのような色合いであるか分からないというのも頷ける。
口上で「黒白」を「あいろ」と表現するのは、藍染の色合いを現しものである。 

 つくば市神郡の蚕影神社の由来に「古来より有名な常陸紬、即ち結城紬の産出及び絹川、蚕飼川、糸繰川など蚕業に関わる地名があるのは上代を物語る証左である。」とある。
 茨城県内でも、古代から養蚕が盛んであった。
 鬼怒川・・・・キヌ、小貝川・・・・蚕 などの地名はその名残であろう。 
 ということで、「さあさあ お立ちあい、ご用と お急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。遠出山越え笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白(あいろ)がトント分からない。山寺の鐘がゴォーン、ゴォーンとなると雖も、童子来たって 鐘に撞木を当てざれば、鍾が鳴るのか、撞木が鳴るのかトント その音色が分からぬが 道理じゃ。」となる。

   
【関連記事】 
 筑波山神社と姉妹の関係にある神郡の蚕影(こかげ)神社 


 ガマの油売り口上」はプレゼンテーションである

 
 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 〔技法〕第19代 永井兵助 ... | トップ | 高須芳次郎著『水戸學精神』 ... »
最新の画像もっと見る

ガマの油口上 技法」カテゴリの最新記事