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⚠️考えなしの「再エネ開発」が引き起こした、「ローカルな環境破壊」を解決する方法 環境倫理学から考える

2022-02-08 02:49:53 | なるほど  ふぅ〜ん

考えなしの「再エネ開発」が引き起こした、「ローカルな環境破壊」を解決する方法 環境倫理学から考える
 現代ビジネス より 220207   吉永 明弘


・「太陽光パネルバッシング」がネット民の間で盛り上がる「驚きの背景」

⚫︎太陽光発電が「令和の公害」に?
 1月25日、山口壯環境大臣が、埼玉県小川町で進められているメガソーラー開発について「環境に負荷をかけており抜本的な見直しが必要だ」と述べたことがニュースになった。
 太陽光発電に代表される「再生可能エネルギー」は、温室効果ガスを排出する火力発電や、事故のリスクや放射性廃棄物の問題を抱える原子力発電に代わる電源として期待されていたが、最近では「迷惑施設」として、地域環境破壊や地域紛争の原因として取り上げられることが多くなってしまった。

「脱炭素」ブームのウラで、いま世界で起きている「本当にヤバすぎる真実」

 2021年11月6日の熊本日日新聞の記事は、熊本県南関町小原のメガソーラーの建設現場で、大雨によって大量の土砂が農地や河川に流出したことを伝えているが、そのなかでメガソーラー問題は「令和の公害」(土木環境工学者の鈴木猛康教授)とまで呼ばれている(2021年11月6日、熊本日日新聞朝刊)。

 私はエネルギー問題の専門家ではなく、環境倫理学という分野の研究者である。2021年12月に、『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマー新書)という本を上梓した。環境倫理という言葉は、高校の「倫理」の教科書にも登場するが、その中身はあまり知られていない。そこで環境倫理学の議論に基づきながら、高校生から読めるよう、具体的な環境問題に即して解説した。

 環境倫理学は、環境問題を解決するために社会のしくみがどうあるべきかを考える分野である。「倫理」は簡単に言えば「~べき」という次元で、「~である」という「事実」の次元とは別に存在する。

 誰かが「昨日、宿題をやるべきだったな」と言った場合、事実としては、その人は「宿題をやらなかった」のだが、本当は「宿題をやるべきだった」のである。このときの「宿題をやるべき」というのが、「事実」とは別に存在する「倫理」の次元である。

 宿題の例では、「個人がなすべきこと」が問われているが、環境問題に関しては、「個人がなすべきこと」よりも「あるべき社会のしくみ」を問う必要がある。なぜなら環境問題は個々人のふるまいを超えた社会システムが作り出している問題だからである。

 事実として、今の社会システムは環境問題を生み出しているので、それとは異なる、環境問題に対応しうる社会システムを考える、というのが環境倫理学の仕事になる。
 このように言うと話が大きくなるので、今の社会のしくみが引き起こしている環境問題を身近なところに落としこんで考えてもらうために、『はじめて学ぶ環境倫理』では、「都市環境」のようなローカルな環境に注目することから始め、それからグローバルな環境問題へと視野を広げていくという道筋を示した。

「地球環境のためにできることを行いなさい」と言われても、どうしたらよいかわからないが、「駅前の再開発について話し合おう」ということなら、具体的な意見をもちやすいし、何らかのアクションを起こす気にもなるだろう。

⚫︎再生可能エネルギーは必要だが…
 私はずっとこのようなスタンスで教育・研究を続けているが、その間、一貫して突きつけられている課題がある。それは、「グローバルな環境問題とローカルな環境問題が衝突した場合にどうするか」という課題である。この点から、再生可能エネルギー開発に関してさまざまな地域で紛争が起こっていることが気になっていた。

 グローバルな環境のことを考えると、再生可能エネルギー開発を推進するのは当然だということになる。古くは1970年代から、枯渇性資源(石油など)に頼ることの限界が指摘されてきた。

 そして1986年のチェルノブイリ原発事故と1988年の地球温暖化問題の国際的なテーマ化によって、放射性物質の危険性と温室効果ガス(CO2など)の問題点が認識されるようになった。さらに2011年の福島第一原発事故を機に、脱原発社会の実現が喫緊の目標になった。
 並行して、地球温暖化は「気候の危機」(アル・ゴア)をもたらすほど深刻化し、火力発電が排出するCO2が大きな問題となった。そのような世界の情勢を背景にして、2020年に、当時の菅義偉内閣が脱炭素社会の構築にむけて動き出した。

 これらすべてが、再生可能エネルギーを普及させることの根拠となっている。つまり資源の保全、脱原発、脱炭素をすべて実現するためには、資源枯渇の心配がなく、放射性物質もCO2も排出しない、風力・太陽光・地熱などの再生可能エネルギーの普及が不可欠だ、ということになる。

⚫︎ローカルに起こっている「環境破壊」
 しかし冒頭で紹介した通り、再生可能エネルギー開発が地域の自然環境や住民の生活環境を破壊している例が目立つようになっている。地域住民だけでなく、環境関連の専門家も、現在の再生可能エネルギー開発の進め方に懸念を表明している。

 NGO団体「日本環境法律家連盟」(JELF)は、会員向けに会報「ECOLAWYERS」を発行しているが、2021年11/12月号の冒頭の記事は、四万十川流域に巨大風力発電とメガソーラーの建設が計画されていることへの危機感を表明するものだった(執筆者は高知弁護士会の谷脇和仁氏)。

 本稿でもたびたび登場していることからもわかるように,とりわけ批判が多いのはメガソーラー開発である。メガソーラー開発が多くなったきっかけは,福島第一原発事故後の2012年に再生可能エネルギー推進の切り札として導入された「固定価格買取制度」だった。

 これは再生可能エネルギーでつくられた電力を決まった価格で買い取ることを保証する制度であり、通称FITと呼ばれる。FITの導入による顕著な変化は、太陽光発電の増加だった。導入直後、2013年の太陽光発電の設備容量は、前年の2倍にのぼった(資源エネルギー庁『再生可能エネルギー固定価格買取制度ガイドブック2015年度版』)。

 他方でFITの導入は、短期的な利益のみを追求する、環境意識の低い事業者が入りこむ機会となってしまった。その結果、太陽光発電に関連する紛争があちこちで見られるようになった。自然破壊、景観、住環境の悪化が、住民や研究者の批判の的となっている。

 ソーラーパネルというと屋根の上や休耕田に設置されることが多いが、メガソーラーの規模になると山林を削って設置することもある。敷き詰められたパネルは「乱開発」の景観を呈することになる。
 また、集落の近くに設置された場合には、地域住民に被害をもたらすこともある。2015年,茨城県常総市は豪雨による水害に見舞われたが,そのうち若宮戸地区の鬼怒川の越水は、ソーラーパネルの設置に伴い自然堤防を掘削したことが原因だともいわれている。住民は自然堤防の決壊を予測し,事業者や行政に懸念を伝えていたが,十分には通じなかったようだ。

 このように、2011年のFIT導入以降は、太陽光発電をめぐる問題が目に付くようになったが、それ以前によく話題になっていたのは、風力発電をめぐる紛争であった。
 風力発電の問題点として挙げられるのは、景観の悪化と、設置に伴う森林伐採などの自然破壊である。
 同時に,鳥類(特に絶滅危惧種)が衝突して死ぬことも問題視されている(バードストライク)。さらに、風車の稼働後に近隣の住民が頭痛,めまい,耳鳴り,不眠などの健康被害を訴える事例があり、風車が出す低周波音の影響とも言われている。

 また、2021年には、脱炭素政策を推進するために、地熱発電の開発に関する国立・国定公園内の規制を緩和する動きがあった。その後の検討会での議論の結果、規制は緩和されないが許可を出しやすい形になった(国立・国定公園内における地熱開発の取扱いについて)。

 地熱発電に適した土地は限られている。たとえば温泉が出る場所は適地であり、それらの多くは国立・国定公園内にある。そのため、地熱発電開発を推進するには、国立・国定公園内の開発規制を緩和する必要がある。
 それに対して、自然保護団体や温泉関係者から強い懸念が示された。そもそも自然を保護する地域なのに開発を容認することに対する疑問があり、加えて温泉への悪影響(温泉成分の変化や泉温の低下、温泉の枯渇の可能性)が指摘されている。

 これらの事例に共通していることは、再生可能エネルギーの推進という「エコ」な政策が、地域レベルでは環境破壊につながっているという現状である。ここには「グローバルには環境保護だがローカルには環境破壊になる」という事態がある。

⚫︎再生エネルギー開発に必要な“条件”
 ではどうすればよいのか。火力もダメ、原子力もダメ、再生可能エネルギーもダメとなったら、残る選択肢は「電気を使わない」ということになるのか。環境倫理学は、電気を使わないことを人々に求めるのか。
 電気を使わずに暮らすしか方法はないのか?
そうではない。先に述べたように、環境倫理学は環境にやさしい社会のしくみの構築を目指すものであり、電気を使用する「個人」に自己犠牲的な努力を求めるものではないからだ。

 むしろ、ローカルな環境破壊をもたらさない再生可能エネルギー開発の可能性を探ることが、環境倫理学の求めるところである。ニュースを見ていると、再生可能エネルギーをめぐる地域紛争ばかりが目につくが、一方で地域に受け入れられているものも存在する。こちらに目を向けることが必要だろう。
 事例を見てみると、再生可能エネルギー開発が地域に受け入れられるか否かには、いくつかのポイントがある。一つは「地域住民の参加と利益の還元」という点である。2012年に秋田県にかほ市に建設された「生活クラブ風車・夢風(ゆめかぜ)」が、一つのモデルを示している。

 この風車をつくった生活クラブは、風車を通じて地元にかほ市との積極的な交流を行ってきた。具体的には、地域の農作物を生活クラブの消費材の原料にしたり、風車を地元の小学生のエネルギーに関する授業の教材として開放したりした。その結果、夢風は地元の人にとって特別な「顔の見える風車」になっているという。

⚫︎地方と大都市の「不公平」の問題
 もう一つは「小規模で分散型」という点が重要である。再生可能エネルギーの特徴は、小規模の発電ができることである。これは欠点ではなく美点である。例えば島などでは、外から電力を運んでくるよりも、島の中で使う分だけ発電したほうが効率がよい。このように再生可能エネルギーは、「地元の電力を賄う」のに適したシステムといえる。

 かねてより、「地方」で大規模に発電して、それを送電線で大都市に送るというやり方は問題視されてきた。送電中の電気のロスもあるし、また電力の生産地と消費地の乖離による不公平(例えば電力を相対的に使っていない「地方」が、事故が起こったときには被害に遭う)もある。再生可能エネルギーで近場の電力を賄うようになれば、この状況を緩和することができる。

 立地に関していえば、都市部の建物の「屋根」などはソーラーパネルの適地であろう。ポイントは、再生可能エネルギーの規模感と電力需要をうまくマッチングすることである。そこから、太陽光発電は評価しつつメガソーラーは批判するという視点が生まれるだろう。

 逆に再生可能エネルギーをめぐって紛争になっている地域を見ていくと、外部資本による開発業者が突然やってきて、地元住民に十分説明せず事業を始め、地元に利益が還元されていない(発電された電気も地域の外に行ってしまう)。これでは地元の人々が不信感を持つのは当然のことだ。
 つまり、再生可能エネルギーの設置を進めるにあたっては、他の開発行為と同様に、地域住民の十分な理解と同意を得ることが重要である。エコな発電方法である反面、発電施設をつくることは「地域開発」でもあり、地元の理解と同意がなければ、それは「迷惑施設」にもなりうるということだ。
 このことをわきまえずに、「脱炭素社会の構築のため」という大義名分だけで強引に事業を進めるならば、余計な地域紛争を増やすことになるだろう。

⚫︎「住民エゴ」は悪徳ではない
 なお、こういった事情で再生可能エネルギー施設の設置に反対する住民たちに対して、「自分たちの住環境を優先して脱炭素社会の構築を妨害するエゴイズムだ!」として非難する風潮があるが、これは倫理学的に問題がある。
 このように言うと、「住民のエゴイズムを指摘して何が悪いのか」と反論されるかもしれない。しかし、これをエゴイズムと言ってしまったら、住民は自分たちの権利を主張することができなくなるようにも思われる。

 興味深いことに、アメリカの環境倫理学には、こうした住民エゴ・地域エゴは悪徳ではないという議論すら存在する。欧米では、住民エゴ・地域エゴにあたる言葉として、NIMBYという言葉が使われる。
 NIMBYとは“Not in my backyard”の頭文字をとった言葉で、「私の裏庭ではやめてくれ(他人の裏庭でやってくれ)」という意味である。この問題については、拙稿「「地域エゴ」の何が悪いのか?――NIMBYから考える環境倫理」で詳しく紹介したので、そちらを参照してほしい。

 加えて、本稿に関連する論考として、「自然エネルギー開発に冷水を浴びせる――ウィナー『鯨と原子炉』の示唆と予言」もお読みいただきたい。これらが再生可能エネルギーにまつわるグローバルとローカルの衝突を考える際の手がかりになれば幸いである。

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