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⚠️ 70代元家電メーカー技術者の悔恨「メイド・イン・ジャパンを放棄してはいけなかった」 220412

2022-04-12 01:14:00 | 気になる モノ・コト

70代元家電メーカー技術者の悔恨「メイド・イン・ジャパンを放棄してはいけなかった」
 Newポストセブン より 220412  


「ものづくり」という言葉が日本の製造業の強さとして,さかんに世の中で言われるようになったのは1990年代後半のこと。団塊の世代がいっせいに定年を迎える「2007年問題」が取り上げられ,技術の継承が危ぶまれたこともあって注目をあびるキーワードとして浮上した。
 だが世間の耳目を集めたときにはすでに遅かったらしく、そのとき技術者たちは日本の製造業の隅へと追いやられた後だった。俳人で著作家の日野百草氏が、日本の「ものづくり」がどのようにして弱体化させられたのか、製造業の技術者として働いていた人たちが現場で見たことを聞いた。

【日本企業による深センの電子部品製造工場

 * * *
「よいものを作れば評価される時代がありました。それが儲かるだけのものに変わり、インチキしか作れなくなり、最後は関係ない仕事をしていました」

 筆者が教えるシニア向けの趣味サークルで語ってくれたのは70代の元技術者、出会った当時、といっても4、5年前だが「あの製品は私も手掛けてましたよ」と聞いて筆者は色めき立ったものだ。彼は家電メーカーの技術者だった。そう、かつての日本はあらゆる「ものづくり」で世界のトップに立っていた。

「あの時代、現場の技術者は次々とリストラされました。業界そのものを見限ってビルメンテナンスとかタクシー運転手とか別の分野に行ったのもいましたが、運良く腕を買われて中国や韓国の企業に手を貸した技術者もいましたね」

 柔和に笑う元技術者、70代は逃げ切りのように思われるかもしれないが、理系技術者に限れば、決してそうではなかったという。

「1980年代まではよい製品を作ればいい、ただそれだけでした。でも技術屋なんて本来そんなものです。会社が権力争い、出世競争をしていても私たちは蚊帳の外で、むしろそれでいいと思ってました。技術畑で出世する人なんて少ないし、まして一般(家電)でしょう、上が変な投資をしたって、技術を切り売りしたって止めようもない」

 詳細な経緯は本旨ではないため割愛するが、彼が工学の知識と経験で技術者として食ってきたことは確かだ。それは1990年を過ぎたあたりから怪しくなったという。

「多くのメーカーに銀行が介入してくるようになりました。うちもそうです」

 経営立て直しの名目で銀行から出向してきた連中はもちろん、よくわからない経営コンサルタントも送り込まれてきた。

「銀行から来た連中はコストカットが目的、よい物を作らなければいけないのに、よい物を作るなと言ってくる。とにかく金をかけずに、よい物でなくてもいいから売れるものを作れと。また営業は消費者の声ではなく大手家電量販チェーンの声を聞くようになりました。
 お金を調達するために銀行の言いなり、作ったものを置いてもらうために家電量販店のいいなり、それでうまくいくならともかく、ジリ貧になりました。コンサルも高い金をとって引っ掻き回すだけ、いよいよというときにはちゃっかり逃げてました」

 もちろんそれだけが原因ではないかもしれない。時代の変遷もあるだろうし、そもそも会社の経営ミスも重なっただろう、しかし彼は納得できないと語る。

「元はと言えば出世した営業や事務方がよくわからない投資や多角経営を繰り返したあげくの経営難でしたから、それで最初に詰め腹を切らされるのが技術屋って、納得できるわけがありません。海外生産、資金調達も含めた合弁という名目で中国や韓国といった当時の途上国に技術提供もしました。私も実際、教えに行きましたよ」

⚫︎隙間家電が多かったサムスンもLGも今や世界企業
 思えば日本企業は高度成長期以降、韓国や中国に技術を提供し続けた。冷戦下の1970年代、韓国のサムスン電子は五流企業で簡易な半導体すらまともに作れず、LSIは不良品ばかりだった。

「日本を目指したんですよ、VLSIを日本に学び、日本を抜くってね」

 そんなサムスンに1970年代から1980年代にかけてNECとシャープが協力したことは歴史上の事実である。世界の半導体メーカー上位10社中6社が日本企業だった時代もあったが、いまやサムスンは半導体メーカーとして世界一、コロナ禍にあっても2022年1~3月期の連結営業利益は世界的な半導体需要で前年同期比50%増となった。

 また1990年代に入ると韓国だけでなく中国にも工業技術や生産システムを教えた。三洋電機はいち早く安寧省の合肥市と合弁事業を展開、その三洋は東芝とともに、当時は得意な製品が電機扇風機、というレベルでしかなかった中国の美的集団(ミデア)にも協力した。

「個人的には不安でした。日本企業は1970年代から韓国に協力していましたが、1980年代には韓国もそれなりのものを作れるようになってました。たとえばゴールドスターの再生専用機とかテレビデオとか、なるほど値段なりとはいえよく作ってると思いましたよ」

 ゴールドスターといっても若い人は知らないだろうが、現在のLG(LGエレクトロニクス)である。いまや世界に100以上の拠点を持つ多国籍企業だが、当時は「ラッキーゴールドスター(金星社)」という社名だった。LGはそのラッキーのLとゴールドスターのGである。いまはなき第一家電(2002年経営破綻)や新栄電機産業(2003年破産)といった家電量販店のはしりともいえるチェーン店でよく見かけたものだ。

「メーカーを追い出されたり、独立して小さな工場を経営したりの技術者が中韓の仕事を請けてましたね。隙間家電(ジェネリック家電とも)が多かった。テレビデオとか1ドア冷蔵庫とか。それがいまやサムスンもLGも世界企業ですからね」

 そんな1970年代から1990年代に現役技術者としてものづくりをしてきた彼にとって韓国はもちろん、とくに中国の躍進は感慨深いと話す。

「あんなに繁栄するなんてね。私が中国に初めて仕事で行ったときなんて本当に貧しくて、みんなボロボロの自転車を漕いでましたよ。人民服はもちろん下着でウロウロしているお爺さんとか普通で、電機やガスすら通ってないような集落とかありました。着の身着のまま、畑で取れたものを食べるだけの家族とかね。それがコロナ前に旅行したら未来都市みたいになってるんですから、たった30年であんな風になるとは想像しませんでした」

 深センなどまさにそれだろう。世界的なメガシティをいくつも抱えるまでになった中国、いまや日本の新幹線が中国の新幹線として走り、日本の造船は中国のコンテナ船となって世界を駆け巡る。それらは輸出もされている。
 家電にいたってはハイアール(海爾集団)が三洋電機を吸収して「アクア」ブランドとして世界最大の白物家電メーカーとなり(旧三洋電機の海外工場の一部はTCL集団が買収)、東芝の白物家電はマイディア(美的集団)、映像部門はハイセンス(海信集団)に、NECと富士通のパソコン部門はレノボ(聯想集団)、パイオニアはBPEA(中国の投資ファンド)にそれぞれ吸収、あるいは傘下となった。教えていたはずが、立場が逆転してしまった。

「ハイアールなんて1980年代はいつ潰れてもおかしくない会社だった。共産主義しか知らない人たちでしたから、会社経営とか資本主義をよく知らないわけで、全部日本が教えたようなものです。それがいまや世界企業、中国も超大国ですからね」

 たった30年で逆転した。国際的な信用はともかく政治力、経済力、国際競争力のすべてにおいて最強、世界経済は米中二大国によるパワーゲームとなった。

「メイド・イン・ジャパンを放棄してはいけなかったんです」

⚫︎孫に工学部なんて私は勧められません
「メイド・イン・ジャパンは誇りでした。それがコストに見合わないから手を抜けとなり、手を抜きたくないのに予算を削られて、目をつけられれば営業にまわされる。営業も立派な仕事ですが、技術者にやらせるべきことは他にもあるでしょう。
 海外生産は仕方ないにしても、メイド・イン・ジャパンの技術だけは守らなければならなかった。それなのに、目先の利益と老後の逃げ切りだけを考えた経営陣や事務屋に滅茶苦茶にされたのです」

 こうした技術者の受難は1990年代以降、日本の「ものづくり」衰退と比例するかのように繰り返されてきた。

「飛ばされた先の若い上司に『みなさんパソコンを学ぶように』って言われたときはさすがに苦笑しました。なにを偉そうに、俺たちはパソコンどころかマイコンそのものを一からはんだで作ってたぞ、って。まあ、リストラのための嫌がらせなのでしょうが」

 もちろんパソコンが得意どころか黎明期から仕事道具でもあり趣味でもあった技術者ばかり、年齢だけでこうした判断をすることはエイジズムと呼ばれるが、これはおっしゃる通りの嫌がらせだろう。
 日本企業は失われた30年、まるで粛清のように「追い出し部屋」と呼ばれる部署に追いやったりもした。日本IBMやリコーなど名だたる企業がこの件で敗訴したが、研究者や技術者も無縁でなかった。ものづくりのプライドをズタズタにされた。
 それでうまくいったのなら構わないが、その場しのぎのリストラに過ぎなかった。多くのメーカーが中台韓の傘下、もしくは事業そのものの切り売りを続ける羽目となった。

「孫は国立の医学部に行きました。工学部なんて勧められません。それでも工学やりたいのなら日本なんて早めに脱出したほうがいいですね。いや、医療以外の理系全般かな」

 ものづくりの大先輩からこうした声を聞くのは悲しいが、現実であり実感なのだろう。ノーベル物理学賞の眞鍋淑郎博士に「I don’t want to go back to Japan(私は日本に戻りたくありません)」とまで言われてしまった日本。
 本稿はただ一人の技術者の話かもしれないが、現に日本の理系の現場が蔑ろにされ続けてきたことは事実。
 蔑ろといえば理研が600人の研究関係者を雇い止めにする、事実上のリストラをすることについてはどうか。

「驚きません。日本はそういう国ですよ。私もそうでしたから」

 メーカーがわかってしまうため詳しくは書けないが、研究所と企業の違いはあるにせよ、彼もそうした目に遭ってきた。

「理研に入れるってすごいことですよ。私の大学の出身者にもいますが頭の作りが全然違う。研究主宰も(雇い止めの中に)いるのでしょう? その下の研究者も含めて海外に出るでしょうね、日本企業は年食った研究者や技術者、とくに基礎(科学・研究)は雇いませんから。日本が心配ですよ」

 彼の部下にも海外に出てヒット製品を手掛けた技術者がいたという。その方にとっては生活のためだがリベンジマッチの意味もあったのかもしれない。それにしても、これが理研クラスの研究者で、時間は掛かるが世界を覆すような研究をしていた研究者だったら、と想像すると恐ろしい。

「私の話は小さな話かもしれませんが、そういうことをするから他国に技術が流れるんですよ。そんなことを国や(日本の)企業が30年間繰り返した結果が、いまの日本です」

 4月6日、日本の半導体を中心とした基幹インフラの供給、先端技術、機微技術を保護する経済安全保障推進法案が与野党賛成多数で可決された。この件に右も左も関係ないという点で危機感は感じられるが、案の定「事業者の事業活動における自主性を尊重」という横槍によるエクスキューズがついてしまった。

「待遇が悪いのですから流出は止まりませんよ。ずっとそうなのですから。大手だって技術部門の待遇は酷いものです。事務方にすれば『好きなことやってるんだからいいだろ』って感覚です。それで逃げられて、裏切られたとか、何をいまさらですよ」

 彼にすればまさしく「何をいまさら」なのだろう。「今だけ金だけ自分だけ」が跋扈して久しい日本、個々人はそれで構わないが、企業や研究機関、ましてや政府がそれでは衰退もやむなし、いまや日本の技術革新力は13位(WIPO・2021年)、科学技術指標によれば主要論文数は10位(文部科学省・2021年)、競争力ランキングに至っては31位(IMD・2021年)である。かつて世界の科学技術を牽引してきた日本が、GAFAMに代表されるような新世代をリードする先端・先進技術どころか旧世代の技術すら世界から取り残されようとしている。
 日本の宝である技術や研究を売り渡し、冷遇し続けた末路と言われても仕方がない。そもそも経済安全保障を謳いながら理研の600人を雇い止めにしようとしている。以前、拙筆『「理研600人リストラ」に中国人ITエンジニアは「不思議です」と繰り返した』でも書いたが、まったく意味不明である。

「現役時代から意味不明でしたよ、経営陣はもちろん、営業や事務方が何をしたいのか私たち技術屋にはさっぱりわかりませんでした。理研の研究者も同じじゃないですかね。それでうまくいってるなら私たちが悪いのでしょうが、傾くばかりだったのですから。ほんと、何がしたかったんでしょうね」

 韓非子の「千丈之堤以螻蟻之穴潰」(千丈の堤も螻蟻の穴に潰ゆ)ではないが、彼のような技術者はもちろん研究者、クリエイターといった個々の現場を軽視し続ける愚行、その積み重ねもまた「失われた30年」、日本衰退の一因である。資源大国でも食料輸出大国でもない日本が頭脳を冷遇し、放棄する。それも現在進行形である。本当に何をしたいのか、さっぱりわからない。


【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。



💋結局、目先の利益、株主優先主義、今優先。納得。
勤労の義務、給与=家計=生活=個人消費=なのに…
給与が企業において,経費やコスト扱いされて少ないが良いとされて…何の生産性.創造物のない株主優先に。

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