三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

小牧長久手の戦い その②

2017-08-05 08:37:17 | 古里の歴史

その②

 7月10日 浜田砦を申し付け、普請が完成次第長島へ帰城する旨を報じる。(信雄→吉村氏吉

 7月12日 信雄方の木造具政・具康が籠城している戸木城へ兵糧米を搬入しようとしたが、長引く強風のため輸送ができないことを伝える。戸木城においては堅固に籠城を継続することを指示。(家康→木造具政・具康

 7月14日 浜田砦を敵が攻略したことを了承。敵にとっては萱生砦へのつなぎの城になるだろう、との考えを示す。秀吉は明日美濃へ行くので一柳直末・小野木重次は美濃へ来るよう指示。(秀吉→津田小八郎
 7月14日 これ以前に伊勢方面へ出馬し、所々にを申し付けて13日に清州へ帰った旨を報じる。(家康→平岩親吉
 7月18日 秀吉が美祢に到着し、吉村氏吉に対して「調略」がある旨、方々から信雄の元へ言ってくる向きがあるので昼夜ともに「番」について油断しないように指示。(信雄→吉村氏吉
 7月28日 信雄方の木造氏が籠城している戸木城からの詫び言の件について許す場合は、人質として木造具康の実子を秀吉方へ出すことなどのほか「城」は破却することという講和条件の提示について指示。講和条件について木造氏が承諾しないのなら再び戸木城を包囲してを10くらい申し付け城兵を一人も逃さないようするよう指示。(秀吉→小島民部少輔・蒲生氏郷
 7月30日 昨日29日、大坂へ帰った旨を報じる。(秀吉→下間頼廉)
 8月12日 鍬・鍬取り寄せる奉行として石田正澄を遣わすので指示に従い犬山へ届けるべきことを指示。(秀吉→長浜町人中
 8月18日 家康は小牧にいるようなので明日19日には秀吉は小牧方面まで進出して「付城」を申し付けて、家康が逃れられないようにする企画である旨を報じる。(秀吉→上杉景勝
 8月25日 鉄を10駄山田又右衛門・加藤小介より受け取り、10日までに鍬を作り完成させるよう指示。(秀吉→長浜町人中・同在々鍛冶中
 9月8日 富山城主の佐々成政が秀吉方と敵対したことに関して出兵について丹羽長秀と相談するので軽率に兵を動かさず丹羽長秀の来援を待つよう指示。(秀吉→前田利家
 9月8日 秀吉との講和交渉決裂し、昨日7日家康は重吉へ移動した旨伝える。(家康→不破広綱)
 9月9日 尾張で秀吉方は放火をしたほか、要害を数か所申し付けたことを報じる。信雄と家康が実子を人質として出す旨を望んでいるが秀吉は同意しない旨を報じる。(秀吉→某)
 9月19日 戸木城が苦戦していることについて注進があった。いまだ堅固に守備しているならば家康が急ぎ出馬するつもりなのでよくよく戸木城の様子を聞き届けて、再度滝川雄利から承りたい旨を伝える。(家康→滝川雄利
 10月22日 秀吉が坂本まで出馬したことを報じ、明日23日には北伊勢へ向けて出馬するので、神戸城での」「番等について油断しないよう指示。(秀吉→津田小八郎
 10月24日 秀吉は本日土山に着陣したことを報じる。明日25日には神戸方面へ行く予定なので各人数を城々へすべて集めて「番」等について油断せず申し付けるよう指示。(秀吉→片桐半右衛門尉)
 10月27日 虎落竹について、20本結び又は30本結びくらいを一つの単位として2千束飯野郡・多気郡へ割り当てて急いで切らせて、500束または600束ずつでも川まで出しておき、海面が凪の時に海路で楠まで運送することを指示。
 堀の柱や柵の柱にするとして2千本を売買で用意してもよいので楠まで運送するよう指示。ただし、準備ができない場合は伊勢山田において家一軒に対して木を1~2本ずつ出すように申し付けてこれらを500本、または600本ずつでも出来次第に楠まで運送するよう指示。(秀吉→上部貞永
 10月28日 伊賀国の在地領主が9月27日に人質を出した旨を了承。伊賀国の城々の破却について厳しく行うよう指示。
 北伊勢での戦局は桑名の際まで攻め込み放火・刈田などを申し付けるとともに付城」を四、五か所申し付けことを報じる。
 数日中には決着が付くと思われるので11月5日頃には伊賀国へ巡視のために秀吉が行く予定であり、伊賀国の城々の破却が済んでいればよいが遅延しているようなら成敗する旨を伝える。内々にその旨を心得るよう指示。(秀吉→脇坂安治
 10月28日 浜田城滝川雄利が守備しているので包囲して付城」を四、五か所申し付ける予定の旨を報じる。の完成までに10日くらい必要、完成次第大坂へ帰る予定である旨を報じる。(秀吉→丹羽長秀
 11月3日 伊賀国の在地領主が人質は出したが城々の破却は行っていない旨を了承。浜田城を包囲するについて堅固に申し付け普請がようやく完成するので数日中に隙が明けて、伊賀国へ見物のために行く予定である旨を報じる。(秀吉→脇坂安治
 11月6日 北伊勢において四ヶ所の砦(羽津・萩原・泊・河尻)が堅固に完成した旨を報じる。攻撃のために5日羽津に着陣し、本日桑名方面へ出陣して桑部と柿多の構を攻略して縄生と桑部の両所ではの普請を申し付けたことを報じる。北伊勢五郡を制圧したことを報じる。(秀吉→加藤嘉明)
 11月7日 福田氏の秀吉方への内通を報じる。松之木城への加勢を承知。秀吉が縄生に在陣している旨を報じる。(信雄→吉村氏吉
 11月9日 北伊勢において、稗田・鳥山・羽津・泊・河尻・萩原・桑部などにを構築し早くも完成したので数日中には隙が明けて帰陣する予定である旨を報じる。(戸田勝隆→田中眞吉)
 11月10日 北伊勢においては、桑名の際まで攻め寄せて数か所を構築し、すべて隙が明けたのでやがて、納馬する予定である旨を報じる。(秀吉→大井少右衛門尉)
 11月11日 北伊勢においては、を堅固に構築し、すべて隙が明けたので二、三日中に納馬する予定でいたところ、信雄より種々懇望があり、講和について同心した旨を報じる。(秀吉→津田小八郎
 11月13日 縄生城で秀吉が越年して長島城を攻略することを申し付ける様子を信雄が見て取って講和を懇望したので秀吉は同心した旨を報じる。
 講和条件として北伊勢四郡は信雄に渡し、郡内で今回構築した城々は敵味方ともに破却すること、尾張国内では犬山城と河田城に秀吉の人数を入れる以外は城々は敵味方ともに破却することを報じる。(秀吉→伊木忠次)(秀吉→池田教正・荒尾次郎作)
 11月15日 講和成立による尾張国内における城々破却の事後処理として以下の諸点を秀吉が命じる。
 楽田城の諸道具は犬山城へ移す。小口城の塀・柵は犬山町へ移す。下奈良城の諸道具は河田城へ移す。宮後城は生駒家長へ預ける。楽田城の兵糧は加藤光泰へ預ける。小口城の兵糧は長島へ移す。下奈良城・宮後城の兵糧薪以下は長島へ移す。(秀吉→某)
 11月16日 講和が成立し、家康が帰国するので松平家忠小幡城から岡崎へ行く。


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