三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

仁柿城

2018-03-19 00:05:14 | 古城巡り

にがきじょう

城名
 仁柿城
読み
 にがきじょう
住所
 松阪市飯南町上仁柿
築城者、城主
 久世因幡守、周防守
形式
 山城
遺構
 郭、堀切
規模
  全体;東西260m、南北105m
 主郭;東西40m、南北16m
標高 290m 比高 90m
経緯

 北畠氏の家臣団配置図に武将の名称はあるが城塞の場所が確定されてないものが何か所かある。その一つが仁柿城である。探索するにもヒントが全くなかった。ある時、深野の郷土史家と話す機会があってそのことを質問するとおおよその場所が分かった。

 地元の人から話を聞くことが出来た。地元では”見張台”と呼んでいて、久世さんが殿さんと聞いていると話されている。ただ、書いたものが何も見つかっていないとのことで地元でも大きな声にはなっていなようである。

環境
 櫛田川から多気(たげ)に向かう国道368号(伊勢本街道)から山中に入る脇道がある。殆どの人が気づかない程のルートだ。少し小川沿いの道を走るとすぐ集落が見えてくる。そこは狭い谷間で里山の風景が坪庭のようにある。
現地
 個人宅前の登城道を上る。たまたま、その家のご主人と話すことができた。この道で間違いなさそうである。八幡さん(注1)を祀る場所を抜けて迂回すると本格的に斜面に取りつく。ここからは直登のようだ。
 たどり着いた尾根は自然地形である。主郭があるはずの右手に方向を変える。やや登りで尾根端部に向かって標高が少し上がる。上がりきった所が主郭である。
考察
 主郭と副郭を主な曲輪とする山城である。削平は一部自然に返りつつあり甘くなっているところがある。
 切岸はいまだに鋭さを保って今でも歩行は困難である。主郭に付随する入り口左手の曲輪はあまり手を加えてない自然地形を生かしたものであろう。
感想
 下山時、山腹に細長い曲輪を見つけた。山側に石が並べられている。何に使われていたのだろうか。
 尾根を西に進むと堀切がある。この城で唯一の堀切である。主郭より離れているので城外かとも思えるが、その距離は200mとそれほど離れているとも言えない。
 津の忍田城の北方堀切は主郭から120m離れている。水平から急斜面に代わる尾根の根元にあり、忍田城としては理由が成り立つことになる。
 仁柿城の場合は200m程で確かに主郭から遠いがこの位置にある理由が明確であると思う。

 東西に延びる尾根の南北に隣接する村落を結ぶ峠道がある。その峠道から主郭側に入った辺りに堀切が施されていること、またその内側には見張台とも思われる形跡が残ることから、峠道から来襲する敵方を堀切と見張台のセットで西の入り口で抑えようとする考えから成るこの場所であると思われる。

注1;少し前までこの村では年に1回、4月に八幡さんの祭りを行っていた。狭い曲輪で餅まきをしていた。残念ながら近年は人手不足で途絶えてしまった。

主郭から西の堀切

主郭から八幡神社

地図

 

 



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2 コメント

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仁柿城に行ってきました。 (るーちん)
2018-05-21 06:57:35
先日、松猪さんのサイトを見ていたら、不明城館であった仁柿城に訪城した記録が載っているのを見つけ、さらに調べてここのブログにたどり着きました。
これまで、仁柿には城が発見されてなかったのですが、多気に峠を挟んで隣接する地域ですし、あるはずだと考えていただけに、非常に興味を持ち先日、この記事や松猪さんの情報をもとに訪城してきました。
その上で正直な感想を申しますと、ここは城ではないと感じました。
訪城する前に地形図で確認した際には、街道を監視する場所にあり、また麓の集落からの比高も山城として程よく、南北が切り立つ地形など城を作る立地として良い場所だと感じていたのですが、そこにある城とされる遺構そのものが城のものではないと感じました。
まず、主郭と副郭で構成される曲輪ですが、北畠の城は総じてコンパクトなので、このタイプでもめずらしくなく違和感はないのですが、曲輪の前後の処理がまったく無いのが気になりました。
主郭と副郭との間は3mの切岸がありましたが、人工的な切岸はここだけだと思われます。
あとは自然地形で、南北方向は切り立っているので問題ないとしても、副郭の先端、東の尾根につながる場所が未処理、またそれだけでなく、主郭の背後、西へつながる尾根も未処理で、曲輪からそのまま尾根へダラダラとつながる状態になっています。これは城の構造としてあり得ないものではないでしょうか?
主郭背後のこの位置には普通、切岸なり堀切があってしかりで、それがなくては曲輪の防御などないに等しくなります。また200m先の堀切ですが、主郭から堀切までの間に監視台的な高まりが一つあるだけで遮断線になるものが何もなく、主郭背後に切岸、堀切がない状態だと、200m先の堀切は遮断線として全く意味のないものになります。忍田城の例をあげておられますが、忍田城の場合は主郭背後の守りは堀切でしっかり遮断しており、100m離れた堀切は城域の区切りと監視という位置づけとして考えられるので、この仁柿の例とは違うと思います。
この尾根鞍部にある堀切状のものは人工のものではあるので、仰られている様に、南北の集落を結ぶ道か、林業の木材搬出に伴って出来たもので、城に関係するものではないと感じます。
次に曲輪なんですが、主郭内にかつて神社を祀った跡があります。また曲輪の外周にも境内を区切る石列が見られる事から、これらの削平地はかつて神社地であったもので、神社地とするならば、主郭、副郭前後に切岸、堀切など遮断線が無いことも納得がいきます。またこの2段構成の削平地も神社としてはよくあるものではないでしょうか。
これらの事から、この発見された遺構は仁柿城のものではないと思います。
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御礼 (ラム)
2018-05-26 14:01:08
るーちんさん、お越しいただきましてありがとうございます。また貴重なご意見、今後の参考にさせていただきます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
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