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ご存知!?  教科書から削除された士農工商 

2016年05月03日 | 日記
「教科書から削除された士農工商」
 
士農工商とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。
「四民」ともいう。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、
1990年代ごろから実証的研究が進み、誤った認識であることが理解されるようになった。
 
 
士農工商(四民)は、古代中国から用いられた言葉で、紀元前1000年頃には既に見られる。
意味としては、漢書に「士農工商、四民に業あり」とあるように、「民」の職業は4種類に
大別されるということになる。
そして、これを連続して表記することで、「老若男女」のように、あらゆる職業の民、
つまり「民全体」または「みんな」といった意味で使われる。
 
近世日本では、遅くとも17世紀半ばまでに「士」が武士を意味するように意味が改変されて受け入れられた。
また、近代以降には「士農工商」が近世の身分制とその支配・上下関係を表す用語として認識されるようになった。
しかし、1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが実証的研究
から明らかとなり、2000年代には「士農工商」の記述は教科書から外されるようになった。
これに関係して、「四民平等」も本来の意味(すべての民は平等)ではなく、「士農工商の身分制からの解放」
という認識を前提に用いられたものであったため、教科書から消された。 
ただ、昭和時代の教育を受けた人を中心に未だ士農工商は身分制として認識されていることがある。
 
なお、上記はあくまで近世日本に「士農工商という身分制」が存在しないということであって、
「士農工商」という言葉は当時も(本来の意味で)用いられており、「身分制」も存在していることに注意されたい。
 
 
歴史
士農工商とは中国の春秋戦国時代(諸子百家)における「民」の分類で、例えば『管子』には「士農工商四民、国の礎」と記されている。
士とは知識人や官吏などを意味し、農業、工業、商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語になっていった。
四民の順序は必ずしも一定せず、『荀子』では「農士工商」[5]、『春秋穀梁伝』では「士商農工」の順に並べている。
なお、中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。
商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を
嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。
これを理論化したのが、孔子の儒教である。
士農工商の概念は奈良時代までには日本にも取り入れられ、続日本紀卷第七では「四民の徒、おのおのその業あり」などと記されている。
日本における「士」がいつごろ本来の意味から武士を意味するように改変されたかは明確ではないが、
遅くとも17世紀半ばまでにはそのような用法が確立とした思われる。文献的証拠として、慶長8年(1603年)に
イエズス会の宣教師が出版した『日葡辞書』と呼ばれる辞典には「士農工商」の項目が収録されている。
 
 
兵農分離
異説もあるが、徒士や足軽の多くが武装した農民から発生したものであるため、「士」と「農」の違いはかなり曖昧なものであった。
その転換期は戦国時代後期である。天正9年(1582年)頃から始まった太閤検地や天正16年(1588年)の刀狩によって、
それまで比較的流動性があった武士と百姓が分離され、その職業(身分)が固定化されるようになった。
こうした兵農分離政策は江戸時代に強化され、職業は世襲制となった。
また、「士」(武士)が「四民」ではなく支配者層として他の四民(三民)より上位に置かれ政治を行う階級とされたが、
江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により商人が政治、経済に大きな影響力を持つようになり、大名貸のように武士が経済的に商人に依存するようになった。
このため商人は町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいた。
 
 
 
大隈重信(幕末の武士(佐賀藩士、志士)
これに類する立場として医師の存在があげられる。尾張藩の人見黍(弥右衛門)が、
「医師は素より四民の内なれど、今は別の物なり。
商人の外、医ほど利の多きものはなし」(『太平絵詞』)と記したように、医師に対しては通常の四民にはない特権が認められていた。
例えば、『武家諸法度』によって上級武士以外に自由に乗ることが許されなかった駕籠の利用を僧侶と医師に関しては例外として認められていた。
更に農民や商人の子弟でも医師のもとで医学を学び領主の許可を得れば開業が可能であり、
その能力が優れていれば、幕府や藩に召し抱えられて下級武士並の待遇が与えられることも多くあった。
さらに藩の召し抱えで職人が昇格することも多くあった。例として田中久重が挙げられる。
 
 
 
 
江戸時代の身分体系
上記のように士農工商の職業概念は実際の身分制度とは大きく異なっている。江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、
「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。
また、「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。
この制度では、百姓を村単位で、町人を町単位で把握し、両者の間に上下関係はなかった。
なお、百姓の生業は農業に限られるものではなく、海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。
このような風潮に対し、天保の改革最中の天保13年(1842年)9月の御触書には「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」
という文があり、併せて農村出身の奉公人の給金に制限を設けているが、これは農業の衰退に繋がる事を危惧した幕府の対応策であったと考えられる。
つまり、江戸時代における百姓とは農業専従者である「農人」ではなく商人、職人を含む農村居住者全般を意味する言葉であったのである。
このように、実際の江戸時代の身分制度は士農工商の職業概念から大きく乖離していた。
 
 
 
 
 
差別用語としての「士農工商」
「士農工商穢多非人」の語は江戸時代には存在しなかったとされており、明治7年(1874年)に初めて使用されて以後、
昭和初期の融和教育の中で頻繁に使われるようになったと考えられているが、「士農工商○○」
(○○の部分には「芸能人」「予備校生」「アナウンサー」などの語が入り、しがない身分を自嘲的に表現するのに使う)
との表現は差別の深刻さを茶化すことにつながるという主張から、1980年代以降は解放同盟の糾弾を受けるようになり、
放送禁止用語として扱われている。具体的には、以下の糾弾事例がある。
 
TBS糾弾事件
1981年8月6日のTBS系のテレビドラマ『虹色の森』(大阪毎日放送制作)に「士農工商、その下がうちだよ」との台詞が登場。
これに対し、広島や熊本の解放同盟関係者が怒鳴り込んだ。これ以後、解放同盟中央本部はこの種の表現を軒並みに糾弾するようになった。
 

週刊文春糾弾事件
『週刊文春』1985年5月9日号に筒井康隆による「士農工商SF屋」との表現が掲載されると、解放同盟が抗議。
筒井は「多種多様な業界で自嘲的に使われている成句であり、その限りにおいて差別の隠喩にもなりえない」
と突っぱねたが、文春は解放同盟に謝罪した。
その後、解放同盟から筒井に「週刊文春とは話がついたが、あなたとはまだついていない」との電話があった。
「話をつける」とはこの場合あきらかに「詫びさせる」という意味だったので、筒井は話し合いを断った。
すると解放同盟は「この電話は個人の資格で言っているのではなく、背後には解放同盟20万の人間がいる」と言った。
この言葉に逆上した筒井は思わず「20万が200万であろうと」云々と怒鳴りあげ、後になってからそのことを大人げない行為と反省
しつつも「これはやはり先方の言い方に問題があるので、この言い方をされたらたいていの者は脅えるか怒るかなのだ」
と解放同盟にも反省を促している。
この一件につき、野町均は「差別表現をネタに背後には解放同盟20万の人間がいると恫喝めいたことを
口にするような姿勢がどれほど堕落したものであるかはおのずと明らかであろう」と批評している。

~Wikipedia~