その昔、ゲートボールが老人の間で流行ったことがある。今は見る影もない。
人づてに聞いた話によれば、特定の人を狙い撃ちにできるのだそうだ。いつも狙われ人からすればたまったものではない。いつもいつも狙われるのであれば、やる意味がなくなる。そういう相手に対する怨念だけが残る。
同様に勝敗が付くスポーツも同様のことが言える。
ダブルスでは、弱い方に球を集め、ミスを待つ。セオリー的には当然だ。
しかし、弱い方にばかり球を集められると、球がこない方は、ムッとするものだ。狙われている方は、またかと思う。
勝者と敗者の間の会話も微妙な部分がある。無神経に勝った、勝ったと嬉しがると、あの人だけには負けたくない、と相手に思われることにつながりやすい。
相手が、多少調子を落としている時や、プレーで悩んでいる際の無神経な勝利者の談話は禁物と言える。なぜなら、相手に練習、体力づくり冷静に対応しようとする動機を与えることになるからだ。
ホームランを打ったプロ野球選手が、ベース1周ランンニングする際に、なぜかガッツポーズをとらない理由、お気づきであろうか?
お互い人間同士、楽しいことも嫌なことも起きることが世の常だと考えれば、楽しむためにやっていることについて、勝敗に異常にこだわればこだわるほど、仲間をなくすか相手が去っていくことを受け入れるしかなくなるであろう。
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