フロイト説はもう古い!? 最新心理学が「無意識は存在しない」と言う理由 消化と無意識の関係
現代ビジネス より 220909 ニック・チェイター
私たちの感情は脳が即興的に生み出しているに過ぎず、心には深い闇も秘密もない――という驚きの研究が発表された。
では、“無意識”はどうだろう。私たちの行動を影で支配するものか、感情と同じ瞬間の創造物か?
認知科学をリードする世界的研究者、ニック・チェイターの新刊『心はこうして創られる――「即興する脳」の心理学』から紹介する。
本記事は、ニック・チェイター『心はこうして創られる――「即興する脳」の心理学』(高橋達二・長谷川珈 訳)より、一部編集のうえ抜粋しています
⚫︎無意識とは何か?
氷山が海面の上と下に分かれているごとく,思考というのも意識として可視的なのは小さな頂上部にすぎず,巨大で危険な無意識が水面下に隠されている──この考え方は魅惑的だ。
フロイトとその後の精神分析家たちは、ひよわで自己欺瞞的な意識的な心の背後に隠れている力が無意識であるとみなした。
あるいは心理学者や心理療法士や精神科医は、心のシステムは二種類(かそれ以上)が存在していて、行動の支配権をめぐって闘争を繰り広げているのではないかと推測してきた。
つまり、速くて反射的で自動的な無意識的システムが一つ(かそれ以上)あり、それとは別に意識的で遅くて反省的な熟考型システムが一つあるのだ、と。
神経科学者たちも、脳には複数の意思決定システム(そのうち最大で一つが意識的に作動する)があり、どう考えたりどう行動したりすべきかについて複数の競合するオススメを生成しているのではないか、と提起してきた。
しかし、水面下に暗く巨大な質量を秘めた氷山という捉え方には、ひどく欠陥のある重要な前提が隠れている。
氷山なら海面の上も下も同じ物質であり、光の及ばぬ海中深くであろうと、陽を浴びてきらきら光る頂上部であろうと、氷は氷だ。ゆえに、隠れていたものを見えるようにしたり、見えているものを隠したりできることになる──海中から引き揚げようが深海へ沈めようが、同じ氷なのだから。
同じ一つの思考が意識的にも無意識的にもなれる、二つの状態を飛び移ることができる、とこの比喩[メタファー]は示唆している。したがって、かつて無意識的であった一つの思考を意識という光のもとへ連れ出すことが(気軽に振り返る、真剣に自己省察する、精神分析を受けるなど手段はともあれ)できたり、意識的な思考を無意識へ沈めることが(たんに忘れて、または抑圧という謎めいた心理過程によって)できたりすることになる。
⚫︎無意識は消化と同じである
氷山の比喩を広げていけば、この話は個々の思考だけでなく、思考という過程のすべてにも当てはまる。
つまり意識的な思考の連なりは、もやもやとした無意識の熟考や苦悩や象徴的解釈と同時進行していると前提され、そうした無意識的な心の活動は意識的思考と同じ素材でできていることになる。唯一の違いは、意識的な自覚の水準へ浮かび上がることなく水面下に留まっていることのみ、というわけだ。
思考のサイクルという観点からいえば、これほど誤解を招くメタファーはない。
私たちが意識するのはつねに感覚情報の解釈の結果であり、その結果が創り出される過程は決して意識されない。意識と無意識の分割は、思考の種類の違いを区別しているのではなく、これは個々の思考そのものの内にある分割なのだ。
つまり、思考の意識的結果と、その結果を創り出した無意識のプロセス、というところにこそ境界線がある。
意識的思考と無意識的思考があるのではない。同じ思考が意識に入ってきたり出て行ったりする、ということも当然ない。
思考には一つの種類しかなく、そして、どんな思考にも二つの側面がある。意識的な読み出しと、その読み出しを生成した無意識的過程だ。私たちは脳内の無意識的過程を意識することはできない。消化の化学的過程や、筋肉の生物物理学的過程を意識できないのと、それは同じことなのだ。
⚫︎脳は一度に一つのことしかできない
無意識的思考、というのは魅力的かつ強力な神話だ。だが無意識の思考などというのは、その可能性すら脳の根本的な動作原理(その瞬間の課題のみに向けて何十億という数のニューロンを活用する協働的な計算であること)と衝突している。
この結論はフロイト以前なら十分に自然だったはずであり、無意識的思考なんていう発想のほうがおかしくみえたに違いない。かつて思考は、意識的経験と固く結びついたものと捉えられていた。
だがフロイト以降、私たちは「無意識」なる発想にあまりに慣れ親しんでしまった。思考や行動に予想外のところ、矛盾しているところ、鋭い洞察を示すところ、自滅的なところがあれば、なんでもかんでも、神秘的な水面下のさまざまな力が、ひ弱でたぶんちょっとお馬鹿な意識的自己を翻弄しているせいだということになってしまった。
しかし本書の主張が正しいなら、意識的な心が行う処理の陰でもう一つ別の心だかシステムだか思考様式だかがこっそり作動している、などということはあり得ない。脳は(少なくとも特定の一つのニューラルネットワークは)一度に一つのことしかできないのだから。
⚫︎解釈の束としての意識
ここまで見てきたように、思考のサイクルは、私たちにその存在や動作が見えるものではまったくない。その出力、すなわち感覚情報の有意味なまとまりのみが意識されるのだ。
意識的経験の流れは「意味」の連なりであり、しかしそれらの意味を生成する処理(と、その処理が働きかける感覚データや記憶)は、決して直接には知り得ない。
これはおそらく驚くようなことではない。肺や胃の働きだって内観できないのに、脳だけが特別な理由があろうか?
神経科学者たちも、脳には複数の意思決定システム(そのうち最大で一つが意識的に作動する)があり、どう考えたりどう行動したりすべきかについて複数の競合するオススメを生成しているのではないか、と提起してきた。
しかし、水面下に暗く巨大な質量を秘めた氷山という捉え方には、ひどく欠陥のある重要な前提が隠れている。
氷山なら海面の上も下も同じ物質であり、光の及ばぬ海中深くであろうと、陽を浴びてきらきら光る頂上部であろうと、氷は氷だ。ゆえに、隠れていたものを見えるようにしたり、見えているものを隠したりできることになる──海中から引き揚げようが深海へ沈めようが、同じ氷なのだから。
同じ一つの思考が意識的にも無意識的にもなれる、二つの状態を飛び移ることができる、とこの比喩[メタファー]は示唆している。したがって、かつて無意識的であった一つの思考を意識という光のもとへ連れ出すことが(気軽に振り返る、真剣に自己省察する、精神分析を受けるなど手段はともあれ)できたり、意識的な思考を無意識へ沈めることが(たんに忘れて、または抑圧という謎めいた心理過程によって)できたりすることになる。
⚫︎無意識は消化と同じである
氷山の比喩を広げていけば、この話は個々の思考だけでなく、思考という過程のすべてにも当てはまる。
つまり意識的な思考の連なりは、もやもやとした無意識の熟考や苦悩や象徴的解釈と同時進行していると前提され、そうした無意識的な心の活動は意識的思考と同じ素材でできていることになる。唯一の違いは、意識的な自覚の水準へ浮かび上がることなく水面下に留まっていることのみ、というわけだ。
思考のサイクルという観点からいえば、これほど誤解を招くメタファーはない。
私たちが意識するのはつねに感覚情報の解釈の結果であり、その結果が創り出される過程は決して意識されない。意識と無意識の分割は、思考の種類の違いを区別しているのではなく、これは個々の思考そのものの内にある分割なのだ。
つまり、思考の意識的結果と、その結果を創り出した無意識のプロセス、というところにこそ境界線がある。
意識的思考と無意識的思考があるのではない。同じ思考が意識に入ってきたり出て行ったりする、ということも当然ない。
思考には一つの種類しかなく、そして、どんな思考にも二つの側面がある。意識的な読み出しと、その読み出しを生成した無意識的過程だ。私たちは脳内の無意識的過程を意識することはできない。消化の化学的過程や、筋肉の生物物理学的過程を意識できないのと、それは同じことなのだ。
⚫︎脳は一度に一つのことしかできない
無意識的思考、というのは魅力的かつ強力な神話だ。だが無意識の思考などというのは、その可能性すら脳の根本的な動作原理(その瞬間の課題のみに向けて何十億という数のニューロンを活用する協働的な計算であること)と衝突している。
この結論はフロイト以前なら十分に自然だったはずであり、無意識的思考なんていう発想のほうがおかしくみえたに違いない。かつて思考は、意識的経験と固く結びついたものと捉えられていた。
だがフロイト以降、私たちは「無意識」なる発想にあまりに慣れ親しんでしまった。思考や行動に予想外のところ、矛盾しているところ、鋭い洞察を示すところ、自滅的なところがあれば、なんでもかんでも、神秘的な水面下のさまざまな力が、ひ弱でたぶんちょっとお馬鹿な意識的自己を翻弄しているせいだということになってしまった。
しかし本書の主張が正しいなら、意識的な心が行う処理の陰でもう一つ別の心だかシステムだか思考様式だかがこっそり作動している、などということはあり得ない。脳は(少なくとも特定の一つのニューラルネットワークは)一度に一つのことしかできないのだから。
⚫︎解釈の束としての意識
ここまで見てきたように、思考のサイクルは、私たちにその存在や動作が見えるものではまったくない。その出力、すなわち感覚情報の有意味なまとまりのみが意識されるのだ。
意識的経験の流れは「意味」の連なりであり、しかしそれらの意味を生成する処理(と、その処理が働きかける感覚データや記憶)は、決して直接には知り得ない。
これはおそらく驚くようなことではない。肺や胃の働きだって内観できないのに、脳だけが特別な理由があろうか?
したがって本書は、思考や言動の支配権をめぐって競い合う二つのシステムがあるなどとは想像せず、ただ一つのシステムが一回転するたびに感覚情報に意味を押しつけようと奮闘している、とみなすのである。
そうした有意味な解釈の数々が意識となり、パターンや物体、色、声、単語、文字、顔などに満ちた世界をもたらしている。
それらの解釈に到達したのは脳のどういう処理を経てなのかを意識できないのは、ほかの各種の生理学的過程を意識できないのとまったく同じなのだ。
そうした有意味な解釈の数々が意識となり、パターンや物体、色、声、単語、文字、顔などに満ちた世界をもたらしている。
それらの解釈に到達したのは脳のどういう処理を経てなのかを意識できないのは、ほかの各種の生理学的過程を意識できないのとまったく同じなのだ。