AKB48の旅

AKB48の旅

それとなく異論など

2012年03月10日 | AKB
Show must go onの評を、いくつか読んだ。さすがに公開当時と違ってそれなりに検索されてくるし、内容も興味深いものが多い。傾向としては、映画として、ドキュメンタリーとして高評価が多い反面、映画に描かれた内容を通しての、ある種AKB批判が多いようにも思えた。

確かにそれらの批判には頷ける面もある。あるけど、その矢面に立ってるように見える秋元康(そして運営サイド)をかばい立てする義理もないけど、かつて同じ側の、それももう少しアンチサイドにすら居た私としては、それは「違う」んだということを、こうしてこっそりとしたためておきたい、そういう思いを止められなくなってきた。

この思いの根は少し前、映画評論家の宇多丸さんの評を聞いた時からくすぶってた。その評がある種「典型」に思えて、無謀にも反論したい衝動に駆られた・・・、けど書くのをやめてた。実際には何回か書き始めたけど、その作業の困難さと、困難な割に得るものがないことがすぐに分かってしまって、でやめてた。

今回はちょっと違う。宇多丸さんの影響力を感じてしまった。多くの議論の方向性が「そっち」に持って行かれてるように感じられた。これはちょっと逆方向のテキストをネット上に上げておきたい。もしかして誰かがこの文章を見つけて、違った視点もあり得ることに気づいてくれるかもしれない、そんな傲慢な思いに、ちょっとだけ付き合ってみようという気になった。

と言いつつ、大した論点はない。映画に描かれてる状況に対する認識について、基本的には異論はない。強いて言うなら言葉の定義だろうか。「戦場」「戦争映画」「残酷ショー」「死屍累々」「加害者は誰か」「いつかぶっ壊れる」、特定の論者に偏らないように選んでるつもりだけど、議論の方向性としてはほぼ共通してると思うんで、このあたりが妥当な選択じゃないかと思う。

まずShow must go onは「戦争映画」なのか。もちろん比喩としてだけど、確かに否定はできないと思う。思うけどこれだけだと議論としては不十分だろう。どんな種類の戦争映画なのかを特定するべき。例えば「父親達の星条旗」や「プライベートライアン」のような「戦争映画」かと言われれば、私は「違う」と断言する。「映画」の範囲を広げて「バンドオブブラザース」や「ザ・パシフィック」を入れて良いなら、言わんとすることが少しでも伝わるだろうか。

つまりは「リアル」ということ。実際の戦争がどんなものなのか、所詮平和ぼけの日本人の一人である私に分かろうはずもないが、付け焼き刃の知識として、例えばイラク戦争とかアフガンの現状とかは、ひどい非対称戦ということをぼんやりと認識してるし、ベトナム戦争とか朝鮮戦争とか、さらには上に引用した映画に描かれた大東亜戦争、太平洋戦争、第2次世界大戦、命名は何でも良いけど、その実態たるや、悲惨なんてもんじゃないことを、どうにか認識できてると思う。

Show must go onは、戦争というものの実態とはほど遠いどころか、ほとんど何の関係もない。ここで言う「戦争映画」とは、あくまでもフィクションとしての「戦争映画」、敢えて揶揄的に言うなら、ゲーム的な、アニメ的な、予定調和な、現実の戦争とは直接関係のない、物語としての「戦争映画」だろうと思う。「戦場」という表現にも同様の議論が成り立つ。「残酷」「死屍累々」も以下同。

「戦争映画」という比喩自体が、けっこう空疎ではないか。何かを表現してるつもりで、実はある種のフィクションに乗っかってるだけではないか。そしてそのフィクションが「アイドル」概念そのものであるなら、それは単にトートロジーなんじゃないか。フィクションとしての戦争であれば、それこそそこらじゅうに転がってる話に過ぎない。生きるというのは、程度は様々だけど、日々戦場じゃないか。

それ以前に、震災という巨大過ぎるリアルに立ち向かうアイドルというあり方、そこにこそより重要な論点があるかなとか思うけど、そこはスルーして話を先に進めよう。

「加害者」問題という指摘がある。AKBメンバーを苦しめ、「死屍累々」とさせているのは秋元康(と運営)であり、ファンであるとする指摘。これも詳細に論じてみると奇妙な話に思える。

総選挙は確かに「残酷」に見える。けれどもその残酷さは、これまでになかった「透明性」と「公正性」故とも言える。アイドルが人気稼業である以上、人気のみによってその価値を計量されるというのは、まったく正しく思える。運動会の徒競走で、手を繋いでいっしょにゴールすることに価値を見いだすのであれば、何も言うことはないが、面白さ、魅力という価値観には序列が必要だ。

事実、総選挙が始まった経緯も、公開情報に依拠するなら、秋元康が恣意的に選抜を選ぶのをファンが忌避した結果であり、民主主義が最低の政治システムだとしても、それ以外は論外であるという一文で話は終わってしまう。人気稼業という大前提を受け入れられない者は、その場から去れ。退場の自由は保障されているのだし、事実、AKBからの退場者は多数に登る。

西武ドーム2日目に起こったことも「残酷」でありかつ「死屍累々」であったと比喩できる、そこに異論はない。けれどもやはりおかしいのは「加害者」視点だ。

正確な経緯の情報は未だにないけれど、以下に述べる認識に、それほど異論はないと思う。西武ドーム初日。リハーサル不足の上にやっつけ構成(セトリ問題、タイムライン、動線問題、諸々)のため、秋元康に「AKB史上最悪」「止まった」と評され、キャプテン高橋みなみも同様のことを述べてた。今回詳説は省くけど「AKBとは立ち止まったら死ぬ」のであり、これはAKBのコンセプトそのもの。であればこそ、生き残るために死に物狂いになるのは当然のことだと思う。

結果、西武ドーム2日目は「死屍累々」となり果てた。その事実に間違いはない。では何が、どこが、そして誰がいけなかったのか。そこに加害者はいるのか。秋元康(と運営)は加害者か。確かに運営の不備は酷いと思う。それは大いに反省してもらいたいし、秋元康の言葉にもそれは込められていたと思う。運営側の酷さを映画が描いていないという指摘もあるけど、それこそそんなものを客に見せてどうする。少なくともそこに悪意はないし、運営は単に無能をさらしていただけであり、どう見ても加害者ではない(こういうのを「加害」というなら、もはや議論は必要ない)。

秋元康は加害者か。AKBは秋元康の金儲けの道具、そういう視点に陥りがちだけど、それ自体が悪意であることに自覚的になるべきじゃないか。私自身、かつて同様の悪意に染まっていたということもあり、過剰に反省的になっているかもしれないけれど、1次ソースで見る秋元康の言動、例えばぐぐたすの「やすす」、あるいはAKBの膨大な楽曲の中にそれこそちりばめられた「指導」を見れば、この人が常識のある紳士であることが分かると思う。少なくとも私が知る限りだけど、悪意はどこにもないし、むしろ手を尽くしてメンバーに「チャンスの順番」を工面しているとしか見えない。

ではファンは加害者か。ここにも議論の混乱というか、倒錯があると思う。前田敦子がふらふらになりながらもファンからのアンコールに応えようとする時、そこに何か加害があるのか。そこにあるのはファンの支えであり、アイドルで在り続けようとする前田敦子の意志であり、敢えて言い切れば願望ではなかったか。それ以前に、何事であれ先頭に立つということ、トップであることは、それ自体が試練と同義であり、しばしば過酷なのは自明ではないか。そして間違いなくAKBは、そして前田敦子は先頭に立っており、トップに君臨している。

結論は簡単。加害者はどこにもいない。西武ドーム2日目に起こったことは、様々な要素、人々の思い、時節等が合わさって引き起こされてしまった不運に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。むしろ最悪の事態にならなかったことを僥倖と捉え、反省すべきことを反省し、そしてAKBの成長の物語の1エピソードとして語られていくんだろうと思う。