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量子コンピューター「黎明」とスパコン「富岳」の連携がスタート 2025/02

2025-02-13 02:12:00 | 気になる モノ・コト

量子コンピューター「黎明」とスパコン「富岳」の連携がスタート、世界初のハイブリッド量子スーパーコンピューター
 Gigazain より

アメリカ・コロラド州に本拠を構える量子コンピューター企業・Quantinuum(クオンティニュアム)と、スーパーコンピューター「 富岳」を擁する国立研究開発法人理化学研究所(理化学研究所)が2025年2月12日に、クオンティニュアムの量子コンピューター「黎明(れいめい)」の設置を完了したことを発表しました。
 今後、黎明は富岳と連携して科学の課題に取り組んでいきます。

量子コンピュータ「黎明」が理化学研究所で本格稼働、量子ハイブリッド高性能コンピューティング新時代を切り拓く
 ~理化学研究所の世界最高水準の施設に設置された量子コンピュータ「黎明」は、物理、化学、その他の応用分野における量子コンピューティング技術の進歩をリード~ | Quantinuum – クオンティニュアム株式会社
https://quantinuum.co.jp/20250212-2/

 量子コンピュータ「黎明」が理化学研究所で本格稼働、量子ハイブリッド高性能コンピューティング新時代を切り拓く | 理化学研究所
https://www.riken.jp/pr/news/2025/20250212_1/index.html

World's 1st hybrid quantum supercomputer goes online in Japan | Live Science
https://www.livescience.com/technology/computing/worlds-1st-hybrid-quantum-supercomputer-goes-online-in-japan


 兵庫県神戸市の理化学研究所計算科学研究センターで稼働している「富岳」は、記事作成時点では世界6位の計算速度ですが、かつては世界的な性能ランキングを総なめしたこともあるスーパーコンピューターです。

 日本のスーパーコンピューター「富岳」が4つの世界ランキングで1位を獲得 - GIGAZINE


 そして、2025年2月12日に埼玉県の理化学研究所和光キャンパスに設置されたクオンティニュアムの黎明は、電磁場で荷電粒子(イオン)を保持することで、現行の量子コンピューターとしては最も高い精度での基本演算を行うことが可能な20量子ビットの イオントラップ型量子コンピューターです。
 クオンティニュアムの社長兼CEOであるラジーブ・ハズラ氏は「今回のマシン設置完了は、私たちの量子技術がアメリカ国外で初めて運用が開始されることを意味し、
 弊社の世界戦略においても極めて重要な一歩です。理化学研究所の卓越した研究者の皆様に弊社の開発したマシンをご利用いただくことにより、前例のない科学的ブレークスルーの達成に貢献できると信じています」とコメントしました。

 製造が比較的容易な「超伝導量子ビット」で動作するほとんどの量子コンピューターとは異なり、黎明は電磁場でトラップしたイオンをレーザーで制御するイオントラップ方式を採用しています。
 トラップされたイオンを量子ビットとして使うことにより、量子ビット間の接続を増やし、量子ビット同士の重ね合わせや量子もつれ状態が安定して続く時間である コヒーレンス時間が長くなるため、量子コンピューターはより安定した性能を発揮することができます。

 クオンティニュアムの量子コンピューターが富岳の連携相手に選ばれたのは、量子ビットを物理的に移動させる「イオンシャトル」により、複雑なアルゴリズムを柔軟に実行させることが可能なのが理由だとのこと。

 ノイズによる計算エラーが課題となる量子コンピューターでは、量子ビットの精度である「忠実度」を高めるエラー訂正技術が不可欠です。
 そこで、クオンティニュアムはイオン量子ビットをグループ化して「論理量子ビット」とすることで、従来の物理量子ビットに比べてエラー率を800分の1に抑えることに成功しています。

 量子コンピューティングの膨大なエラーの原因となる「ノイズ」を800倍抑える次世代技術をMicrosoftとQuantinuumが開発したと発表 - GIGAZINE

 理化学研究所計算科学研究センターの佐藤三久氏は「黎明の低いエラー率と全結合性により、我々の量子ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)ハイブリッドプラットフォームの研究の可能性を大きく広げることができると考えています。
 クオンティニュアムの量子コンピュータ『黎明』を富岳と連携させることで、科学研究の新境地を拓(ひら)くことができるものと期待しています」とコメントしました。
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2025年、日本がもっと「後進国になる」根本理由 2025/01

2025-01-06 01:48:22 | 気になる モノ・コト

2025年、日本がもっと「後進国になる」根本理由
  東洋経済Online より 250105  野口 悠紀雄:一橋大学名誉教授


 この10年の間に、世界の多くの国々が成長を遂げたのだ。
そして、日本は変わらなかった
 世界はこの10年間に大きく変わった。
しかし、日本ではこの10年間、時計の針が止まったように、何も変わらなかった。
 日本の地位が大きく低下したのは、当然のことだ。昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。
 野口悠紀雄氏による連載第137回。

 10年前、日本は世界第3位の経済大国だったが、2025年には第5位に
今年は終戦80年になる。私は2015年に、『戦後経済史』という本を東洋経済新報社から刊行した。この時は、戦後70年だった。

 いま改めて読み返してみると、この10年間に、世界が大きく変化したことに驚く。2015年には、GDPの規模で、日本は、アメリカと中国についで、世界第3位だった。

 中国のGDPは、2010年に日本のGDPより大きくなっていたのだが、差はそれほど大きくなかった。私は、2014年に刊行した 『数字は武器になる』(新潮社)で、国の面積をGDPに比例した図を描いて、「実際の国土面積では取るに足らない日本が、中国と同じくらい」と書いた。
 しかし、いまや中国のGDPは日本の4.5倍だ。GDP比例の世界地図を描き直して見れば、日本は、中国の陰に隠れてしまいそうだ。

 そして日本は、GDPの規模でドイツに抜かれ、世界第4位になった。IMFの予測によると、2025年にインドに抜かれて、世界第5位になる。近い将来に、イギリスやフランスに抜かれる可能性もある。

 GDPの規模より重要なのは、1人当たりGDPで表される国の豊かさだ。
G7諸国の1人当たりGDPを見ると、2015年においては、日本はG7中で第6位だった。
2000年には日本はG7諸国中のトップだったので、2015年時点ですでに日本の凋落ぶりは顕在化していたのだが、さらに驚くのは、2015年と2024年との比較だ。

 この間に、日本以外の国の1人当たりGDPは、大きく増加している。
アメリカの場合には、実に50%の増加だ。
ヨーロッパ諸国も、イタリア以外は、20%台後半から40%台の増加になっている。
 ところが、日本の1人当たりGDPは、この間に約5%減少している。
つまり、この10年間、日本経済は歩みを止めてしまったのだ。

⚫︎世界各国が変わる中で、「止まったままだった日本」
 成長しているのは、G7諸国だけではない。アジア諸国の成長はもっと顕著だ。
日本は、2024年に一人当たりGDPで韓国や台湾に抜かれた。
こんな事態になるとは、10年前には考えたこともなかった。

 この10年の間に、世界の多くの国々が成長を遂げたのだ。
そして、日本は変わらなかった。だから日本の相対的な地位が低下したのだ。

「同じ場所にとどまるには、一所懸命に走らねばならぬ。もし別の場所に行きたいのなら、その倍の速さで走らねばな!」
 これは、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』で、赤の女王が発した言葉だ。
私はこれを「赤の女王の相対性原理」と呼んでいたのだが、最近では、キャロルが21世紀の日本を予測して、日本人に向けて発した警告ではないのかと思えてきた。

 この間に世界経済に起きた大きな変化の1つは、中国経済の成長だ。
しかし、2015年版『戦後経済史』では、中国について、中国が工業化に成功したことを、わずか数ページ書いたに過ぎない。 

 その当時の私は、中国の経済成長の影響を軽視していたわけではない。実際、2012年には、東洋経済新報社から『日本式モノづくりの敗戦』という書籍を刊行し、中国企業の重要性について述べた。
 その本のサブタイトルを「なぜ米中企業に勝てなくなったのか」としたのだから、中国経済の成長は重視していたつもりだ。しかし、実際に生じた変化は、予想を遥かに超えた。

⚫︎日本人の思考法と基準・尺度が変わらなかった
 このように、世界はこの10年間に驚くほど変わった。それにもかかわらず、日本は変わらなかった。日本国内では、この10年間、時間の進行が止まったようだった。
 そして、10年前の思考法と基準・尺度から脱却することができなかった。

 最近、それを痛感させられるニュースが3つあった。
1つは、日産とホンダの提携を伝える新聞記事だ。仮に提携が成立すれば、世界で販売台数がトヨタとフォルクスワーゲンに次ぐ世界第3位のグループが登場すると報道されている。これは、自動車の販売台数だけにとらわれた発想だ。

 しかし、時価総額で見れば、テスラは1.483兆ドルで世界第8位(2024年12月25日現在)。それに対してフォルクスワーゲンは、463.5億ドルで世界第425位。まるで比較にならない。
 両社の時価総額の差が示しているのは、自動車がEVと自動運転車へ大きく変化しつつある事実だ。それを考えれば、販売台数が世界第3位という尺度が意味を失っていることは明らかだ。
 もう1つは、シャープ関連のニュースだ。シャープは2016年に債務超過に陥り、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入った。その後、シャープについてのニュースを聞くことがなかったのだが、2024年5月に、テレビ向け液晶パネルを生産する堺工場を停止し、大型液晶パネルの生産から撤退するとのニュースが伝えられた。
 すると、この8年間、液晶パネルの生産は、変わりなく続けられていたわけだ。この記事の見出しは、「遅すぎた撤退」というものだった。シャープの社内では、8年間、時計が止まったままだったのだろうか?なお、2024年12月には、堺工場の一部がソフトバンクに売却されたと報道された。

 日本が変わらないことを痛感した3番目のニュースは、日本銀行が、12月19日、過去25年間の金融緩和策を検証する「多角的レビュー」を公表したことだ。
 2013年に導入された異次元金融緩和政策について、「導入当初に想定していたほどの効果は発揮しなかった」とした。
 しかし、これは、いま初めて明らかになったことではない。
導入して2年後の2015年に、すでに明らかになっていたことだ。
 異次元金融緩和政策は、2年間で政策目標を達成するとしていたのだから、失敗であることは、2015年の時点で明らかになっていた。
 だから、2015年で「多角的レビュー」を実施し、その時点で終了とすべきだった。
しかし、実際にレビューが行われたのは、その約10年後だった。
 この間の約10年間の歳月は、失敗した金融政策に固執しただけだったと言わざるをえない

 物価上昇率は、2021年まで2%を超えなかった。
仮に超えたとしても、日本経済を活性化することはなかっただろう。

 2022年以降の物価上昇率2%を超えたが、それは異次元金融政策のためではなく、世界的なインフレが輸入されたためだ。
 しかも、低金利に固執したため、異常な円安が生じ、物価高騰で日本の消費者の生活は貧しくなった。
 日本銀行の行内では、10年間、時計が止まったままだったのだろうか?

⚫︎日本は「ますます、ますます不思議になる」
『不思議の国のアリス』で、不思議の国に迷い込んだアリスは、curiouser and curiouser(ますます不思議になる)という有名な言葉を発している。
 日本経済の過去10年間を振り返ると、この言葉は、日本が抱える諸問題に対する日本政府や日本銀行の対応ぶり(あるいは、不対応ぶり)と、政権が次々に打ち出す奇妙な標語(例えば「新しい資本主義」)を予見し、それを形容する言葉としてキャロルが創作したものではないかと思えてくる。

仮にキャロルが生きていて日本の状況を見たら、これを修正して、curiouser and curiouser,and more and more curiouserと言ったのではあるまいか?




💋いつまでのさばる東大閥、戦時政策の放置、首都圏集中の愚、行政の不作為-不勉強、
  小選挙区制の弊害、統一模試の弊害
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財務省「国は赤字」と危機感を煽るが…「国の家計簿」を検証したら見えてきた、ニッポンの本当の台所事情【経済評論家が解説】 202501

2025-01-06 01:21:00 | 気になる モノ・コト

財務省「国は赤字」と危機感を煽るが…「国の家計簿」を検証したら見えてきた、ニッポンの本当の台所事情【経済評論家が解説】
 The Gold Online より 250105  塚崎 公義


「国は巨額の借金を抱えている」という言葉に,底知れぬ不安を感じている人も多いと思います。
 しかし,「国際収支統計」という統計資料にある「経常収支」から数字を読み解いていくと,認識と違う結果が見えてくるかもしれません。経済評論家の塚崎公義氏が解説します。

⚫︎経常収支は貿易収支、サービス収支などの合計
「国際収支統計」という統計があります。日本人(ここでは日本にいる個人および法人の意味、以下同様)が外国人と行った取引を記録したものです。
 そのなかで最も重要なもののひとつに「経常収支」があり、その内容は「貿易収支」「サービス収支」「第1次所得収支」「第2次所得収支」を合計したものです。

「貿易収支」は輸出から輸入を差し引いたものです。かつての日本は貿易収支が大幅な黒字でしたが、最近では多くの輸出企業が「輸出より、売れるところで作る」という方針に変わっているため、貿易収支はおおむねゼロ(原油価格で増減する)となっています。

「サービス収支」は,インバウンド旅行者が国内で支払う飲食費,宿泊費等々から,日本人旅行者が海外で支払う飲食費、宿泊費等々を差し引いたものです。
 インバウンドの消費は,日本人が働いて外国人が楽しんで対価を日本に払っているわけで,自動車等の輸出と同じようなものだ,ということで「サービス輸出」と呼ばれるのです。
かつては赤字でしたが,インバウンドが増加したので,最近では大体ゼロと考えてよいでしょう。

「第一次所得収支」は、日本人が海外から受け取る利子や配当から、日本人が外国人に支払う利子や配当を差し引いたものです。
 日本は、過去の貿易収支黒字が莫大な海外資産となっているため、利子や配当の受け取りが巨額であり、第一次所得収支は大幅な黒字となっています。

「第二次所得収支」は、途上国への援助が中心ですから、小幅な赤字です。

以上を合計した経常収支は、大幅な黒字となっています。

⚫︎経常収支は「日本国の家計簿」
 経常収支が重要なのは「日本の家計簿」だからです。家計簿が黒字ならば、給料の範囲内で暮らせているので、家計の財産は増えているでしょう。
 同様に,経常収支が黒字ならば,日本が海外に対して持っている財産が増えているのです。

 項目別に見ても、経常収支と家計簿は似ています。輸出とサービス輸出は、日本人が働いて外国人が楽しんで、対価を日本人が受け取るのですから、家計簿の給料と似ています。
 輸入とサービス輸入は、外国人が働いて日本人が楽しんで、対価を日本人が支払うのですから、家計簿の消費と似ています。
 第1次所得収支は銀行預金の利子、保有株式の配当、住宅ローンの利払いですし、第2次所得収支は赤い羽根共同募金ですね。

 もっとも、違いもあります。通常の家計簿は、現金(および銀行預金)を管理するためのものなので、株を買ったり、自動車を買ったり、住宅ローンを返したりするとマイナスになるかもしれませんが、経常収支は海外の実物資産や負債などを含めた「純資産トータル」を管理するためのものなので、そこは家計簿と違います。

 投資家が海外の銀行から預金を引き出して、その金で海外の株を買っても、海外に工場を建てても、海外からの借金を返しても、純資産内部での出入りなので、経常収支には含まれないのです。

⚫︎経常収支黒字は「我慢の対価」
 家計簿が黒字だということは、贅沢を我慢して給料の範囲内で暮らした、ということです。その結果、金持ちになったとしても、周囲から批判されるべきものではありません。経常収支黒字も同じです。
 かつて、米国から日本の経常収支黒字を批判されたとき、「賭けマージャンで勝ち続けたら友人がいなくなる」と心配した人がいましたが、家計簿の黒字と賭けマージャンの勝ちは違います。賭けマージャンの勝ちは他人が働いた金を使って自分が贅沢をするわけですから、友人がいなくなるのは当然であって、家計簿の黒字とはまったく異なるのです。

 当時の米国は、「日本が製品を輸出しすぎるから米国製品が売れず、米国民が失業している」ことを批判していたのです。それなら素直にそういってくれればよかったのに(笑)。

⚫︎経常収支黒字が円高をもたらすとは限らない
 経常収支黒字は、日本人が外国人との間で受け取る外貨が支払う外貨より多いことを示しています。そうであれば、受け取った外貨を売る人が増えてドル安円高になりそうですが、そうとは限りません。

 輸出企業は、受け取った外貨を売って社員に給料を支払いますし、輸入企業は輸入代金のドルを買うので、輸出入の貿易収支はドルの値段に直結します。
 しかし、日本の経常収支が黒字なのは海外からの利子配当収入が多いからです。
投資家は海外から利子配当を受け取ってもドルを売るとは限らず、「利子配当を使って海外の株を買い増そう」などと考える場合も多いので、ドル安円高になるとは限らないのです。

 最後になりましたが、日本は経常収支黒字が続いているので、海外に持っている純資産は巨額です。資産が巨額で、借金は少額です。
「国は赤字で借金が巨額だ」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、それは「地方公共団体ではない、中央政府」が民間部門との取引で赤字で借金をしているということですから、日本国と諸外国との取引についての話ではありません。

 誤解を避けるために「中央政府は」と言うべきだと筆者は考えているのですが、財務省は危機感を煽るために「国は赤字」と言っているのかもしれませんね(笑)。


 今回は、以上です。なお、本稿はわかりやすさを重視しているため、細部が厳密ではない場合があります。ご了承いただければ幸いです。
筆者への取材、講演、原稿等のご相談は「ゴールドオンライン事務局」までお願いします。「THE GOLD ONLINE」トップページの下にある「お問い合わせ」からご連絡ください。
  塚崎 公義  経済評論家
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世界の河川,35年間で衝撃の変化 科学者らが調査 2024/12

2024-12-14 03:33:19 | 気になる モノ・コト

世界の河川、35年間で衝撃の変化 科学者らが調査
  CNNニュース より 241214

  
 中国雲南省の長江。過去35年間で水量が大幅に減少した河川の一つ/Tuul & Bruno Morandi/The Image Bank RF/Getty Images

(CNN) 世界を流れる300万近い河川に現在、急速かつ予想外の変化が生じている。影響は飲料水から洪水のリスクまで、あらゆる面で劇的なものになる可能性がある。新たな研究から明らかになった。


 科学者らは地球上の河川一つ一つの水の流れを35年間毎日調査。衛星データとコンピューターモデリングを駆使して分析したところ、衝撃の結果が出た。

12日刊行のサイエンス誌に掲載された研究によると、世界最大級の河川では半数近くに相当する44%が毎年流れる水の量を減らしていることが分かった。

 アフリカ第2の河川コンゴ川や中国大陸を流れる長江、南米のラプラタ川は流量の減少が著しいと、論文の筆頭著者で米シンシナティ大学の水文学教授、ドンメイ・フェン氏は述べた。

対照的に極めて小さい上流の河川の場合は事情が異なり、流量は17%増加していた。これらの河川の大半は山岳地域を流れている。

 論文では変化の理由について詳しく調べてはいないものの、著者らによれば明らかな要因は人間活動や化石燃料の使用が引き起こす気候危機だという。これらは降雨のパターンを変動させ、雪の融解を加速する。

 従来の研究は最大級の河川の流量のみに注目する傾向があり、導き出される結果も特定の地点、特定の時期に限定されていたと、論文共著者で米マサチューセッツ大学アマースト校の土木環境工学教授、コリン・グリーソン氏は指摘する。

 同氏がCNNの取材で明らかにしたところによると、今回の研究で用いた手法で、研究者らは「対象となる全地域を一度に」眺めることが可能になった。こうして作成した河川のマップは、これまでで最も正確なものかもしれないという。

 世界の河川は研究者の想定以上に変化していたというのが、グリーソン氏の結論だ。一部の河川では1年間に流量が5%もしくは10%の割合で変動していた。「変化のペースとしては極めて早い」という。

 シンシナティ大のフェン氏によれば、河川は「地球の血管のようなもの」であり、流れのパターンが変われば重大な影響が及ぶ。

 川下での流量の著しい減少は、最も広大な箇所で使用できる水が減ることを意味する。これは地球上を流れる河川の多くに当てはまると、論文は指摘する。言い換えれば、人々の飲用や穀物、家畜に与えるための淡水が減るということだ。

 水の流れが遅くなれば、泥や小さな岩からなる堆積(たいせき)物を動かす力も弱まる。これはさらに下流で堆積物が三角州を形成する上で重大な影響をもたらす。三角州は海面の上昇に対して天然の防護物の役割を果たす。

 一方でごく小規模な河川については、その多くが地球温暖化に伴う氷雪の融解の影響を受け、川の流れは速くなっている。それによって種々の栄養物が魚類にもたらされるといった好ましい影響も起こりうる。

 ただヒマラヤ山脈などの地域では、流速の上昇が「想定外の被害をもたらす」こともある。下流へ運ばれる堆積物が増加し、水力発電所の稼働を妨げるといった事態がそれだ。

 川の流れが速まれば洪水の被害も悪化する。研究の結果、小さな下流の河川で発生する大規模洪水は、この35年以上で42%増加していることが分かった。

 英レディング大学の水文学教授、ハンナ・クローク氏は、当該の研究について、ごく小さな河川まで含めて広範囲に焦点を当てているのが重要だと指摘する。同氏は今回の研究に関与していない。

 クローク氏はCNNの取材に答え、最も甚大な洪水の一部は必ずしも大きな河川で発生するわけではないと指摘。逆に小さい河川や、普段は干上がった河川に突然水があふれ、人や車、建物を流し去るケースもあると示唆した。

 研究の次なる段階は、こうした河川の水流の変化がこれほど急速に起きる正確な理由を突き止めることにある。同時にそうした変化への対処法にも取り組む必要がある。
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クマの殺処分にかわいそうの抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること 2024/12

2024-12-13 00:54:19 | 気になる モノ・コト

〈クマの殺処分に「かわいそう」の抗議〉「(クマの代わりに)お前が死ね!」の暴言も…ネット社会で巻き起こる論争に抜け落ちていること
  Wedge より 241213  林 智裕


 『「友だちでした。何も言えない」クマに襲われたとみられる遺体、北大生と判明…キャンパスで沈痛な声、水産学部長「志半ばの若い命が失われたことに深い悲しみ」』──。

 今年4月に筆者が上梓した拙著『「やさしさ」の免罪符 暴走する被害者意識と「社会正義」』冒頭の記述である。

 本の執筆を始めたちょうど1年前のこの時期、クマによる被害人数は環境省が統計を取り始めた2008年度調査以来で過去最悪となっていた。
 全国統計では11月の暫定値時点で22年(76人)の2.8倍以上の212人、死亡例は22年の3倍となる6人に及んだ。

 今年も昨年に続き、日本各地で記録的なクマの出没が相次いでいる。秋田市内のスーパーでは、従業員を襲ったクマが3日にわたって立てこもる事件まで発生した。

⚫︎人里に出没するクマの殺処分を「かわいそう」と抗議するのは正義なのか(Freder/gettyimages)
 ところが、クマの殺処分には反対する声も相次ぎ、行政には抗議の電話が殺到している。
 これら抗議の大多数は、他人事でいられる地域からのものだ。安全圏から「可愛いクマが可哀想」「命をまもれ」などと安易に抗議すれば、自分が「やさしい」「ただしい」「知的」「いい人」「ヒーロー/ヒロイン」になれたかのような自己満足を手軽に感じることができる。一方で、クマの出没リスクに直面している当事者、被害に遭っている地域にとってクマの殺処分は死活問題だ。

 ところが、当事者の事情など抗議者にとっては「自己満足を邪魔するノイズ」でしかない。事実、抗議の矛先は被害者家族にまで向けられた。中には「(クマの代わりに)お前が死ね!」などの暴言さえ珍しくない。

 「秋田県から人間を追い出せば全てが解決する」などと主張する者まで現れた。抗議者側が、いかに当事者の人権や地域を軽んじているかが垣間見える。

⚫︎クマの出没とNIMBY問題の構造的類似
 これらの現象を単なる感情論として片付けるのは容易だが、そこには社会学的視点で捉えるべきNIMBY(Not In My Back Yard:私の家の裏庭には持ってこないで)問題としての意味がある。
 NIMBY問題とは、「公共のために必要な事業や施設であることは理解しているものの、自分の近所で行われることは反対する」という住民のエゴイズムに使われる概念である。主に空港や工場、発電所、ゴミ処理場、刑務所などが槍玉にあげられ、ときに保育園や幼稚園、児童相談所、病院や特別養護老人ホームなどが対象にされることもある。

 これも前掲した書籍に記したが、近年では「公共のために必要な事業や施設であることは理解している」前提や公共と「裏庭」の境界すら見失い、たまたま自分の視界に入った心的不快の排除、承認欲求などの自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派性に都合の良い主張ばかりが肥大化したケースも見られる。

 代償となる心的・物的・時間的コストやリソース、解決努力や譲歩といった負担の全ては他者に丸投げした上で、感謝どころか「悪役」として無限に叩けるサンドバッグにさえしようとする。
 挙句、それら甘えやエゴを「やさしさ」「社会正義」「被害者側」「アドバイスを与えてやった功労者」であるかのように正当化する立ち居振る舞いさえ珍しくない。

 クマをめぐる抗議活動も、この構造に類似性を持つ。
都市部やクマが生息しない地域に住む、本来であれば何ら当事者性を持たない抗議者が、現地のリスクや生活環境に無関心なまま当事者を差し置き、「クマを殺すな」などと「被害者」「当事者」然として声を上げる。
 一方で、クマ出没リスクに直面する地域住民や行政といった本来の当事者や被害者は苦しい実態を理解してもらえず、むしろ「悪役」のように糾弾される立場に追い込まれる。

 「自然を守れ」「生き物を殺すな」という大義名分は、クマ駆除に反対する抗議者の主張を正当化する強力な論理として機能していると、抗議者側は見做しているであろう。
 しかし、その裏には自己満足・免罪的な「やさしさ」(優しさ/易しさ)が潜む。
それら『「やさしさ」の免罪符』がいかに近視眼的であり、現実や人権を軽んじた詭弁・暴力・ハラスメントであるかを可視化させる必要がある。

 クマが脅威とならない地域からの抗議者らは、現地の被害など、まるで「取るに足りない辺境で起きた他人事」のように思っているのだろう。
 だからこそ、実態を真摯に学ばずとも「自分が格上の存在で尊重されるべき」であり「易しく」口出しできると、さも当たり前のように問題や当事者全てを見下している。
 要するに、彼ら彼女らにとって自分の視界内から「クマが殺される」という不快な出来事が排除されることは、地方に暮らす人々の生活や人権、命よりも遥かに重いということだ。

 今、社会で議論されるべきは「クマ殺処分の是非」などでは全くない。いかにこうしたノイズに相応の代償を返し、理不尽な暴力から当事者と地域を守るかだ。

⚫︎「やさしさ」が生む分断と社会正義の暴走
 こうした「やさしさ」の問題は、様々な社会運動に共通して見られている。
身近で分かりやすい例としては、たとえば都市開発やインフラ整備に伴う「樹木の伐採反対運動」も挙げられるだろう。 

 2024年夏、かねてより燻っていた東京都の明治神宮外苑の再開発をめぐる反対運動が話題になった。東京都知事選でも蓮舫候補が「いったん立ち止まる。都知事選の争点にしている」と主張し、都による環境影響評価や、開発が可能となった都制度の適用過程について「厳格に検証する」と訴えたことで更に注目を集めた。

 反対派の主張は「歴史的な景観を守れ」「緑を破壊するな」という感情的訴えが中心であったが、実際の開発計画には新たな植樹や持続可能性を考慮した取り組みが含まれていた。
 小池百合子候補(現都知事)は蓮舫候補とは対照的に、「争点にならない。なぜなら今立ち止まっているから」と説明。事業主体である民間事業者に樹木保全策の提出を求めているとした。「イチョウ並木が切られるとのイメージがあるが、そうではない。むしろ樹木の本数は増える」とも述べた。

 こうした反対運動は、自然保護という「やさしい」大義名分のもと、計画の全体像や将来的な利益、ときに事実さえも無視した感情的な論調に帰結しがちになる。
 詳細は記事「彼らはなぜ神宮外苑再開発反対のデマに乗ったのか(加藤文宏)」で述べられているが、明治神宮再開発反対運動には、数々のデマも発生していた。
 これらの目的は「当事者の為」なのか。そもそも「当事者」とは誰を指すのか。

⚫︎当事者を無視する〝批判〟
 こうした状況は、今年1月に発生した能登半島地震の復興を巡る議論にも見られる。

 発災直後から、被災地には遠方からのデマや、それらを基にした身勝手で現実離れした「べき論」がぶつけられた。その一端について、詳しくは能登半島で自らも被災した方自身が以下に綴っている。

『令和6年能登半島地震にかかる風評・流言・誤解の記録検証について~もう一つの「震災被害」を記憶する~』
1.地震直後も道は空いていた、渋滞は嘘だ
2.被災地への救助部隊派遣が遅いし少なすぎる、政府の怠慢だ
3.石川県は最初ボランティアに来るなと言ったが手のひら返しした
4.被災地がボランティアを拒んだせいでボランティアが来なくなった
5.ボランティアから参加費をとるのはおかしい
6.被災地を見に行ったがまだ「瓦礫」が片付いてない、怠慢だ
7.二次避難者から料金を徴収するのは酷過ぎる
8.万博/宿泊割/ブルーインパルス飛行/政府外遊をやめてその予算を復興支援へ回すべき

⚫︎おわりに.行政・政治を動かす為にデマや誇張は許されるか
 能登半島では今もなお、復興復旧が不十分な場所ばかりを敢えて探し「政府の対応が悪い!」と主張したがる人々も少なくない。
 一方で、復興復旧は政府と被災地、当事者らが協力して推し進めてきた。

 当然課題も残るが、既に驚くべき成果を挙げた部分もある。それらを知ろうとすらせず、外野から「やさしい」批判をすることは、同時に被災地の努力と成果全てを「上から目線で」否定・侮辱すること、熊害に安全圏から文句を付けているに等しい行為にさえ繋がりかねないことに注意するべきだ。

 残念ながら、被災当事者への侮辱を隠そうともしないケースも既にある。
意に添わぬ被災者に対し「じゃあ、ずっと瓦礫の下でお過ごしください」と言い放った者がいた。「能登ウヨ」(ネット右翼=ネトウヨという俗語・侮蔑語から)呼ばわりする者もいた。

 これらは「(クマの代わりに)お前が死ね!」と言い放った者と何が違うのか。

⚫︎社会的解決に向けた課題
 クマ殺処分や伐採問題、能登半島地震など数々の事例から見えてくるのは、「困難に直面した現実の当事者」を差し置いて、当事者性・被害者性・発言権を奪おうとする「外部の無責任な理想主義者」に社会がどのように対処すべきなのかという課題である。

 無論、現場のミクロ的な視点からだけでは見えない、解決できない課題もある。
理想主義の全てを否定する訳ではないし、外部の人間が当事者に一切関わるなというつもりも全くない。

 ここで問題になるのは、災害などの緊急時にさえ興味本位や自己愛を満たすこと、あるいは何らかの政治党派的な主張ばかりが目的の、現場と謙虚に向き合わず、コストも責任もリスクも負う気すら無きまま「当事者」「被害者」になり替わろうとする雄弁な部外者たち、そして、それらを無批判に歓迎し招き入れてしまっている人物や社会だ。

 「広く多様な共事者視点を交えた議論」とでも掲げれば「やさしい」「正しい」「知的」「冷静」「いい人」のように振舞えるかも知れない。

 それは、救急車の不適切利用にも似ている。消防隊が通報した人を誰も拒まないことは結局、限りあるリソースの奪い合いをもたらす。
 社会問題の場合、その議題や世論における支持は声の大きいものや数多くの投稿によってときに「事実」や「社会的正しさ(コンプライアンス)」をも凌駕してしまう。


⚫︎誰もが通報できる119番通報は、時に声を上げられない急患を苦しめる
 そうしたリソースの奪い合いは非常時であるほど、声をあげる力無き急患や被災者など、最も危機的な弱者に襲い掛かる。
 たとえばクマ出没問題で命の危機にある被害当事者に、「クマ殺処分反対派も交えて、共に冷静な議論するべきだ」などと迫っても、被害当事者は全く救われない。
 東京電力福島第一原子力発電所事故の場合、部外者からはデマだらけの「放射線被曝による住民の健康被害」ばかりが声高に叫ばれた一方、それら社会不安の拡散こそが被災者へ健康被害や震災関連死をもたらしたことはほとんど顧みられなかった。

 これまで社会問題を巡る議論では、無責任な外部からの干渉を批判すれば「分断を煽る」「排他的・暴力的」と見做され、逆に当事者や被害者の言葉を奪う行為を擁護・正当化することが「やさしさ」「正しさ」のように扱われてきた。
 それらを喝破し安易な免罪符を与えないことが、今後様々な社会問題の解決に求められる大きな課題と言えよう。
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