下記、記事はブログ管理者の愛和さんの許可をいただき
転載しています。
《福島の現実――福岡百子の声》 2017.10.1
最後のご挨拶
世界中、何処に目を向けても、自然は異変を起こし、人の心も平和を失い、いつ、何が起きても不思議でない時代になりました。
どうしてこうなってし まったのでしょうか? 皆さん悲しいですよね。もう平和な時代は戻らないのでしょうか? 誰かの責任でしょうか?
貧富の差は激しくなり、命が粗末にさ れ、憐れみの心は失われ、排他主義。国民の為の共有資源や財産は独占化され、愛は消え、氷のような冷たい世の中になってしまいました。
今は浄化の時に入っ た、善天使と悪天使の闘いの時、と言う人もいます。そうかも知れません。そうならば、自分の心が悪天使に引きずられないように毅然としなければならないで しょう。
今日は皆様に驚かせてしまうことをお伝えしなければなりません。
実は私は、今日まで福島被災者の支援活動に専念させて頂き、沢山の方々に協力者に なって戴きながら、6年半の間、被災者支援の仲立ちをさせて頂きました。
私としては断腸の思いですが、健康上、続ける事が出来なくなりました。それは私自 身死が近いことを感じるようになったからです。
全ての人に寿命があります。私は感じた以上、皆様に、これまでの感謝と共に、なるべく私の志を引き継いて行って戴きたいと、切に心からお願い申し上げます。
皆様もすでにご存知でいらっしゃいますが、福島の被災者は、国から見捨てられた状態です。被災地は未だ除染も不十分で、放射線量の高い所がありま す。
6年半放置された被災地は、荒地に化して自宅は壊れ、雑草と言うより薮化、猪、アライグマ等動物達の住み家となり、店も病院も何も無く、夜は真っ暗闇 となり泥棒もいて、治安が悪くなっています。
本来、国は、帰還宣言をする以前に、人が安心して住める環境作りをしてから、帰還宣言するのが常識と思うのですが。
国は、帰還宣言ありきを目標に し て、除染を1、2回して、被災者をとにかく帰還させることを目標にしており、町作りの費用も資金も改善策も出さす、
つまり被災者は、壊れた家の建築費用は もらえず、薮、雑草刈りもしてもらえず、動物駆除対策もされず、町の予算にも入れてもらえず、
全てを帰還する高齢者(70代~90代の独り暮らし)、被災 者に「してください」と丸投げしているのが現状です。店が無いので、食料が手に入りません。
被災者の声です。「野菜は何とか作るけど、魚、肉も食べた い! 何も無くて困ってしまった。自動車がある人は買いに行けるけど、足腰悪く、目も不自由となった年寄りは、食料が手に入らない。
それに、隣が離れて いるし、帰らない人も多いから、人に会わなくなった。寂しくてたまらない。夜は真っ暗になる。病院も無いので不安です。頼る人がいません。」
皆様、これが福島原発被災地の現実です。
ある被災者は言ってました。「国は、始めから、我々原発被災者を見放す予定でした。早 く帰還宣言をして、年寄だけが帰り、やがて皆は死んで行く、双 葉郡は無人の街と化し、
こうして双葉郡は人々から忘れられ、何事も無かったかのように、人々から忘れられて行く。国は原発事故の事を国民に忘れさせたいの です。
始めからその計画でした。だから、我々の情報が流れるのを怖がって我々を隔離し、我々にも情報を閉じてました。我々は放射能故に、 故郷にはもう、帰 れないと覚悟してました。
国は我々に<此処に移り住みなさい、此処に第2の故郷を造りなさい>と毎に新しい街造りに向けてくれると思って いた。
役場も学校も病院も店も家族も別れることなく一緒にの仲間と街造りをすると思っていた。まさか、家族が幾重にもバラバラとなり、避難がこんなに 長くなり、見捨てられるとは思ってもいなかった。」
皆様、あまりにも無慈悲とは思いませんか? 電気の明るさやネオンを見るたびに、陰で泣いてる福島の被災者を思い出していただきたいと思います。
福島の被災者の仮設住宅は来年で終わり、壊すとのことです。今年もだいぶ壊しましたが、移る家の無い人もまだまだおられます。身内の無いお一人暮らしのお年寄りが。
福島被災者の裁判は遅々として進んでいません。賠償してもらえず苦しんでおられる被災者の方々にも、どうぞ皆様、支援の手を差しのべてくださいますようお願い申し上げます。
2011年3月11日の時を思い出します。あの時、日本の全国民も、世界の人も、被災者の命が助かる様にとひとつの心になって祈りました。
皆が被 災 地の復興を願い、福島の復興を誓い合いました。国も私達も一生懸命でした。被災者を気遣い、幸せのために私達も立ち上がりました。
私はその頃、足が悪 く、外出が出来ないでいました。「私は被災者の為に何が出来るか? 口が有るではないか? なら話せる。手も動くではないか? 自宅には電話がある。手 と口を使って出来る支援をしょう。」
まず朝日新聞のコラムを見ました。支援する人を決めて、福島の県庁に電話をし、避難所を聞き、大熊町の被災者に支援することができました。
大熊被 災 者は裏磐梯のホテルに避難していることを知り、友達に避難所に支援品送りを願い、クチコミで北海道から九州までの支援協力者が大熊町の5箇所の避難所に、
その後は大熊町19箇所の仮設に支援を届けました。
私は被災地の情報集めをし、状況を支援者に手書きのFAXでお知らせをしました。
又、放射能汚染を怖がって福島に支援品が届かないのを知った私は、 先ず、総 理大臣、各大臣、全ての党の幹部に、主な宗教団体の幹部に、
支援活動をしておられると思う拠点に、手紙を書き、電話、FAX、私が出来る情報手段 をフル回転させてあらゆる事をしたつもりです。
近所のスーパーに行き、食品、下着、日用雑貨会社の住所を調べ、社長宛てに手紙を書きました。朝日、毎日、 読売、日経、東京新聞の編集長に。
NHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビの報道局長に手紙を書き、支援が届かず苦しんで おられる福島の現状を伝え、支援の協力を願いました。
しかし返答はなく、あったとしても冷ややかなものでした。
「私達はする相手が決まっています。福島は するつもりがありません」何故?と思いました。
唯一答えてくれたのが、業務スーパー(神戸物産)の沼田博和社長様です(兵庫県加 古郡本社)。
社長様は宮城、岩手、福島の被災者のために3億円分の 食品をしてくださいました。社長様のおかげで私は全双葉郡の仮設、施設、
学校に食品を送ることが出来、役場の方、被災者と交流を持つことが出来ました。そ れが今でも続いております。
ご支援戴いた皆様には、私はどんなに支えていただいたかわかりません。本当に有難いで した。私達はもう他人ではなく家族、同朋でした。
私達も被災者 も天のご縁で結ばれた仲間で、神様と心をひとつにした家族でした。私達が大切にして来たことは、神様の志。互いに愛すること、幸せを願うこと、命を大切に することでした。
私は皆様とご縁を頂き本当に幸せ者でした。
感謝しても感謝し尽くせません。
本当にありがとうございました。
唯一の気がかりは被災者の行く末です。可能な中で、被災者を支えてくださいますよう、お願い申し上げます。ご支援にご協力戴きました方々に、呉々も宜しくお伝えくださいませ。
そして皆様も、お体を大切にお過ごしくださいませ。そして不足の多かった私をお許しくださいませ。どうぞ私の為にお祈り宜しくお願い申し上げます。心から感謝申し上げております。
尚、体験を少しでもお役に立てたいと思いまして、残る日々に、ツイッターをと思い始めました。[もとシスター人生体験]という名前です。ご覧頂ければ幸せです。
心から感謝を持って!
神様に感謝しつつ。栄光を讃えて!
福岡百子