AKB48の旅

AKB48の旅

「涙は句読点」その8 「AKB48と言葉」

2016年04月12日 | AKB
以下、147pから、言語学者、金田一秀穂氏の引用

日本人って話をすることが下手なんです。昔から作文教育ですから。それこそスピーチなんて大嫌いです。これは秋元康さんの考えなのかもしれませんが、話をすることを大切にしているということは、これから面白い日本人が出てくるんじゃないかって思うんですよ。たとえば総理大臣の談話というのが新聞に載りますよね。これって談話だから、その話を実際に聞かないと意味がない。文字で書いてあることを新聞で読んだって面白くない、と僕は思うんです。だけど、日本人は文字が大切だと考えている。作文の授業はあっても、スピーチの授業はありませんからね。

中略

キング牧師の有名な演説もジョン・レノンの歌も文字で読むのではなく、声の調子を含めて聞くからより伝わって来るはずです。だけど、AKB48はスピーチを大切にしています。面白いタイプの日本人を生むかもしれないし、日本の言語文化を変えるかもしれない。そういう期待ができるのは、音声言語を大切にしているというのが理由です


AKB48がスピーチ重視なのは、単純に劇場型アイドルだから、という説明で終わらせてしまっては、この金田一氏の指摘の本質を踏み外してしまうことになりそう。

書き言葉としての日本語は、他言語と比較して情報量がものすごく多い。漢字という存在自体の情報量に加えて、漢字かな交じり文という表記の自由度の高さが加わってる。そこにさらに日本文化のハイコンテクストが載っかってる。であるにもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、学力がある閾値を超えていればという条件が付くけど、伝達速度もものすごく速い。

一方で日本語の話し言葉は、このような特性の多くを持たない。敢えて言い放てば、一般的な人類の言語の一バリエーションに過ぎなくなってしまう。いやそれどころか、音素が少ない上に、漢字というハイコンテクストにアクセスし難くなるため、むしろ情報量としては低くなりがちとなる。

なぜそうなのか、そうなってしまっているのか。この辺りの議論は錯綜する上に、常識的な範囲を逸脱してしまう可能性があるので割愛してしまうけど、まあ事実としてそうなってると思われる。

だから、日本人が書き言葉に依存しがちになることは避けられないんだろう。ここまでが前提となる議論。

その上で、「AKB48がスピーチ重視」という指摘は何を示唆するのか。金田一氏は上記引用部分の後半で、例示としてキング牧師のスピーチとジョン・レノンの歌をあげた上で、「日本の言語文化を変えるかも知れない」とまで言い切ってるけど、秋元氏の肩書きが正に「作詞家」であるというのが決定的に思える。つまりそこには例によって例の如くの「予定調和を壊す」という方向性がたまたま表れてるだけのことではないか。

けれどもそれでも、そこには未知の新しさが現出する。AKB界隈で何度も見せつけられてきた、そんなあり得ないはずの「無への跳躍」がまた一つ、ということなのかも知れない。