AKB48の旅

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「モノを凄くちゃんと見て」その上で「傍観者じゃなくて、そこに向かっていく」

2018年04月04日 | AKB
坂上忍 “MC力”の秘訣は勉強量 指原が台本書き込み明かし「出会った中でダントツ」

指原が“つぶれない”理由を坂上が分析すると「かしこいですからね。隙間があったときに実際に動く勇気を持っている。おそらく、それは共通している。モノをすごくちゃんと見て、だからといって傍観者じゃなくて、そこに向かっていく」と説明した。

これはさすがの坂上忍氏というか、上から目線で申し訳ないけど、指原さんの凄さって、正にそこなんだと思う。

「モノを凄くちゃんと見」るというのは、実はとても難しい。よく勉強して知識のある人なんかは、その知識に当てはめるようにしてモノを見てしまう。自身の中の枠組み的なものに現実の方をあわせてしまう。つまりは現実をゆがめてしまう。もちろんその知識が十分に精緻であれば、歪みは最小限になるかも知れないけど、それでも知の枠組みが主で現実が従であることには変わらない。

そんな知識の属性が理屈を越えて思想信条にまでなってしまうと、しばしば状況はさらに壊滅的となる。思想信条と合わない現実は亡きものにされてしまう。認知バイアスが徹底されてしまう。であるにもかかわらず、残念なことに、ちょっと周囲を見渡してみると、そんな実例には事欠かなかったりする。脱力するしかない。

では知識がなかったらどうなるか。殆どの人にとって、何らかの知識という足がかりこそが、現実を認識するために必須となる。最低限の知識がなければ認識という行為のとば口にすら辿り着くことができない。何も分からない。

つまりは、知識があってもなくても、現実を認識することは困難ということになってしまう。なにを馬鹿なと思われるかも知れないけど、これもまたある種の「観測問題」と捉えることができるかも知れない。

さて指原さんはというと、そのような枠組み、知識のあるなしから自由であるように見える。現実に対して、自ら情動と身体の両方で入り込み、あるいは取り込む。現実と対峙するのではなく一体化を試み、その上で「操作」を企てる。別の言い方をすると、現実と幻想を接続することで、言わば不確定性原理を乗り越えてしまう。そんなことなんでできるんだろうとも思うけど、「モノを凄くちゃんと見て」その上で「傍観者じゃなくて、そこに向かっていく」ことを実現してしまってる。

因果は不明だけど、そこに自己了解像と世界認識の透徹した、歪みのない曇りのない存在様式が成立してしまってる、そう理解するしかない。