「もし日本という国がなくなったら」あなたは一人で生きていけますか?
PHPオンライン衆知 より 220419 松村圭一郎(岡山大学文学部准教授)
国家や社会を前提として生きる私たちにとって、その在り方を意識することは難しいことかもしれません。
しかしコロナ禍により、社会のあり方が根本から問われたと文化人類学者の松村圭一郎氏は言います。既存の仕組みや制度が機能不全に陥いる中で、便利な社会の「自由」は、さまざまなシステムや制度に依存したうえに成立していることが浮き彫りになったのです。
また世界で急速に進むグローバリゼーションによって、「領土」に住む人びとをコントロール下に置く「国民国家」という枠組み、統治の手法が当たり前ではなくなる可能性が現実味を帯びています。
同氏に「もし日本が明日なくなったら」というテーマのもと、「国家」の存在意義についてお話を伺いました。(聞き手:編集部/岩谷菜都美)
※本稿は『Voice』2022年2月号より抜粋・編集したものです。
⚫︎「国家」は本当に必要か
――アナキズムは一般的に「無政府主義」と訳され、暴力や無秩序のイメージを連想します。一方、人類学の視点からアナキズムを考察した『くらしのアナキズム』(ミシマ社/定価1,980円〈10%税込〉)では、人類の初期設定に立ち返って「国家」の存在意義を問い直しており、興味深く拝読しました。
【松村】古典的な人類学は、近代化していない「未開社会」を研究してきました。そこには国家や政府が存在しない。にもかかわらず、なぜか秩序が生まれ、社会が円滑に営まれている。必然的に「国家は必要なのか」という問いにぶつかるわけです。
人類学者のデヴィッド・グレーバーが述べるように、人類学はアナキズムという言葉を使おうが使うまいが、「国家」とはいったい何か、「国家」は本当に必要なのかを検討してきた学問だといえるでしょう。
――本書の「日本という国が明日なくなったらどうする?」という問いにはドキっとさせられました。
【松村】日本で暮らす人にとっては、生まれたときから「国」は自明の存在です。そのせいか国家の存在という大前提を疑うことなく、社会を支えているのは、市民というよりも政府や法制度だと思われています。
しかしコロナ禍により、既存の仕組みや制度が機能不全に陥り、社会のあり方が根本から問われました。
また、21世紀のインターネットや企業活動には国境がありません。市場には暗号資産という国家とは無関係に生まれた通貨が、中央銀行の管理から逃れて流通している。「国民国家」という枠組みによって「領土」に住む人びとをコントロール下に置く統治の手法が、当たり前ではなくなる可能性が現実味を帯びています。
このように不透明かつ流動的な世界において、アナキズムの視点は国家の下で政府に頼るだけではなく、いかに自らの生活を確立し、社会をつくっていくか、という新しい視座に開かれたものといえるでしょう。
フランスの人類学者マルセル・モースは、1920年代に発表した『贈与論』で、国家や政府がなくても人びとのなかには自然とルールが生まれ、義務を履行する倫理的なメカニズムが働くことを示しています。
――そもそもなぜ、国家は誕生したのでしょうか。一般的には、多くの人びとを統治するには、法や政府が必要だからとされていますね。
【松村】たしかに17世紀の思想家トマス・ホッブズによれば、人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」であり、暴力や対立を封じる絶対君主制による国家の存在が正当化されました。支配者にとって、ホッブズの理論は都合がよかった。以来、国家が当たり前の不可欠な存在であることが常識となったのです。
――ヨーロッパで国民国家が誕生する以前には、「国家」に近い体制は存在しなかったのでしょうか。
【松村】たとえばアフリカには、昔から多くの王国がありました。しかし、それらは近代国家とは明らかに異なります。最大の違いは、「王」はかならずしも「政治的支配者」ではないという点です。1920年代に著されたA・M・ホカートの『王権』には、「聖なる王権」という観念が、かつての王国に秩序をもたらしていたと記されています。
近代以前の「王国」では、古代エジプトにしても、インドや南米でも、王を太陽神として神聖視する信仰がありました。太陽神信仰は、農作物を育て、自然の恵みを与える太陽を、人間の生活に不可欠な存在として崇めたものです。天に浮かぶ太陽は何が起ころうと必ず朝に上り、一定の時間が過ぎると下っていく。この動きは「秩序」そのものです。
ところが地上の人間社会は、天変地異によって混乱が生じ、争いが起きるなど「混沌」としている。そこで、いわば宇宙の秩序を人間に移し替えるための器として、王を太陽と同一視したのです。王は太陽神の代理であり、その証として太陽を模した円形の王冠を身に着けました。
――絶対君主制時代の君主のあり方とは一線を画しますね。
【松村】たとえば、かつての王には自然秩序を体現する者として、数々のタブーが課されていました。一例を挙げると、大地に触れてはいけない。太陽はつねに宙空に浮いているからです。あるいは、まばたきしてはいけない。王の目は太陽そのものであり、瞼を閉じず太陽がつねに陰らないようにしなければならない。
仮に王がルールを逸脱して勝手な行ないをすれば、天の秩序を乱すことになるので、民が玉座から引きずり降ろしたのです。
王は民の平安と秩序を守る義務を負う。その限りにおいて特権的な地位にあった。それが原初的な「王権」のかたちでした。しかし、いつの間にか民が国家を維持する義務を負い、国と民の立場は逆転しました。
国家のために、国民は犠牲を強いられる。他国との戦争に勝つために、国民が命を投げ出すよう求められる――。社会に秩序をもたらす手段だったはずの国家の存在が、自己目的化してしまったのです。
⚫︎顔のみえる社会関係
――松村さんは、エチオピア南西部のコンバ村でフィールドワークをするなかで「国家」のあり方を意識し始めたそうですね。国家を前提として生きる私たちが失ってしまった視点を垣間見る瞬間はありましたか。
【松村】日本で暮らす私たちに比べて、コンバ村の人びとは「生きていく力」をもっていると感じます。
都市社会は、さまざまなインフラによって支えられています。都市部では24時間、コンビニエンスストアが開いていて、いつでも食べ物が手に入る。お金を払えば何でも購入でき、誰にも頼らずに1人で生きていける。ただし裏を返せば、お金がなければとたんに飢えてしまう。失業保険や生活保護など国の制度がないと生きていけません。
ところがコンバ村では、暮らしの多くの部分を自活できています。庭には野菜や果樹が育ち、畑には穀物が実り、飼育する牛からミルクも絞れる。たとえ国の機能が麻痺しても、人びとには生きていく知恵や手段がある。日本では、携帯電話を落としたとたんに身動きがとれなくなり、電気が止まればパソコンが開けず、仕事も回らない。便利な社会の「自由」は、さまざまなシステムや制度に依存したうえに成り立っているのです。
――また本書では、困ったらまず警察を呼ぶのはおかしいという指摘があり、目から鱗でした。たしかに日本では電車で痴漢に遭って周りに助けを求めても、誰も助けずに見て見ぬフリをする人が多い。
【松村】いつの間にか、日本では何か問題が起きたときに動くのは自分たち民間人ではなく、警察や駅員など公的な役割を担う人間だ、という感覚が染みついています。
しかし、目の前で困っている人を現場の人ではなく、遠くから駆け付けた人が助けるのは困難なケースもあります。災害時などもそうですが、いじめや虐待問題にも通じる話です。担任の教師や児童相談所の職員がクラスや家庭内の子どもの状況をすべて把握できるはずがない。むしろ、クラスメイトや近隣住民のほうが異変を察知できる可能性が高い。
つまり社会に生きる一人ひとりが身近な問題を把握でき、対処できる人間関係を築くことで、国の制度や家族関係も上手く機能するのです。
もちろん私が考えるアナキズムは、国家や市場の機能を否定しているわけではありません。時には、警察のような強制力をもった力を頼る必要もある。しかし、コロナや震災で直接、被害を受けた人のなかには、自分たちの力でなんとかしなければならない状況に陥った方もいたはずです。
国家のシステムが機能しないとき頼りになるのは、人びとが繋がる「顔のみえる社会関係」なのです。その重要性を忘れてはいけないと思います。