「昆虫食」は本当に飢餓対策になるのか?サル化する社会で私たちがすべきこと
文春オンライン より 230430 内田 樹,堤 未果
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⚫︎昆虫食ブームの背景にある“不都合な予想”
堤 最近、急に流行り出した「コオロギ食」、内田さんはもう食べましたか?
内田 いや、食べてないです。昆虫食の話はどうしてまた急に出てきたんですかね。
堤 もともとは,2013年に国連食糧農業機関(FAO)が発表した報告書がきっかけでした。
2050年には人口が90億を超えて食糧危機が深刻になるから、今後は、育てるのに必要な土地や水や餌が、家畜よりずっと少なくて、環境負荷も小さい昆虫を、タンパク源として活用すべき、という内容です。
これを世界経済フォーラムも支持していますし、日本ではSDGsの絡みで推進キャンペーンをし始めたんです。内閣府の「ムーンショット計画」という未来計画図の中にも、昆虫食が入っていますよ。
内田 昆虫食のキャンペーンの背景には、飢餓の到来について、確度の高い予測が出ていることもあるんでしょうか?
堤 最新のものですと、去年FAOやユニセフを始め、5つの国連機関が共同発表した「世界の食料安全保障と栄養の現状」というレポートで、たとえコロナが落ち着いて世界経済が回復したとしても、2030年には世界人口の8%が飢餓に直面する、という予測を出しています。
ただ、飢餓問題の判断基準には賛否両論あって、食糧の絶対量の不足ではなく、深刻なのは、あっても価格が高すぎて手に入らないアクセスの問題が大きい。
もし生産そのものの減少を危ぶむのなら、劣化した土壌の再生や農法そのものの転換が先だし、アクセス格差の問題はグローバル化の中で寡占化した産業構造の見直しが急務です。
急に出てきたこの「昆虫食キャンペーン」を飢餓対策というのは、疑問がありますね。むしろ新しい有望市場として世界から注目されている方が大きいでしょう。何せ昆虫は、2025年までに1000億円規模になる巨大市場ですから。
内田 これまで食べたことのないものを工夫して可食化するというのは食文化の偉大な達成ではあるわけです。これまでも「こんなもの食えるか」というような動植物を人間は何とかして可食化してきた。焼いたり、煮たり、蒸したり、燻したり、乾燥させたり、晒したり……あらゆる手立てを尽くして食えないものを食えるようにしてきた。
不可食物の可食化こそ食文化の偉大な功績です。
でも、だからと言って、別に今急にコオロギ食べろと言われても……それって、別に食文化の高度化とか、多様化という文脈での出来事じゃないでしょ。
⚫︎昆虫食を承認したEUの現状は…?
堤 はい、そういうのとは全然違いますね。だからメディアや芸能人が「意外に美味しいです!」というのを聞いても、内田さんのように「えええ、なんで今コオロギ?」と首を傾げて食指が動かない人が少なくないのも無理はありません。
イナゴを食べてきたじゃない!と言われても、それなら尚更、日本人が今までずっとコオロギだけは食べてこなかった理由があるわけですし。漢方薬の世界ではコオロギは妊婦さんにはNGでしょう。甲殻類アレルギーがある人にはリスクがあるのに、いきなり給食に入れてしまう学校にも違和感を感じました。あれはアメリカならすぐに親が訴訟を起こすでしょう。
今後大量生産する際に使われるゲノム編集技術の問題もあるし、「ムーンショット計画」で将来の持続可能な食料として昆虫推進を公表しているのなら、政府はこの辺りは拙速にせず、情報公開しながら民主的に進めていかなければダメだと思います。
実はコオロギに限らず、遺伝子組み替えでもゲノム編集でも、今日本は食について企業ファーストが年々強くなっているので、私たち消費者は置き去りにされていることにちゃんと意思表示しないといけません。
昆虫食を承認したEUでも、イギリスは早速給食に導入、イタリアやハンガリーでは国民の声を聞いた閣僚たちが予防原則をとって昆虫食を規制する法律を可決するなど、あそこも一枚岩ではないですからね。
今日本でコオロギ養殖は畜産農業の枠で認定農業者として国からいろいろな補助金がもらえますが、昆虫食が推進される一方で、国内の酪農家や畜産農家は政府に「親牛1頭処分で15万円支給」などと言われて輸出産業の犠牲にされている。国にとっての、食の安全保障とは何か?と思わざるをえません。
内田 資本主義と食文化はそもそも食い合わせが悪いんです。資本主義的に考えると、地球上の全人類が、同じ原料から作られた同じ食品を同じ料理法で食べるという食文化が均質化された状態において利益が最大化する。
だから、何とかして全世界の人間が同じような食品に欲望を感じるように誘導します。食文化が均質化すれば、大量生産、大量流通、大量消費が可能になりますが、食文化が多様化していると、それができない。
資本主義企業が食に関与してくると、食文化を均質化すること、食べられるものの種類を減らすこと、調理法を限定することをめざすようになる。これは当然なんです。
この点で資本主義は食文化と正面衝突します。というのは、人類が食文化をこれまで豊かなものにしてきたのは「飢餓の回避」のためだからです。
⚫︎食文化の発達の陰にあった「他者の欲望を喚起しないこと」
飢餓を回避するためには、できるだけ食文化がばらけていた方がいい。隣接する集団とは違う食物を主食にしていた方が飢餓リスクは切り下げられます。ある集団はコメを主食にし、ある集団は小麦を、ある集団はイモを、ある集団は豆を、ある集団はトウモロコシを…というふうに主食がばらけていると、例えばある年コメが凶作になっても、コメ以外の植物を主食にしている集団は飢えずに済む。人類全体としてはそうやって生き延びることができる。
食において最も重要なのは「他者の欲望を喚起しないこと」です。
ほとんどの食文化圏では、主食の上に独特の調味料をかけますが、それは多くの場合発酵食品です。発酵食品の放つ匂いというのは、その食文化圏内の人にとっては食欲をそそるものですけれども、外部の人からは「腐敗臭」にしか感じられない。
他者から「あいつらゴミ食ってる。げえ、気持ち悪い」と思われることが食の安全保障上ではきわめて効果的なんです。他者の欲望を喚起しないから。人類はそういうふうにして食文化を深めてきたんです。
堤 それは興味深いですね。食文化の多様性が飢餓リスクを回避するとなると、この間世界中で勧められてきた食のマクドナルド化は、まさにその真逆、持続不可能な未来へまっしぐらですね。
内田 まったく逆です。全員で同じものを食べるように仕向けているわけですけれど、これが一番飢餓リスクが高い。
堤 企業側からすると、食の嗜好が文化によって違う方が効率が悪いから、さまざまな仕掛けをして画一化された食を好むように持っていくんですよね。魅力的なマーケティングで惹きつけられながら、添加物や味の濃さや、たくさん加工されて自然から遠くなった食べ物を食べるほどに、味覚も麻痺していきますから。
私が何度か行ったインドは、もともと豊かな食文化がある国ですが、ある時から「潰瘍性大腸炎」になる人がすごく増えたんですね。食の西洋化と輸入の加工食品がたくさん入ってきたのが主な原因だと言っていました。
私自身も、学生の時から長く住んだアメリカで加工食品やファーストフードを食べていて胃腸の病気になりましたけど、帰国して食生活を変えたら、今度はファーストフードの方が味が濃すぎると感じるようになった。舌がおかしくなってたんですね。
⚫︎「企業が農業に参集するのに100%反対です」その理由は…
豊かな四季と湿度をもつ日本に帰国して、多様な食文化に感動しました。お米の品種だけでも300種類以上あるというのは有事にとても心強い話です。
なのに、政府はどんどんお米の種類を減らして、農業の企業参入を強力に後押ししている。つい先日も企業が農地を買いやすくなるよう、また規制緩和していて、自国の食料自給を守るどころか危うくしているとしか思えません。
内田 僕は、企業が農業に参入するのには100%反対です。絶対に企業に農業をさせてはいけない。というのは、農業が成立するためには、「農業ができる環境」を整備することが前提にあるということを企業は理解していないからです。
森林、海洋、河川、湖沼といった生態系がきちんと整っていてはじめて農業は成立します。伝統的な農業従事者は、山林や河川の保護整備を「不払い労働」として担っていた。山に入って下枝を刈ったり、水路や道路を整備したりということは日常業務として行っていた。
でも、企業が農業に参入してきたとき、彼らは「農業ができる環境の整備コスト」を負担するでしょうか? 僕は絶対にしないと思います。資本主義企業の本質は「コストの外部化」です。できる限り、コストは誰かに押し付ける。
この場合、環境保全コストはたぶん地元自治体に押し付けるでしょう。自分たちはこれだけの土地を買った。その土地については、生産性を高めて、価値の高い農作物を生産することは保証する。
でも、自分の土地でもない山や森や川の整備コストは引き受ける義理はない。そんなものは自治体が税金で行うべきだ。企業は必ずそう言います。「農業ができる環境を整備するのは自治体の責任であり、自治体がそれを果たさないというのなら、われわれはここから出てゆく」と、必ずそう言います。
企業を誘致した自治体は、それで法人税が入るとか、雇用が創出されるとか、地元への経済波及効果があるとか、そういう算盤ははじいているでしょうけれども、企業が農業できる環境整備コストを負担することについてはたぶん何も考えていない。
そのうち、環境が劣化して農業が不可能になったら、企業はさっさと撤退するでしょう。後には巨大な耕作放棄地と、もう農業を営むことができなくなった破壊された生態系だけが残る。
堤 グローバル化の悪い副作用ですね。企業は自由にどこでもビジネスができて、法人税と人件費が一番安くて環境規制が一番緩い国で生産し、輸出して儲ける。使えなくなったら次へ行く。これは農業でも漁業でも林業でも問題は全く同じです。
⚫︎平均寿命6年の株式会社に100年スパンの農業を担えるのか
かつての「緑の革命」も、化学肥料を大量に使った大規模農業で、収量は著しく増加して利益が上がったところだけ注目されていますが、実は内田さんが今言ったような、環境汚染や格差拡大など、社会的、環境的コストを現地に押し付けていった事は評価基準から抜け落ちていたのです。
その反省がないままに、今、再びアフリカで「緑の革命2.0」が進んでいるので、考え方の根本が全く変わっていません。この本にも出てきますが、大口出資者のビル・ゲイツさんが「今回はデジタル化するので、農薬や化学肥料を使いすぎないように調整できるから大丈夫」という始末です。
内田 そもそも農業というのは、「右肩上がり」に成長するものじゃない。去年と同じだけの収量が得られたら、それで100点というものです。製造工程が管理できないんですから。
工場での工業製品の製造だったら、理念的には100%工程管理できますよ。でも、農業では無理です。種を蒔いたあとは、日照や降雨や台風や病虫害のような自然の干渉を人間は完全には阻止できない。
収穫期にどれだけの質のものが、どれだけとれるのかもわからない。製造工程が完全管理できない活動に、製造業のアイディアを適用しようとしても無理なんです。仕様書を書いて、規格通りの原材料を揃えて、工程管理すれば、納期に、注文しただけの個数の製品ができ上るということは農業では起きない。
農業の基本は「長期的定常」です。凶作の年もあるし、豊作の年もあるけれど、数十年単位で均すとまあ「食える」だけの収量がある。
それでいいんです。孫子の代に「食える」農業を手渡すことができれば上出来なんです。Grow or Die(成長か死か)なんて言葉はここには通用しない。
林業なんかはもっと時間が長いですよ。今植えた木が売れるだけのサイズになるのに100年かかる。それを伐採して、お金を手にするのは孫の代です。
こういう作業は、今の自分と孫とがいずれも寿命数百年の「多細胞生物の一部」であるという実感がないと成立しません。
株式会社の平均寿命はわずか6年です。「老舗」といわれる会社だってどんどん事業内容を変え、別のものになることでかろうじて生き延びている。
花札作っていた会社がゲーム機メーカーになり、オーディオ作っていた会社が証券を売る。そんな事業体に100年スパンの「同じ仕事」を担えるはずがないじゃないですか。
堤 『サル化する世界』に出てきた、私たちの社会の時間意識がどんどん短くなり、矮小化してしまっているという話ですね。あの例はわかりやすくて腑に落ちました。
内田 「サル化」というのは、時間意識の縮減のことです。「朝三暮四」というお話に出て来るサルは朝の自分と夕方の自分の間に自己同一性を維持できない。朝の自分の腹がふくれるなら、夕方の自分が腹を減らすことは気にならない。
当期利益至上主義というのはサルになることです。当期の利益さえ確保すれば、先はどうなるか知らない。当期の利益が確保できなければ、売れ行きが落ち、株価が下がり、会社は倒産する。当期をなんとかしないと先がないんです。「先のことなんか考えていられない」というのは株式会社の本音なんです。
⚫︎農業を守ろうとした時の一番大きな敵は「サル化」
でも、生態系を守り、農作物を再生産し続けるためには、100年単位のタイムスパンで、先祖も自分たちも孫や子も、みんな一つの運命共同体のメンバーだという広々とした時間意識が必要です。
ヒトは時間意識を拡大することによって他の霊長類から分離して、文明化したはずなのに、現代人の時間意識は逆にどんどん縮減して、「人間以前」に退行している。僕はこの文明史的な変化を「サル化」と呼んだのです。
堤 四半期利益だけしかみない株主至上主義によって、私たちは人間じゃなくなっていくんですね。
私が今心配しているのは、そのサル化のスピードが、デジタルテクノロジーの進化に押されて、私たちも制御できないほど速くなってきてしまっている事です。100年単位で未来を想像するためには、まず一旦人間に戻らないとなりません。
AI然りチャットGPT然り、遺伝子工学然り、人間のバイオリズムを遥かに超えたスピードに飲み込まれないように、自分を見失わないようにしないと。
内田 農業において人間が管理できるのはごく一部に過ぎません。
ですから、おのずと自分たちが享受している農産物は「自分の作品」ではなくて、「天の恵み」だという控えめな自己評価を抱くようになる。この控えめな自己評価が、先祖たち子孫たちすべてを含む広大な共同体への帰属感と、広々とした時間意識をもたらす。
堤 この本のために関わった多くの農業関係者の方々との出会いを通じて、私は、農業ほど画一化にそぐわない分野はない、と改めて気づかされました。
そして、パンデミックやウクライナ危機で農業資材が入らなくなった日本が今立ち返るべき「思想」が、この国にはちゃんと残っているのを感じました。
日本には水田ひとつとっても、一つの小宇宙が入っていると言われるくらい、豊かな生物多様性があります。
先日、兵庫県豊岡市のコウノトリプロジェクトを成功に導いた中貝前市長と直接ゆっくりお話しする機会を頂いたのですが、「私達は地域一丸となって生物多様性を守りぬく」という思想を地域で共有したことが、結果的に世界で高く評価されて、素晴らしいブランド価値を作った事に、感銘を受けました。自治体の大きさに関係なく、目指すものがどこにあるかが付加価値を生むんですね。
内田 ご存じでしょうけれども、豊岡ではコウノトリが来て繁殖できるような田んぼを作ろうとして、農薬を使わない農業を続けていたら、とれるお米が予想外に美味しいことがわかって、豊岡の特産品になった。
中貝前市長はこのお米を抱えて世界中にセールスしていました。日本列島は世界に類を見ないほど理想的な農業環境なんです。これを守らなければ。
堤 本当にそうですね! 豊岡のように、自然の循環に沿うことで結果を出した素晴らしいケースが、日本全国にたくさんあることに、私は希望をもらいました。足元にある宝ものに気付けば、今一番大事にすべきものがはっきり見えてくると思います。
農業という100年単位の価値を持つものを守ろうとした時、一番大きな敵になるのは、ビル・ゲイツさんじゃなくて、内田さんの言う「サル化」でしょう。
人間でいられるように、長い時間意識を忘れないように毎日を生きようと思わされる対談でした、今日は本当にありがとうございました。
内田 こちらこそありがとうございました。
(ジュンク堂梅田本店にて開催)
(内田 樹,堤 未果/ライフスタイル出版)
💋人間の歯の構造は昆虫食には適してないのも、昆虫が最大動物群にも関わらず
人類の歴史上の食の主対象となってないのも、生物学的に不適切な証
生きる=食べるにも関わらず!